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第1章

31.踏み出すためのまず一歩

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 ほんのりと沈み始めた太陽に照らされた道を、聖奈はウェインと並んで歩く。
 がやがやとした人混みを先導するように行きながら、ふと思い出しておもむろにウェインをちらりと見上げた。

「そういえば、ラピスのことなんだけど……」

 そう切り出したのは、店主から聞いた話――すなわち〈紅牙の蛇〉のことだ。
 彼が此処にいたという確証は得られてはいないが、何よりも宿を訪れた赤髪せきはつの神族を見て危険と感じたことは、ウェインとルキフェルには今のうちに伝えておくべきだろう。
 ウェインはそれだけで、何を伝えようとしたのかを察したらしい。

「あいつがいた場所には俺もだいたいの目星はつけてる。〈紅牙の蛇〉、だろ?」

 見事なまでに言い当てたウェインに、聖奈は軽く瞠目しつつも頷く。

「私もそう思ってる。宿屋の店主さんが、彼らは〈何でも屋〉だけど、裏稼業として殺しもしているって」
「この街以外でも知ってるやつらは多いぜ。ハニエルみたいな薬師とか、商人だとかの間でも表家業でさえ評判が悪いみたいだが……買い占めは日常茶飯事で、材料になる植物も根こそぎ持って行っちまうから、あいつらが来た場所はもう採取地に出来ないって、ハニエルが前にぼやいてたこともあるし」
「地味にやってることがとんでもないわね……」

 買い占めについても問題だが、何より植物を根こそぎ持って行ってしまうのはいただけない。
 そのくらいで何をと感じる者もいるだろうが、野生の植物はヒトの手で栽培したものとは違うのだ。ヒトの手で栽培するよりずっと成長するまでに時間を要するであろうし、そもそも野生では風に乗って撒かれた種が地面に植わるのかすら危うい。それに根こそぎともなれば、その場所には二度とその植物が芽吹くことはない可能性だってある。
 おそらくハニエルたちは、その場所の自然を壊さぬように必要な分だけしか摘んで行かないのだろう。そしてそれが正解のはずだ。必要以上に自然を壊さない、ということが。

「裏家業の方は評判が良いみたいだな。どんだけ優れた人材も使い捨ての駒のように扱うんだ、良くなきゃおかしいが」
「それもそれで倫理的には大問題だけどね」
「〈紅牙の蛇〉ってのはそういう場所なんだよ。使い物にならなきゃ切り捨てる、仕事を必ず完遂出来ないようなやつも容赦なく。必要なのは従順な道具、だがそれさえ替えの利くもの。ただし、仕事さえこなせればまともに働くのが馬鹿馬鹿しく感じるくらいの額の金が入るとさ」
「聞いてるだけで頭がいたいよ……」

 支払われる額が多いとはいえ、どれだけブラックな職場なんだ。まともな感性の持ち主であるなら、絶対に就職したいとは思わないはずである。
 否、だからこそガラの悪そうな輩が身を置いているのか。納得だ。
 深い溜め息を吐くと、視界の端でウェインがにんまりと笑った。

「〈紅牙の蛇〉の話を聞いてると、トレジャーハンターが真っ当な職業に思えね?」
「それとこれとは関係ないと思うし、だからって真っ当にも思えないよ?」
「えーっ?」

 すっぱりと否定すると、ウェインは不満げな声を上げる。
 殺しこそしていないが、窃盗だって立派な犯罪だ。言い換えれば泥棒なのだ、決して真っ当ではない。というか、そこと比べてどうしたいというのだ。

「ウェイン、ひとつだけ聞きたいことがあるんだけど」
「なにをー?」

 僅かに拗ねた風であるのは無視して、聖奈は言葉を続ける。

「〈紅牙の蛇〉にも、神族っているものなの?」
「そりゃいるだろー」
「ラピスみたいに売られた訳じゃなくても? 例えばあの子よりずっと強くて、こっちが畏怖を感じるような天使だとか」
「…………どういうことだ?」

 少しの沈黙の後、聞き返してきたウェインの視線は細められ、耳を疑っている様子でもあった。
 聖奈は先程の言葉を繰り返すことなく、ただ詳しく語るべく口を開く。

「私が店主さんに服を貰えないか尋ねに行って、ウェインが出掛ける前、人が来てたって言ったでしょ? その時に来てた人達の中に一人だけ神族がいたの」
「そいつを見て、畏怖を感じたってことか……」

 確かめるように呟かれ、聖奈はこくりと頷いた。
 するとウェインは口許に手をやり、眉を寄せる。そのまま思考し始めた彼に、口をつぐみ二の句を待つ。

「…………神族が手を汚すような仕事を選ぶことは、ないこともない」

 しばらくして、ぽつりと返された答え。
 未だ思案顔のしかめっ面をしているウェインを、聖奈は静かに見詰めた。

「ハニエルが良い例だな。堅苦しい世界に嫌気がさして国を出るやつもいるから、可能性としてはないわけじゃないんだ。けど……」

 ひとつ間を置き、ウェインは口許にやった手を腰にあてがう。その眉間には深く皺が刻まれていた。

「セナちゃんがそう感じたってことは、ただの神族じゃないだろ? となると、異例中の異例だろうな」
「やっぱり珍しいんだ……そうだよねぇ、やっぱり」

 もっとも、見ただけで危険とわかるような相手を頻繁に見掛けたくもないが。
 それでも憂鬱な気分になる理由は、考えるまでもなくひとつしかない。

「…………出来れば戦うなんてことになりたくないし、そうなっても平和的に事を済ませたいなぁ」

 何せ、まともに相手にすれば死ぬと直感的に感じた相手だ。万が一にも戦いたくはない。
 最悪の事態までもが容易に想像できて、願望をぼそりとぼやくと、ウェインがきょとんとした顔で聖奈を見下ろした。

