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十五、 敦盛の舞

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(一)

「何と、わしは大事なことを忘れていた」
宗阿弥はあわてて、御主殿へ戻る。

居室へ入ると、柄のついた丸い大きな鏡を手に取り、己の顔を映す。

「ううむ、これは、たしかにひどい顔だ」
ふところから懐紙かいしを取り出し丁寧に汗をふき、紅をぬぐう。

宗阿弥の居室は御主殿の一番奥にある。人質の親子二人がこっそり入り込んでいた。隅で肩を寄せ合い、膝を抱えて丸くなっている。

「おや、こがねとその母ちゃんか。おまえたちはどうしてここに居るのだ。父ちゃんはどうした」
「とうちゃんが、ごしゅでんのなかにいるようにといった」
「そうか。お前たちを守るために外で戦っているのだな」
宗阿弥は男の子のつぶらな瞳をのぞき込む。

「うん、そうだよ。にいちゃんたちもそとにいる」
五歳ぐらいの男の子は無邪気に言うが、母親は床に手をつき頭を垂れて動かない。


 二人に背を向けて、化粧小箱の中からふたの付いた茶碗を取り出す。鉄と五倍子ごぶしの粉を混ぜ合わせた、どろりと黒い鉄漿かねが入っている。昨夜のうちに用意していた物だ。

「ねえ、そうあみさまは、どうしてここにかえってきたの。まだ、てっぽうのおとがきこえるよ。さっきは、かみなりみたいな、おともしたよ。こわいよ。はやく、いくさがおわらないかな。おわったら、またそうあみさまの、まいをみたいな」
 
 宗阿弥の背中に、小さな男の子がしがみついてくる。母親は病で寝込んでいたようだが、今朝は親子共々きちんと身支度を整えている。番匠の子で名はこがね。家族共々人質になっていた。

「こがねは良い子だ。わしの謡いと舞が好きか」
「うん、だいすきだよ」
「そりゃ、嬉しいな」
宗阿弥は鏡を放りだして振り向くと、男の子を膝に乗せて抱きしめた。
わらべの頬は柔らかく甘い匂いがする。

「こがねよ、いくさはこれからじゃ。わしは鉄漿を塗りに、つまりお歯黒をしに、ここへ戻ってきた。それから、白絹のこの衣装の上に胴を着けるのを忘れていた」

「あの、そうあみさま、おとなのおとこは、いくさのときに、おはぐろをするのですか」
「むろん、するとも。平家物語の公達きんだちや武将たちは戦の時にはお歯黒をする。それが身だしなみというものだ。化粧もそうじゃ。もしや、見たこと無いのか。今見せてやろう」
頬を撫でながら微笑む。

「ふうーん」
こがねは不思議そうな顔をする。

 
 膝から下ろすと鉄漿を塗ろうと親子に背を向けて、左手に鏡を持ち直した。すると鏡の隅に血の気の無い青い顔をして、震えている母親の姿が映り込む。

「心配するな。敵もまさか武器を持たぬ女や小さな子どもまで殺しはしまい」
母親を慰めようと、柄鏡えかがみ越しに目を見開きおどけた顔をして、明るい口調で言った。
この親子を守りたいが、どうすれば良いものやら。気休めを言うしかない。

 汗で崩れた白粉を塗り直して、控えめに紅を塗る。鉄漿を楊枝ようじで塗り終えた口元は赤い唇に囲まれた空虚で穏やかな黒い穴。戦のための化粧は終わった。

「よいしょと」
次に宗阿弥は大声を上げて、大きな木箱から取り出した胴を着けた。

「これは、御館様からお借りした胴なのだ。なかなか良いだろう。軽くて丈夫な鉄でできておる」
得意げに話す。

「そうだ、今からわしの舞を見せてやろう。わしと共に舞台へ来い。敵の気配がしたら、すぐに舞台の下に隠れるのだ」
宗阿弥は菩薩のように微笑む。

「そうあみさまは、きれいです」
こがねが叫ぶ。

「本当に、凜々しい若武者姿ですこと」
母親の顔が明るくなった。

「そうか、化粧を直して少しは、ましになったか。平敦盛たいらのあつもりのようになったかな。わはははは」
漆黒の歯が妖しく光る。


(二)
 
 懐には扇。腰に打刀を差して陣笠と白樫の杖を持ち、意気揚々と御主殿を出て会所の横を通り、舞台へ飛びのった。わしはあと三年で五十になるにも関わらず、若武者のようだと言われて、愉快な気分だぞ。

