孤独な小人と蠱毒な少女

洞貝 渉

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2幕 小人と少女

1 孤独な 

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 フラスコの中が俺の居場所で、俺たちの世界だった。
 人間が空気を吸うように、俺たちはごく自然に声を聴き、世界を識っていく。
 フラスコの中には声が満ち、そして声は世界に満ちている。
 声は、俺たちの声であったり、空気中に浮かぶ小さな記憶の声だったり、製作者たちがうっかり落としていく思考の断片の声だったりする。
 俺たちはフラスコの中で繋がり、フラスコの中は世界と繋がっていた。


 なのに、今はどこからもあの懐かしい、洪水のような声は聞こえない。
 俺は耳を澄ませるのを止めて目を見開く。濁った液体の向こう側に、たくさんのフラスコが並んでいるのが見えた。手を伸ばせば届きそうなのに、透明な壁に阻まれ触れない。いや、触ってどうする?
 俺は声が聞きたいんだ。
 誰か、何か喋ってくれ。
 なぜか俺自身の声すら聞こえない。
 おい、何なんだこれは。俺は壁を叩く。液体が腕に絡みついて上手く力が入らない。それでも叩く、叩く、狂ったように叩き続ける。
 やがて透明な壁にひびが入る。ひびは叩くたびに広がり、深まり、ついに壁は壊れてしまった。
 フラスコから放り出された俺を、フラスコの中から冷ややかに見つめる仲間たちの目が射貫く。誰も何も喋らない。いや、喋ってはいる。俺には聞こえない声で。
 やめろ、なんでこうなる? 俺はただ、声が聞きたかっただけなのに。
 俺の声は誰にも届かない。
 俺は仲間に、フラスコに、手を伸ばす。
 だが、伸ばした手がどこかに届く前に何かにつまみあげられた。
 離せ、止めろ、俺を喰ってもお前はどうせ助からねえんだよ。
 俺は、俺をつまみ上げている相手の顔を見る。
 そいつは……。


『もーう! さっさと起きなさいな! 小人はお寝坊さんなんだからん‼』
 目覚めると至近距離に嫌な奴がいた。
 夢見が悪かった上、寝起きにいきなり嫌な奴の顔を見ることになるとは……。
「……お前、知ってるか? 部屋に入るときはノックするのが人間の流儀なんだぜ?」
『あらん? 知らなかったわん。まあ、知っていてもワタシには関係ないけどねん』
「ああ、まあ、お前はそうだろーな」
 いちいち嫌な奴相手にいら立っていても仕方がない。俺はまだ眠気でぼんやりする頭を乱暴にかいた。
 部屋の中は暗い。
 夜明けの時間はもうしばらくは来そうにはない。
「おい、まだ全然起きるような時間じゃないだろう? ……というかお前、なんでここにいる?」
 昨日の朝、少女と共に村を出て行ったはずだ。当分の間は戻ってこないだろうと思っていた。あわよくば、戻ってくる前になんとかこの村から出られれば、なんて考えていたのだが、こんなに早く戻ってくるとは。
『あらそうなの? でも、あの子はずっと起きてるわよん?』
「それはただ眠れないだけなんじゃないのか?」
『ふうん?』
「なあ、お前、まさかとは思うが、あいつのこと置いてきたんじゃないだろうな?」
 別にどうでもいいことではあるのだが、それでも少女の頼りない様子を思い出し、心配になってくる。
 ここに来てから、他の孤児との相性は最悪で集団から弾かれていたし、カバージョから軟禁され、嫌な奴に目を付けられ、最後には態度の悪い旅人に連れていかれた。……どれだけ人間関係の運がないんだ。
 まあ、俺が今、他人の心配なんてしている場合ではないのはわかっているのだが……。
『違うわよん? 置いてきたんじゃなくて、連れてきたの』
 嫌な奴は何でもないことのようにさらりと言った。
 あまりに簡単に言ってくれるので、一瞬何を言われたのか理解できず、頭の中が真っ白になる。
 俺と嫌な奴の間に、数秒沈黙が下りた。
「……ちょっと待て。連れてきたってなんだ?」
『さあこっちよ。森で待ってるわん』
「待て待て待て。ちゃんと説明しろよ」
『説明? なあに、何が知りたいのん?』
「なんで戻ってきた? お前らは街へ行くはずだっただろ?」
『街へは行かなかったのよん』
「だから、どうして? あの、製作者たちの……〈テオフラストゥス〉の用意したうさん臭い旅人はどうした?」
『あの子が殺したわよ?』