「どうかした?」
「いや」

 訝しげに問い質すと、彼は緩やかに顔を横に振り、

「ただ、つくづくセナちゃんは魔王らしくないなあと」
「平和的に済ませられるならそれに越したことないもの。ウェインだって、誰かの命を奪いたくないでしょ?」

 その時、ウェインは意外な反応を示した。
 聖奈の言葉が心底理解できない、といった様子で目をしばたかせ、首を傾げたのだ。
 それは、酷くおかしな様子だった。
 ヒトは誰しも、命を奪うことを躊躇うものである。誰だって人殺しなどにはなりたくないのだから当たり前だ。
 もちろん、動物の命を奪うという行為も含めれば例外もあるだろうが、ウェインの反応には違和感があった。
 ――なぜ彼は、命を奪うことに嫌悪を抱くことが不思議でならないといった眼を向けているのだろう。

「……ウェイン?」

 不思議そうにまばたきを繰り返す彼の名を、静かに呼ぶ。
 と、そこでハッとしたようにウェインは眉尻を下げた。

「あー、悪い悪い。誰だって嫌だよな、うん。戦いたくないよな。セナちゃんは正常正常ー」

 もちろん俺もー、とにんまりと笑って取り繕うウェインに、聖奈は未だ違和感を感じたままだ。
 彼は本当にそう思っているのだろうか、と。疑念が浮かんで止まない。
 それからふと、ハニエルの言葉を思い出した。
 この違和感と彼の言葉の意味が関係しているかどうかなどわからないけれど。いや、今はそれを悩んでる時ではない。余計なことを考えられるほど、余裕があるわけではないのだから。

「んで? セナちゃんは何処に向かおうってんだ?」

 思い出したように尋ねるウェインに、聖奈は緩く微笑んだ。

「お店の裏手」
「裏手? 何処の?」
「行けばわかるよ。ルキフェルも、あと少しだけ我慢してて。裏通りに入ったら外に出て大丈夫だから」


 * * *


 日没は緩やかに進み、僅かに帯び始めた橙の色に時間の流れを体で感じる。
 宣言通り人目のない裏通りに入ると、聖奈はバッグの中にいるルキフェルに声を掛けた。応じるように飛び出した彼と、ウェインと共に今度は路地を進んで行く。
 その頃にはもうウェインもルキフェルも何をしようとしているのかを把握したようで、ウェインは困ったように肩を竦め、ルキフェルは呆れたように息を吐いた。

「助け出すつもりか?」
「まさか。そんなことをしたら大騒ぎじゃない。それに、むやみにそんなことをしても後が大変だってこと、私だってわかってる」
「そこまで愚かではないということか。アリシアを置いてきたのも、過剰な期待をかけぬ為だな?」
「あとは、幻滅されたら怖いっていうのもあるけど……あの子は、私がこの道を選んだきっかけだから」
「なにそれ妬ける!」

 というよくわからないウェインの主張は聞き流して、聖奈は当てずっぽうに進む。
 だいたいの方向は合っているだろうし、ウェインも何も言わないのだから、道を間違っているということはないはずだ。

「たしかこの辺……、あ、いた」

 入りくんだ路地を歩いてようやく、聖奈は目的の場所と、そこにいる目的の人物の姿を眼で捉えた。
 くたびれ、汚れたシャツとズボン。靴の履いていない足は黒く汚れきり、両手足首には千切れた鎖のついた金属製の輪。手入れのされていない髪から覗くのは、尖った耳。
 重そうな荷物を屋内に運び入れる作業を続けて、見るからに疲れの見える細身の若い男に、聖奈は静かに近付いた。

「こんにちは」

 声を掛けた瞬間、男の肩がびくりと竦み上がり、怖々とこちらを振り返る。

「に、人間……!? どうして……っ!?」

 その目に浮かぶのは恐慌。
 何故、奴隷である自分に人間が話しかけてくるのかわからないとその顔一杯に書かれていた。
 あまりの混乱っぷりに聖奈はウェインと顔を見合わせ、苦笑する。

「ええいっ、魔族がそうまで怯えるな! 奴隷となったことで真っ直ぐに生きることまで失ったか、全く情けない!」

 と、怒号をぶつけたのはルキフェルだ。
 どうやら男からは死角だった場所から飛び出したその姿を見て彼は眼を丸くし、ポカンと呆けた顔を浮かべた。

「ぬいぐるみ……? 動いている、ということは……あなた方は……?」

 呆然とする男に、聖奈はにっこりと笑み掛ける。

「少なくとも、貴方に危害を加えようとは考えてないので安心してください」
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