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第1章

29.信用と信頼の違い

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 ハニエルの言葉は聖奈の理解を越えていた。
 序列とはいったい何なのか。そもそも剥奪されたとはどうしてなのか。
 考えたところで答えはでない疑問に頭を悩ませている間にも、ハニエルとルキフェルの会話は進んでいく。

「それに、アタシだってアナタがどうしてそんな人形の体を憑代よりしろにしているのか、疑問だわ。魔力だって全盛期の何分の一かしかないんじゃないかしら?」
「我の事は苦肉の策ゆえ良いのだ! それよりも何故、貴様はそれだけの力を持ちながら大天使の座から降りた? まして序列まで剥奪されるなど前代未聞だぞ!?」
「前代未聞だろうが知ったこっちゃないわ。堅物で大真面目で頑固な奴らとやっていくのはうんざりって思ってたし、アタシにとっては願ったり叶ったりだったんだもの」
「……貴様、それでも大天使か? 否、これだから序列の剥奪を受けたのか……それで、貴様の抜けた座はどうなっている? まさか空位ではあるまい?」
「すぐに埋められたわ。四大に関しては後釜は用意してあったんでしょうね。すぐに国を出ちゃったから、誰の指名かは知らないし知るつもりもないけど」

 理解できそうにない会話が続くが、たった一つだけ聖奈にも理解できたものがある。
 それは、ハニエルは根っからの自由奔放な人物だという事だ。
 言葉の雰囲気から察するに、大天使は結構な役職のように思う。確か以前、ルキフェルが大天使を高位と言っていたから間違いはあるまい。
 だがハニエルは、そんな立場にいることを嫌がっていたのだ。
 それが本心であるかはわからないにせよ、彼の今の立ち居振る舞いを見る限り、冗談とは言い切れないだろう。

「ハニエルさんって凄い方だったんですね……」

 角砂糖とミルクを加えて紅茶をスプーンでかき混ぜていると、アリシアがぽつりと零した。聖奈は彼女に顔を向ける。

「やっぱり凄いんだ、大天使って」
「大天使であることもそうなのですが、序列と四大とおっしゃっていたので、恐らく彼は下位の天使たちや、一般の大天使たちを率い立つ立場にあったのかと」
「……それって軍とかでいう、隊長みたいなこと?」
「概ねそれで合っています」

 こくりと頷いたアリシアに、聖奈はなんとも言えない心境で紅茶に口をつける。ほんのりとした甘さの後に、独特の渋みが口の中に広がった。
 アリシアもまた自分のカップに角砂糖とミルクを落とすとそれらをラピスの前にそっと置き、スプーンでかき混ぜた。
 一連の動作を真似るようにラピスも角砂糖とミルクを加えてかき混ぜると、恐る恐る口をつける。だが途端に眉を顰め、カップを離した。どうやら熱かったらしい。

「大天使はそもそも純度の高い魔力を内包していて、故にヒトとの造りが違うのですが、その大天使の中でも高い能力を持つ者には、序列が与えられるんです。その中でも優れた能力を持つ者四人が、四大天使、と呼ばれる者たちなんです。彼らは天使兵たちを取りまとめる役目も持っていて、天使たちの中でも当然もっとも上の立場にあります」
「つまり、四大天使って……将軍、みたいな?」
「はい、そう言えます。ですが……」

 と、アリシアはそこで言葉を切った。
 持っていたカップをそっとソーサーの上に置くと、未だルキフェルとああでもないこうでもないと会話するハニエルをじっと見詰める。

「……わたし、あの方を見たことがないんです」

 たっぷりの沈黙を置いて、アリシアがそう口にした。その言葉に聖奈は小さく首を傾げる。

「見たことがないって……四大天使を見たことがあるの?」

 聖奈が尋ねると、彼女は視線を戻し一つ頷く。
 眉をハの字に下げて酷く寂しげにも映る表情で、アリシアは言いにくそうにその答えを口にした。

「魔族の国が人間と神族の連合軍に侵攻を受け、瞬く間に蹂躙じゅうりんされた時、〈勇者〉と四大天使の全員がその作戦に参加していたんです。そして、首都であった〈フェノワール〉に攻め込んできたのもまた、彼らでした」
「あ……」

