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第一章 蛍の光
ランドセル
しおりを挟む蛍が生まれた後、時はあまりにも慌ただしく過ぎ去って行った。陽炎が瞬きをする度に、蛍は眼にも止まらぬ速さで成長しているように陽炎には思えた。
陽炎がふと蛍に目をやった時に寝返りを打てるようになったかと思えば、ふと瞬きをした時には既に立ち上がり、足元が覚束ないながらもヨチヨチと懸命に歩いていた。
陽炎がふと息を吸った時に蛍が保育園の行事を楽しんでいたかと思えば、息を吐いた時には既に両親とともにランドセルを選びに買い物に出かけていた。
陽炎自身も時を経て、10歳になっていることに気付いたのは、蛍が人生の新たなフェーズに向かう時だった。
蛍の自宅から車で約30分の所に、2年前に開かれたばかりの真新しい大型ショッピングモールがある。
肌を突き刺すような凍てついた風は、何時しか春の温もりを運ぶようになった。
まだ何処か幼さを残した蛍の顔は、モールに向かう車の窓から差し込む光に照らされ、僅かに紅潮している。数センチだけ開いた窓の隙間から流れ込む春の風が、蛍の前髪を気持ち強めに揺らした。蛍は何処を見つめるでもなく、背もたれに身を預けながら流れていく景色をボンヤリと眺める。陽炎は、少し緑がかっている車の窓に映る蛍の横顔をジッと眺める。陽炎は、窓に映る蛍と目が合ったが、蛍の表情は一切変わらなかった。だが、視界に入ったショッピングモールの建物が徐々に大きく見えるようになり、蛍の父親が運転する車が駐車場に入る頃には、蛍の眼は光り輝き、待ち切れないといった様子で身体が疼き出した。
モールの中は、蛍たち一家のような家族連れや学校帰りの学生たちで賑わっていた。新学期を迎える児童や学生に向けてのあらゆる文房具が大量に売り出されている。
店の一角を中でも一際鮮やかに彩るものを見つけると、蛍は繋いでいた父親の手を振り解き、一直線に駆け出していく。父親は慌てて蛍の後を追い、まだ色白で華奢な蛍の腕を掴んで引き寄せた。
「いらっしゃいませ~↗」
既に何組かの家族が、色とりどりのランドセルを並べた陳列棚の前を、悩ましそうな表情を浮かべ、ゆっくりとした足取りで行ったり来たりしていた。
蛍の父親は、中間色や蛍光色のランドセルを指差し、蛍よりも興奮した様子で妻に話し掛けた。蛍本人は、四角いとも丸いとも言えぬ歪な形をした鞄を不思議そうに黙って眺めていた。それらの鞄は、蛍の身長のほぼ半分を占める大きさだった。
「今の時代は、こんなに沢山の色があるんだね。私達が子供の時も、親に同じ事を言われたけど、比べ物にならないね」
蛍の母親も目を輝かせ、子供の目線の高さに並べられた、傷一つない新品のランドセルをグルリと見渡した。
「蛍くん、どれにする?蛍くんが好きな緑色のランドセルも沢山あるよ?」
蛍の母親は、ランドセル売り場まで響いてくるゲームセンターのジャラジャラとした喧しい音を気にしていた蛍を呼び寄せ、腰を屈めると蛍にそう話し掛けた。
「あれ」
蛍は、父親と母親が見ていた方向とは全く別の場所に置かれたランドセルを迷わず指差した。
「あれが良いの?」
そこには、黒みがかった灰色の革に赤の刺繍が所々に施されたランドセルが置かれていた。蛍が好きな緑色とは、似ても似つかぬ色だった。
「蛍、あれは?嫌?」
父親は、その隣に置かれた黄緑色のランドセルを指差したが、蛍は頑なに灰色のランドセルが良いと言い張った。
「蛍が良いって言うなら…」
両親は困惑した様子だったが、一部始終を傍らで見守っていた陽炎は戦慄した。陽炎はちょうど、灰色のランドセルが置かれていたまさにその場所に立っていたからだ。自身の存在を蛍に見抜かれたような気分だった。蛍はランドセルを見つめている筈だと信じていたが、本当は自身の姿を捉えているのではないかと不安に思った。
しかし、それは杞憂だった。陽炎が蛍の真後ろに立っても、蛍は全く気にする素振りを見せなかった。
「あ…。気付かれてなかったんだ…」
蛍は、灰色のランドセルに施された赤い剣の刺繍に魅入っていて、昼ご飯を食べに行こうと大きな声で呼び掛ける父親の声に気付きすらしなかった。蛍は、間もなく始まる新たな生活に胸を躍らせた。陽炎は蛍のその横顔を眺めた。
俺のことも見て
蛍の横顔を眺めるうちに、陽炎の心はギュッと締め付けられたように苦しくなった。
誰にも気付かれない。気付かれた時には恐れられる死神。
陽炎は、気付いてもらえない残酷さを知るには、余りに幼すぎた。
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