「そうだ、犬若よ。初めて会った時から、お前は何も変わらぬ。そして芸は歳を重ねて行くごとに艶と深味を増して行く。真にまことに妖怪のような奴よ」
どこからともなく、御館様の声が聞こえる。舞台にぼんやりと立ち尽くす。

「ずいぶんと懐かしい昔の名で呼んでくださいましたな。ならば、わたしも藤菊丸様と呼ばせていただきます。藤菊丸様もお変わりありません。いつも夢に向かって挑んでおられるお姿に、惚れ惚れと見とれております」
「ふん、わしとおまえの間に世辞などいらぬ。共に風呂にはいると、背を流しながらおまえはいつも申すではないか。痩せた。髪が白く少なくなった。爺になったと」
宗阿弥は黙り込む。

「いや、まったくその通りなのだが。わしは修行僧のような風貌になったであろう」
「戦場で、いつも死にさらされる厳しい修行を続けていらっしゃるから、いたしかたないことです」
「武門に生まれた者の定め。多くの人の命を殺めてきた。修羅道へ向かって突き進むのみじゃ」
「承知しております。これからも、この犬若があの世でも、どこまでもお供いたしますので、ご心配召されるな」
「犬若、幼き日に小田原城の庭で、くるりと宙返りをして、わしを驚かせた。おまえが現れて以来、実におもしろき人生だった。戦と築城と関八州を治めることしか頭に無かったわしだが、いつも話し相手になり心を和ませてくれた。そして、わしを楽しませるために謡い舞ってくれた。心の支えであった。共に白髪になるまで過ごせて本望。確かに若くは見えるが、おまえも近頃は白髪がちらほら見えてきたぞ。はははは」

宗阿弥は神妙な面持ちで正座する。そして深々と頭を下げた。

「このたびばかりは、一足先に旅立つことをお許し下さい。わたしは藤菊丸様に喜んでいただくために生を受けた者。時々、藤菊丸様の一節切ひとよぎりの音色に酔いながら舞うことができて、幸せでした。はい、同じく歳をとりました。五十にはとどきませんでしたが、最後に幸若舞の敦盛でもいかがでしょうか。それとも他の演目をご所望ですか。何なりとおっしゃってください」
もう御館様の声は聞こえない。我に返る。

 
 鉄砲の音が止んでいた。その代わり巨大な人の群れが、がちゃがちゃと不穏な音を立てる。城山の土を踏み固めるように、山麓を登って来る足音がする。鉄のぶつかり合う音と武者たちの怒号どごうや奇声が近づいてくる。こがねとその母は抱き合い震えながら立ちすくみ、舞台の上の宗阿弥を見つめていた。


朝霧に濡れて輝く松の木の下で扇を大きく回し、八王子城の小さな猿楽舞台の床を踏みならす。宗阿弥は謡い舞う。

「思へば~この世は~常の住み家にあらず~草葉に置く白露~水に宿る月より~なほ~あやし~金谷に~花を詠じ~榮花は~先立って~無常の風に誘はるる~南楼の月を弄ぶ~輩も月に~先立って~有為の雲にかくれり~」

数百人もの敵兵が浮塵子うんかのごとく御主殿に押し寄せて来た。重く野太い怒号に押しつぶされた、弱き者たちのか細い悲鳴が聞こえる。親子は慌てて舞台の下に身を隠した。

「人間五十年~化天のうちを~比ぶれば~夢幻の~如く~なり~一度~生を享け~滅せぬものの~あるべきか~滅せぬもののあるべきか~」
宗阿弥の幸若舞が終わった。

 
 舞台を取り囲むのは敵兵のみ。ある者たちは宗阿弥を指差しあざ笑う。ある者たちは憧憬どうけい眼差まなざしで見つめる。舞が終わり、宗阿弥が杖を手にした瞬間、舞台に一人の敵兵が駆け上がって来た。そして、正面から太刀を斬り下ろす。宗阿弥の敦盛は右斜めに体をかわして、逆手に持った杖で敵のこめかみを強く打つ。敵兵はその場に倒れた。すると今度は数十人の敵兵が舞台へ上がり、宗阿弥を槍や太刀で突く。白い衣装がくれないに染まっていく。滝のようなおびただしい血が床板から隙間すきまを通り、舞台下へ流れ落ちる。隠れていた親子は驚き飛び出した。

 
 天正十八年六月二十三日の朝、八王子城の御主殿に火が放たれた。
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