 迂闊だった、と聖奈はすぐに察して、自分の思慮の浅さが嫌になった。
 アリシアの過去は決していいものだけではない。
 にも関わらず、悪い方向への一番の転機になったであろう人間と神族による首都への侵攻の時を思い出させ、あろうことか語らせるなど。自分の気遣いの甘さに後悔しか出来ない。
 だがそんな聖奈の心情を見て取ったかのように、アリシアは柔らかな笑みを浮かべた。

「セナ様、お気になさらないでください。当時の事は確かに忘れがたいものですが、貴女と共に行くと決めた以上、辛い記憶を掘り起こすことも覚悟の上。さほど気にしてはいませんので」
「……ごめんね」
「謝るのも無しですよ、セナ様」

 ほんの少しだけ困ったように微笑み続けるアリシアは、本当に気にしてはいないようだ。
 それでもやはり罪悪感は残ったが、しつこく謝ったところで困らせるだけ。聖奈は申し訳無さを片隅に追いやった。

「……けど、アリシアちゃんが知らないってことは、ハニエルさんが四大天使だった頃って、それよりも前ってことだよね?」
「それは間違いないだろうな。ハニエルって見た目よりもかなり長く生きてるし」

 聖奈の疑問に答えたのはアリシアでも、もちろんラピスでもなくウェインだった。
 彼は何も入れてないストレートの紅茶に口をつけながら、のんびりと言葉を付け加えていく。

「神族――特に大天使ともなると、人間の数倍生きてるってのもざらだし、実際ハニエルの見た目はガキの頃に俺が初めて会ったときと変わってねぇし」
「え……っ? ハニエルさんって二十代くらいかなって思ってたんだけど」
「その十倍、とまでは行きませんが百の時は経ている可能性はありますね。純血の魔族もそうですが、純度の高い魔力を持つ影響か、容姿が人間で言う成人のそれになるまでに要する年月は、平均でも三桁みけたになりますから」
「はぁ~……、私には考えられない話でちょっとついていけないわ……」

 確かに元の世界でも物語の中に描かれる天使や悪魔は長生きではあったのだけれど、こうして時を経ても美しさを保つ存在が目の前にいるとなると、実感なんて湧きやしない。
 それをさも当たり前のように語るウェインとアリシアに対して驚きを隠せなかったのも事実なのだが。
 そこではた、と聖奈は思った。

「じゃあ、アリシアちゃんとかラピスも長生きなの?」
「いえ、わたしは人間よりほんの少しだけ長い程度かと。ラピスの寿命もわたしとそう変わらないと思います」
「あ、そうなんだ。全員が全員、すっごく長生きってわけじゃないんだね」

 良かった。いや、別に良いも悪いもないのだけれど。
 ただ何とも表現しがたい安心を抱きながら不思議そうに首を傾げているアリシアとラピスを眺めていると、再度キッチンから戻って来た店主の男性が、運んできたクッキーが並べられたお皿をそっとテーブルの上に置いた。

「お嬢さんたちは、旅をしているのかい?」

 柔らかな視線と共に寄越された問いに、聖奈は頷き答える。

「はい。一応、ですけどね。私は足を引っ張ってばかりだし」
「いやいや、その年で決意したこと自体が既に凄いのだと私は思うよ。ウェインも、今はこの子たちと一緒に行動しているのかい?」

 にこにこと、至極嬉しそうな笑顔。
 人と接し話すことが好きなのか、それとも恐らく孫のような歳の頃である聖奈たちに情が芽生えたのか。なんにせよ、彼の優しさや雰囲気は心地よい。
 柔和な笑みを絶やさないまま、椅子にようやく腰掛けた店主はウェインに視線を移した。
 店主の視線を受けたウェインは、紅茶を一口飲み、

「まあな。ほっといたらそのへんで死んじまいそうなくらい弱いし無知なのに、旅するって聞かないし。ほっとけないだろ?」
「ウェインは困っている子や、無茶を見過ごせないような優しい子だからねえ」
「やめてくれよ、おやっさん。俺はそんな出来た奴じゃないっての」
「いやいや過大評価ではなく、真っ当な評価をしているつもりだよ? キミは心の優しい子だ。私と知り合った時の小さな頃と変わらずにね」
「……おやっさんはお人好し過ぎるんだよ」