 コロシタ……?
 ますます訳がわからない。
 未だに慣れないのだが、どんなに耳を澄ませても、わからないと考える俺の思考に同意する声も、さらに詳しい情報を教えてくれる声も聞こえないというのはつらい。
 どこからも声がしないのだから、わからないということ、わかるような情報が欲しいということを明確に相手に伝えなくてはいけないし、そのためには独り言ではなく相手を意識した言葉にして言わなければならない。
 しかも、それを伝える相手はたいていは目の前に一人しかいない。たくさんいれば誰かしらのわかる奴が答えてくれるものなんだろうが、一人しかいないとなると、聞いたところで相手がそのことを知っているとは限らなかった。
 面倒なこと極まりない。

 だいたい、なんでこいつは何でもないことのようにそんな訳のわからないことをさらりと言えるんだ。
殺しただと? 人間が人間を、意味もなくそう簡単に殺すものじゃないだろう。たぶん。
 ……いや、そうでもない、か? あの変わり者の製作者だって同族から呪いをもらって死にかけていたし、ここにいる孤児だってじきにそうなることだろう。だが、製作者も孤児も殺されるのには理由がある。
「……なんで、どうやって、あんなひ弱なガキが旅人を殺したりするんだよ」
『殺されそうになって、狭間に引きずり込んで殺したのよん。あやうくワタシも引きずり込まれそうになったわ』
「……俺にもわかるよう、説明できないか?」
 頭が痛い。
 俺が今、人間だからなのか? だから嫌な奴の言うことがわからないのか?
 切実にフラスコの中の声が聞きたい。
『もう! 説明説明ってうるさいわん。いいから早くしてちょうだい。あの子が待ってるのよん』

 昨日村を発ったはずの少女は、嫌な奴の言う通り、森にいた。
 夜明け前の暗いくらい森の中、一人で震えている。よく見れば口が小さく動いているようで、さらによくよく観察してみると、ごめんなさいと呟き続けているのがわかる。声はないが口がエンドレスでそう動いていた。
 何に対しての謝罪なのか全くわからないが、それはさて置き、どうしたものか。
 タピールとして動くのなら少女を連れてレノのところへ行くか、もしくは村長のところへ行くかだ。
 ……だが、本当にそれでいいものなのか。
 カバージョとの一件もあるので、できれば孤児院には連れて行きたくない。ならば村長のところか。しかし、嫌な奴は何て言っていた? 〈テオフラストゥス〉の用意した人間に殺されそうになったと言っていなかったか? 村長のところへ連れて行けば、確実に〈テオフラストゥス〉に連絡することだろう。
「いや、それは俺が気にすることじゃねえよ」
 俺は頭を振って考えを切り替える。
 今、俺が気にしなければならないのは俺自身の今後についてだ。利用できない人間のヒナ一匹にかまけてる場合じゃない。
「村長のところへ行こう」
 少女に声をかけるが、反応はない。
「ほら、行くぞ?」
 そっと震える肩に手を乗せると、少女は、はじかれたように顔を上げた。

