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時と色が死んだ世界
忘れ去られた子供たち〜私達の前に姿を現したのは『第一王女様』でした〜
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私たち三人は同時に振り返った。
灰色の草原のずっと向こう。ぼやけた空の境目に、ぼんやりとした少女の姿があった。
「……圭吾?」
少女はまだ遠くにいたが、なぜかはっきりと分かった。
あれは、小説の中で描かれた圭吾。
親に忘れ去られ、誰にも気づかれず、そして突然物語から消えたあの子だ。彼女は灰色の草原の中に、ぽつんと立っていた。けれど、よく見ると、彼女の足元にだけ、ごくわずかに緑が差していた。まるで彼女が立つ場所だけが、世界の中で色を思い出しているかのようだった。
「ねえ……圭吾、なの?」
蓮くんが一歩、前に出る。けれど、圭吾は一歩も近づいてこない。ただ、こちらを見ていた。表情は読めない。でも、その瞳の奥に、確かに何かを訴えるような光が宿っていた。
「圭吾は、まだこの世界のどこかに『閉じ込められてる』んじゃないかな」
私はふいに、そう言葉が口をついて出た。
「物語の中から消えたんじゃなくて、記憶の隙間に沈んでしまったみたいに。」
蓮くんが頷いた。
「だから……俺たちが呼び戻すんだ。」
りこちゃんが、蓮くんの青いハンカチの端をそっとつかんだ。
「りこも行く。」
私と蓮くんが同時に振り向く。
「りこ、この世界に残る人の気持ち、ぜんぶは知らないけど、少しだけ分かった気がするの。だから、圭吾ちゃんのところに行く。あの子、さみしいんだと思う。」
そう言って、りこちゃんはそっと私たちの前に出た。足元の灰色の草原に、彼女の足が触れた瞬間、ごくわずかに草が揺れた。そして、小さな、けれど確かな緑がその後ろに残った。
りこちゃんが歩くたびに、草が目覚めていく。彼女の一歩一歩が、灰色の世界に色を取り戻す。
圭吾の姿がゆっくりと近づいてくる。
──たぶんこれは、記憶を取り戻すための旅なんだ。誰かの記憶。小説の中の想い。過去の後悔。失ったもの。それらが再びつながることで、圭吾も、そしてこの世界も、きっと「色」を思い出せる。
りこちゃんが圭吾の目の前に立った。りこちゃんは自分より頭一個分くらい背の高い圭吾の目をじっと見つめていた。圭吾の腰まである長い髪が、空に浮かぶ光の環に照らされていた。漆黒に金色がわずかに混じった、タイガーアイみたいだった。
「圭吾ちゃんの目、きれい。」
りこちゃんがそう言って圭吾に手を伸ばした瞬間、電気が走るような音とりこちゃんの叫び声がした。
私がその音に気付いたころには、蓮くんはすでに血相を変えてりこちゃんのところへ駆けつけていた。私も蓮くんの後を追う。
りこちゃんはしりもちをついて、右手を左手で抑えていた。背中をさすってあげると、りこちゃんから声にならないような泣き声が聞こえた。
嫌な思い出を突然思い出した。
昔、幼稚園に通っていた時、パパとママをびっくりさせて褒めてもらおうと思って、峻兄ちゃんと二人でパパとママが仕事で出かけている間に家族全員の好物であるパスタを作ろうとしたんだ。
今思えばすごく危ないけど、私は鍋からお湯がブクブクと沸く音に興奮を隠せなかった。何だか大人になれたような気分でいた。
でも、所詮は子供だった。
自分の背よりも高いぐらいのコンロに水の入った鍋を無理やり乗せたせいで、鍋がちゃんとコンロの真ん中に置かれていなかった。
痛みに気付いたときには私の身体はずぶ濡れで、火に焼かれるような感覚だった。
泣きたいのに泣けなかった。
痛みがあまりに強すぎると、人間は泣くことさえできなくなってしまうんだ。
峻兄ちゃんが慌ててママとパパに試行錯誤しながら固定電話から電話をした。ママたちが仕事を早退して、ママは私を、パパは峻兄ちゃんを強く抱きしめながら、もう二度とこんなことしないでと泣きながら怒った。
やけどをした痛みと、ママたちに喜んでもらいたかったのに正反対のことをしてしまった痛みに、ママに抱きしめてもらえている安心感が少し混じって、私はやっと泣くことが出来た。
「りこちゃん、手見せてみ?」
りこちゃんの左手をそっと、どかす。りこちゃんの右手には、何とも形容しがたい色のひび割れみたいな線が何本も走っていた。血じゃない何かが、りこちゃんの身体の中をうねうねとうねっていた。