 クッキーをつまんで口に運んだ彼は、羞恥と嬉しさが入り混じったような表情浮かべていた。
 幼少期から交友のあるせいなのか、ハニエルと店主の前ではウェインも普段の軽口や不真面目な振る舞いも潜めるようだ。
 まるで小さな子供のような姿に思わず笑みが溢れる。

「ウェインは本当に優しいですよね。私、いつも助けられてます」

 と、包み隠さずに口にすると、バッと弾かれるようにウェインがこちらを見た。しかしそのアクアマリンの双眸と目が合うと、すぐに顔ごと逸らされてしまう。
 その横顔をしばし見詰めていたが、それからちらりと店主を見遣ると、彼はこの上なく嬉しそうにそれはよかったと破顔した。

「ところで、何処まで行くつもりなんだい? ウェインがこの店に連れてきたということは、ルイゼンには立ち寄っただけなんだろう?」

 ストレートのままの紅茶に口をつけて、店主は首を傾げる。聖奈は迷うことなく答えた。

「フェノワールまで向かおうかと。その後は、可能であればブランシールにも足を運びたいですけれど」
「フェノワールに……?」

 店主の男の目が大きく見開かれる。
 どうしたのかと驚く聖奈の視線の先で、彼はカップをソーサーの上に置くと僅かに眉を下げた。

「悪いことは言わない。魔族のお嬢さんと一緒にフェノワールを目指すのはやめておきなさい。確かにかつては魔族の国の首都だったが、今では連合軍の拠点だよ。その道中だって危険だ」

 言い聞かせるような柔らかな声音は、店主が聖奈を、何よりアリシアを心の底から案じているのがわかった。
 彼の気遣いは当たり前だ。人間と神族が魔族を本気で滅ぼすつもりなのは嫌というほど知っているし、だからこそ奴隷でもない魔族を引き連れているなど決して見逃してはくれないだろう。仮にアリシアを奴隷として扱ったところで、果たして簡単に通してくれるだろうか。
 それに、兵士たちが駐屯しているのはなにも町だけではないだろう。途中には侵攻の足掛かりとして駐屯地を作って、そこで周囲の警戒をしながら命令を待っている者もいるかもしれない。そもそも聖奈の顔は既に連合軍の兵士たちに広く伝わっているはずだ、何事もなく進めるとは到底思えない。
 けれど、と聖奈は店主をまっすぐに見据えた。

「それでも、私はそこに行かなければならないんです。叶えたいことがありますから」
「だが……魔族のお嬢さん。キミはいいのかい? 自分から危険に飛び込むような道を選んで、怖くはないのかい?」

 聖奈から移された視線を受け、アリシアもまた店主を真っ直ぐに見て、小さな笑みを浮かべる。

「怖いです。けれど、覚悟は出来ていますから。それに、何より私はセナ様の目指す未来をこの目で見たいんです。待ち望むのではなく、お傍で、共に行動を起こした上で」
「………………」

 アリシアの答えに店主は目を丸くし、黙り込んだ。
 その顔からは案じる色は消えてはいない。だが説得するための言葉も見付からないのだろう、唇は閉ざされたまま一向に動かされない。
 何故そこまで固い決意を持つのか。その理由はなんなのか。
 そう目で訴えながらも言葉にすることが出来ずにいるらしい問いを代わりに口にしたのは、店主の隣に座るハニエルだ。
 話を終えたらしく、ルキフェルが聖奈の傍らに腕を組んで佇む。

「どうしてそこまでしてフェノワールに行きたいのかしら、アナタたちは」

 彼はその答えを理解しているようだった。ルキフェルとの長い会話の中で聞いたのかもしれない。にも関わらず尋ねたのは、単に店主の代わりというだけではない気がする。
 聖奈はそんな風に感じながら、けれど揺らぐことない夢をはっきりと言葉にした。

「魔族、人間、神族。全ての人々が手を取り合う世界を目指す第一歩として、魔族たちの国を取り戻したいんです」


 * * *


 からんからん、と軽やかにベルが鳴り響く。外は変わらず強い日差しが降り注いでいた。
 あのあと、しばらく話し込んだ後に当初の予定だった買い取りをしてもらうと、店を後にすることになった。
 開け放たれたドアを真っ先に潜ったラピスを、聖奈は追って眉をつり上げる。