「圭吾が、拒絶してる?」
蓮くんの言葉は、捲ろうとしたページが破れた時の音をしていた。
「りこちゃん……」
私がそっと呼びかけると、りこちゃんはぎゅっと唇を噛んだまま、こくんと頷いた。頬には涙の筋。だけど、瞳の奥にあったのは恐怖でも諦めでもなく――ただ、真っ直ぐな意思だった。
「圭吾ちゃん、痛かったんだね……すっごく、痛かったんだ。」
りこちゃんの震える声は、まるでその痛みを代わりに抱えてあげようとするみたいに、静かに空気を揺らした。
その声に呼応するように、圭吾の周囲を流れていた金色の光が、わずかに揺れた。
圭吾は一歩も動かず、ただその長いタイガーアイのような髪を風に揺らしながら、じっとりこちゃんを見つめ返していた。その瞳の奥には、炎に焼かれたような傷跡が、まだ残っている気がした。
「触れちゃいけないんだと思ってたの。誰にも。私のこと、思い出されないのも、その方が楽なのかもしれないって、ずっと……」
圭吾の口が、ようやく動いた。
その声は風の中に溶けてしまいそうなほどか細かったけど、確かにそこに「自分を消すことを選んだ人」の哀しさがあった。
「でも、りこは……思い出してって言った。忘れないでって。あれ……あたしが、言いたかったことなんだと思う。」
圭吾の金色の光が、少しずつりこちゃんの方へと流れはじめた。でも、まだ触れない。傷が残っている。蓮くんが、そっとりこちゃんの肩に手を置いた。
「圭吾。俺たちは、君を忘れたくない。……忘れてたことを、悔やんでる。」
蓮くんの声もまた、圭吾の魂の奥に届こうとしていた。圭吾の瞳が、一瞬だけ、揺れた。そのとき。
りこちゃんの右手に刻まれたひび割れのような模様から、淡く光る青い線がすーっと一筋、空へ向かって伸びていった。
その線は圭吾の足元に、静かに到達した。まるで、水面を揺らすように。まるで、記憶にやさしく触れるように。
圭吾の口元が、かすかに震えた。
「……わたし、りこちゃんの手……あったかかった」
その言葉を最後に、圭吾の体からふっと力が抜けたように、草原に膝をついた。蓮くんと私は息を呑んだ。けれど、そこには絶望ではなく、ほんの一滴だけ希望の光が差し込んでいるように思えた。
世界のどこかで、時計の針が一目盛りだけ動いたような、そんな気がした。
灰色の草原のずっと向こう。ぼやけた空の境目に、ぼんやりとした少女の姿があった。
「……圭吾?」
少女はまだ遠くにいたが、なぜかはっきりと分かった。
あれは、小説の中で描かれた圭吾。
親に忘れ去られ、誰にも気づかれず、そして突然物語から消えたあの子だ。彼女は灰色の草原の中に、ぽつんと立っていた。けれど、よく見ると、彼女の足元にだけ、ごくわずかに緑が差していた。まるで彼女が立つ場所だけが、世界の中で色を思い出しているかのようだった。
「ねえ……圭吾、なの?」
蓮くんが一歩、前に出る。けれど、圭吾は一歩も近づいてこない。ただ、こちらを見ていた。表情は読めない。でも、その瞳の奥に、確かに何かを訴えるような光が宿っていた。
「圭吾は、まだこの世界のどこかに『閉じ込められてる』んじゃないかな」
私はふいに、そう言葉が口をついて出た。
「物語の中から消えたんじゃなくて、記憶の隙間に沈んでしまったみたいに。」
蓮くんが頷いた。
「だから……俺たちが呼び戻すんだ。」
りこちゃんが、蓮くんの青いハンカチの端をそっとつかんだ。
「りこも行く。」
私と蓮くんが同時に振り向く。
「りこ、この世界に残る人の気持ち、ぜんぶは知らないけど、少しだけ分かった気がするの。だから、圭吾ちゃんのところに行く。あの子、さみしいんだと思う。」
そう言って、りこちゃんはそっと私たちの前に出た。足元の灰色の草原に、彼女の足が触れた瞬間、ごくわずかに草が揺れた。そして、小さな、けれど確かな緑がその後ろに残った。
りこちゃんが歩くたびに、草が目覚めていく。彼女の一歩一歩が、灰色の世界に色を取り戻す。
圭吾の姿がゆっくりと近づいてくる。
──たぶんこれは、記憶を取り戻すための旅なんだ。誰かの記憶。小説の中の想い。過去の後悔。失ったもの。それらが再びつながることで、圭吾も、そしてこの世界も、きっと「色」を思い出せる。
りこちゃんが圭吾の目の前に立った。りこちゃんは自分より頭一個分くらい背の高い圭吾の目をじっと見つめていた。圭吾の腰まである長い髪が、空に浮かぶ光の環に照らされていた。漆黒に金色がわずかに混じった、タイガーアイみたいだった。