「ラピス。店主のおじさんにご馳走さまでしたを言わなきゃダメだよ」

 鞄にはいつもの通りルキフェルと、店主やハニエルからお代は良いからと渡されたものが詰まっている。
 それを肩に掛けながらたしなめるようにわずかに語気を荒げると、振り向いたラピスはムッとして口を開き、けれど何故か何も言うことなくくるりとドアの方に向き直った。
 アリシアとウェイン、それからハニエルが潜ると入り口に佇む店主をじっと見詰める。
 視線に気付いて店主がラピスを見ると、彼は小さく、けれどはっきりと呟いた。

「……ご馳走さま」
「お粗末さまでした。紅茶とクッキーしか振る舞えなくてすまなかったね」

 穏やかな笑みを絶やすことない店主は、言いながらラピスから聖奈へと視線を寄越した。

「いえ、とんでもない。ご馳走さまでした。美味しかったです、紅茶もクッキーも」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」

 と、下げた頭を上げると、視界の端でハニエルが聖奈を呼び招いた。
 不思議に思いながらも店主へと深々と丁寧に頭を下げるアリシアの横を通り抜けて彼に近寄ると、片手を腰にあてがい、

「ルキフェルから聞いたわ、アナタが当代の〈魔王〉なんですってね」

 告げられた言葉に聖奈は目を丸くして鞄を開いた。
 外の様子を覗き見ていたらしいルキフェルが何事かとこちらを見上げたが、聞きたいことがあるのはこっちの方である。

「どうしてハニエルさんに言ったの? 私が〈魔王〉だって」

 声を抑えながら責めるように言葉を投げつけると、ルキフェルは眉根を寄せた。

「どうして伝えるのを嫌がる? いずれは誰もが知る事実であろう?」
「それはわかってるけど……!」
「そもそも伝える前よりハニエルは我の正体も、貴様が何者なのかも理解しておったぞ」
「えっ!?」

 弾かれるように顔を上げてハニエルを見詰めると、彼はしっかりと頷く。その整った顔に、にっこりとした笑みが浮かんだ。

「元とはいえ、これでも四大天使に選ばれたほどの実力よ? アナタたちの特異性くらい気付くわ」
「それって、今の四大天使の方々も名乗るまでもなく私が〈魔王〉だってことがわかるということです、よね……?」
「ええ、間違いなく」

 嫌なことを知ってしまった気がする。極力物騒なことは避けたいというのに、これでは言い逃れることも叶うまい。
 今の四大天使の中に対話が可能な者が一人でもいれば良いのだが、と切に思う。だが何故だろう。自然と溜め息が溢れた。

「ねえ、セナちゃん?」
「はい?」

 僅かな間を置き、改めて名を呼ばれて見上げる。
 聖奈を見下ろすハニエルは、先程までとは一転して真剣な面持ちだった。

「アナタは全ての人々が手を取り合う世界を目指すと言った。それに嘘偽りはないかしら?」
「はい、もちろんです」

 躊躇いすらなく深く頷く。
 当然だ。どんなにつらく険しい道になろうとも、進むと決めたのだから。誰かが虐げられる世界なんて、認めない。絶対の平和が訪れることはなかったとしても、命を奪い続け、逃げ惑う者たちを殺戮してまで滅ぼすなんてことはあってはならないはずだ。
 歴史としては僅かな年月だったとしても、手を取り合えていた日々があったというのなら、なおさら。
 見定めるようなハニエルの視線から、聖奈は目を逸らすことはない。無言の後、彼は形の良い唇を動かす。

「……その為に人間や神族と戦い、血を流し、時に相手の命を奪うことになったとしても?」

 それは、ひどく重い問いだと思った。
 だってそうだ。そんなこと嫌に決まっている。
 誰かが傷付くのも、誰かを傷付けるのも。手を取り合う未来を夢見ながら、それをしてしまうなど、許してしまうなど出来はしない。
 だが、互いに譲れないことはきっとこの先も何度だってあることだろう。遺跡での戦いがそうだったはずだ。
 あのとき魔族たちが奮起し、血が流れるような選択をしなかったのなら、始まりもせずに聖奈の夢は潰えていた。
 避けられない戦いはある。そしてそのとき、聖奈は己の手で他者を傷付けるだろう。命を奪うことにもなるだろう。同じ姿形をした、ヒトの命を。
 けれど、それでも。