「圭吾ちゃんの目、きれい。」
りこちゃんがそう言って圭吾に手を伸ばした瞬間、電気が走るような音とりこちゃんの叫び声がした。
私がその音に気付いたころには、蓮くんはすでに血相を変えてりこちゃんのところへ駆けつけていた。私も蓮くんの後を追う。
りこちゃんはしりもちをついて、右手を左手で抑えていた。背中をさすってあげると、りこちゃんから声にならないような泣き声が聞こえた。
嫌な思い出を突然思い出した。
昔、幼稚園に通っていた時、パパとママをびっくりさせて褒めてもらおうと思って、峻兄ちゃんと二人でパパとママが仕事で出かけている間に家族全員の好物であるパスタを作ろうとしたんだ。
今思えばすごく危ないけど、私は鍋からお湯がブクブクと沸く音に興奮を隠せなかった。何だか大人になれたような気分でいた。
でも、所詮は子供だった。
自分の背よりも高いぐらいのコンロに水の入った鍋を無理やり乗せたせいで、鍋がちゃんとコンロの真ん中に置かれていなかった。
痛みに気付いたときには私の身体はずぶ濡れで、火に焼かれるような感覚だった。
泣きたいのに泣けなかった。
痛みがあまりに強すぎると、人間は泣くことさえできなくなってしまうんだ。
峻兄ちゃんが慌ててママとパパに試行錯誤しながら固定電話から電話をした。ママたちが仕事を早退して、ママは私を、パパは峻兄ちゃんを強く抱きしめながら、もう二度とこんなことしないでと泣きながら怒った。
やけどをした痛みと、ママたちに喜んでもらいたかったのに正反対のことをしてしまった痛みに、ママに抱きしめてもらえている安心感が少し混じって、私はやっと泣くことが出来た。
「りこちゃん、手見せてみ?」
りこちゃんの左手をそっと、どかす。りこちゃんの右手には、何とも形容しがたい色のひび割れみたいな線が何本も走っていた。血じゃない何かが、りこちゃんの身体の中をうねうねとうねっていた。
「圭吾が、拒絶してる?」
蓮くんの言葉は、捲ろうとしたページが破れた時の音をしていた。
「りこちゃん……」
私がそっと呼びかけると、りこちゃんはぎゅっと唇を噛んだまま、こくんと頷いた。頬には涙の筋。だけど、瞳の奥にあったのは恐怖でも諦めでもなく――ただ、真っ直ぐな意思だった。
「圭吾ちゃん、痛かったんだね……すっごく、痛かったんだ。」
りこちゃんの震える声は、まるでその痛みを代わりに抱えてあげようとするみたいに、静かに空気を揺らした。
その声に呼応するように、圭吾の周囲を流れていた金色の光が、わずかに揺れた。
圭吾は一歩も動かず、ただその長いタイガーアイのような髪を風に揺らしながら、じっとりこちゃんを見つめ返していた。その瞳の奥には、炎に焼かれたような傷跡が、まだ残っている気がした。
「触れちゃいけないんだと思ってたの。誰にも。私のこと、思い出されないのも、その方が楽なのかもしれないって、ずっと……」
圭吾の口が、ようやく動いた。
その声は風の中に溶けてしまいそうなほどか細かったけど、確かにそこに「自分を消すことを選んだ人」の哀しさがあった。
「でも、りこは……思い出してって言った。忘れないでって。あれ……あたしが、言いたかったことなんだと思う。」
圭吾の金色の光が、少しずつりこちゃんの方へと流れはじめた。でも、まだ触れない。傷が残っている。蓮くんが、そっとりこちゃんの肩に手を置いた。
「圭吾。俺たちは、君を忘れたくない。……忘れてたことを、悔やんでる。」
蓮くんの声もまた、圭吾の魂の奥に届こうとしていた。圭吾の瞳が、一瞬だけ、揺れた。そのとき。
りこちゃんの右手に刻まれたひび割れのような模様から、淡く光る青い線がすーっと一筋、空へ向かって伸びていった。
その線は圭吾の足元に、静かに到達した。まるで、水面を揺らすように。まるで、記憶にやさしく触れるように。
圭吾の口元が、かすかに震えた。
「……わたし、りこちゃんの手……あったかかった」
その言葉を最後に、圭吾の体からふっと力が抜けたように、草原に膝をついた。蓮くんと私は息を呑んだ。けれど、そこには絶望ではなく、ほんの一滴だけ希望の光が差し込んでいるように思えた。
世界のどこかで、時計の針が一目盛りだけ動いたような、そんな気がした。
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