「避けられないのであれば、退いてくれないのであれば、それもやむを得ません」
「………………」
「でも、言葉で剣を納めてくれるのであれば、命を奪いたくはないです。どんなに罵られても、それだけは譲りたくない。でも、どうしても避けられない戦いで流れた血からも、倒れた人たちからも、何よりそれを選んで犯した自分自身の罪からも、決して目はそらしません」

 戦わなければ死んでいた。だから仕方なかったんだなんて、そんな言葉で済ますなんて出来はしないから。
 何があっても叶えると決めたのだ。ならば罪すらも背負って進むのが道理だろう。
 不安はある。恐怖はある。だが綺麗事だけを語って、自分の手も汚さずに守られて歩くつもりはこれっぽっちもない。
 聖奈はどんな問いを掛けられようが、どんな言葉を掛けられようが、揺らぐような決意を持ち合わせてはいなかった。
 口をつぐんだハニエルを、真正面から見据え続ける。やがて、試すような彼の視線はふっと緩められた。

「アナタ、想像以上に強いコね」

 吹き出すように言ったハニエルに、聖奈は誉められているのか呆れられているのか判断をしかねた。
 ただただ困惑しながら見詰めていると、ハニエルは柔和な笑みを浮かべたまま、そっと言葉を紡いだ。

「それに、とっても変なコ。ああ、勘違いしないでね。馬鹿にしているわけじゃないの。その言葉が真実かどうかもわからないけど、そういう理想論を真っ直ぐに語るようなコ、アタシは嫌いじゃないもの。むしろだいすき!」
「は、はあ……?」
「どうかそのまま、真っ直ぐでいてね。アナタが変わらない限り、アタシはアナタに力を貸すわ。この先、また会うこともあるでしょうから」
「!」

 きっと力になれるはずだから、と実に様になるウインクと共に告げられた言葉は、困惑した頭でも理解できるほどに頼もしかった。
 じんわりと沸き上がる喜びに、聖奈は深々と頭を下げる。

「ありがとうございます、ハニエルさん!」
「ハニエルで構わないわ、敬語も面倒なら要らないし」

 顔を上げると、ハニエルはにこにこと楽しそうに微笑んでいた。
 だが不意にちらりと何処かを一瞥したかと思うと、聖奈を見下ろし、

「ウェインとはまだ一緒に行動する予定なのよね?」
「あ、はい。彼が付き合えないと言い出すか、よほど危なくない限り……」
「そう……」

 その時、そっと身を屈めて聖奈の耳元でハニエルは囁いた。

「――ウェインのことは信用しきらない方がいいわ」

 耳を疑うような言葉だった。
 信用するなだなんて、なぜそんな。
 信じられずにすぐさま離れたハニエルを見上げ、問い質そうと口を開くが、それよりも早く彼は言葉を重ねる。

「でも、はしてあげてほしいの。心から信じて、頼ってあげてほしいのよ。そうすれば、きっと」
「けどいま……!」
「混乱させちゃってごめんなさい。いましか伝えられないから、それも承知で言ったのよ。大丈夫、あのコは本当に心の優しい良いコだから。ね?」

 すまなそうに念を押されれば、もうなにも聞くことも言うことも出来ない。
 答えを待つハニエルに頷いて見せると、彼は嬉しそうにありがとうと笑い、スッと視線を上げた。

「ウェインー?」

 と、声を張り上げ、ハニエルはウェインに呼び掛ける。
 ラピスを構っていたらしい彼は、途端に嫌そうに顔を歪め、ハニエルへと顔を向けた。

「なんだよ?」
「彼女たちのコト、ちゃんと守らないと次会った時に承知しないから、覚えておきなさいね!」
「うげ……不穏すぎる予告……」
「返事!」
「へいへい、わかりましたよー!」

 そのやり取りは、店に来た時や店内でのやり取りとほとんど変わらない。なんてことなく、親しげだ。
 でもだからこそ、聖奈の中に疑問は募った。

「セナ様ー、行きましょう!」
「あ、うんっ!」

 アリシアの呼ぶ声に聖奈は頷き返し、店主とハニエルに深く頭を下げる。
 緩く手を振って送り出してくれる二人に背を向けて、アリシアたちの元へと駆けながらも、頭のなかは先程のハニエルの言葉の意味を考えることでいっぱいだった。
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