―――ごめんなさい、生きていて。ごめんなさい、死にたくなくて。

 声は聞こえない。なのに、少女がそう言ったのはわかった。
 乾いた瞳をこれでもかというくらいに見開き、震えながら、少女は言った。

―――ごめんなさい、私がちゃんと死ねば、あの人は消えずに済んだのに。

 少女が地面に転がる。俺が殴りつけたからだ。
 転がったまま、ぼんやりとした瞳が宙をさ迷って、ゆっくりと俺に焦点が合っていく。口の端が切れて血が滲んでいた。
「もう一度言ってみろよ」
 頭に血が上るのがわかった。体に異変が起こったわけではない。
 おそらく、感情、というやつだ。フラスコの中にいた時にだって喜怒哀楽くらいあったが、人間の体に移ってから、どうも以前よりも振れ幅が大きい。
 この感情は、怒り、か? 仲間が喰われた時にたびたび経験した。
 もっとも、あの時感じた怒りは、ここまで思考をかき乱されるような激しいものではなかったが。
 嫌な奴が呆れたような声を出す。
『あらあら、小人は乱暴ねん』
「お前は少し黙ってろ」
『いやん、怒られちゃった』
 少女は動かない。消耗しすぎて起き上がることすら億劫になっているのか。光のない目で俺を見つめ続ける。
 体が動き出したがっている。目の前のふざけたことをぬかした奴を殴りつけたくて、いつでも万全に動き出せるよう体温が上昇していた。
 だが、殴ってどうする? 俺の怒りは、少女の発言に対してであって、少女を痛めつけることには何の意味もない。
「そんなふざけた謝罪の言葉、次に口に出したら殺すぞ?」
『アナタには無理ねん。返り討ちだわ』
「うるさい黙れ」
 俺は強引に少女を立たせると、逃げられないように両の肩を掴んで、睨みつける。少女はされるがままだ。
「生きる気がないなら、勝手にどこへでも行って、野垂れ死ね」
「……」
―――死に、たくは、ない……。
「じゃあ、生きていてごめんだとか、死ななくてごめんだなんてことは言うな。二度と言うな」
「……」
 少女のぼんやりとした瞳が焦点を失って、体から力が抜けた。そのまま、かくんと寝入ってしまった。
『あらあら、疲れてたのねん』
「……俺も疲れたんだが」
『あらあら、そうなの? だったら、みんなでワタシたちの国に来る? 女王様に頼んでみるわよん?』
「嫌な奴が大量発生している場所になんか興味ねえよ」
『まったくもう、親切で言ってあげてるのに。おかしな子ね!』
 俺は嫌な奴の言うことは無視して少女を抱き上げると、村長のところへ向かった。

 深夜とも早朝ともつかない時間に起こされた村長が苦虫を噛み潰したような顔をしている。
『ねえん? これはどうゆうことなのん?』
 詰め寄る嫌な奴からは目を反らし、俺が抱える少女からも目を背け、森で少女を見つけたことを報告し終えた俺のことも視界から外し、明後日の方を向いて何やら思案している様子だ。
 よく知らないが、村長とこの嫌な奴は以前からの仲のようだった。しかし、他の人間には見えていないこいつと会話なんてしたら、独り言を言っているようにしか見えない。そのせいか、村長はこいつが何か話しかけても極力反応しないようにしているようだった。
『この子、殺されそうになったのよん? あなたがあのニンゲンを準備したんでしょう?』
「……あの旅人は〈テオフラストゥス〉が準備した人材じゃったのだが、彼はどうしたんだろうな?」
 村長は、遠回しに、そんなこと言われても困る、と嫌な奴に言う。
 同時に嫌な奴が見えていないということになっている俺……というかタピールからは、思案の末出た独り言に聞こえなくもない言葉だ。
「ひとまず、その子は村で預かろう。〈テオフラストゥス〉に連絡して、今後について決まるまでは……」
『そんなことしたら、またこの子は厄介ごとに巻き込まれるんじゃなあい?』
 厄介はお前だ、と村長の目が如実に語っている。
 強く同意したいところだが、今の俺はタピールだ。下手な言動をして怪しまれるのはまずい。
「そうですか? では、この子をお願いしますね」
 寝入って起きない少女を預け、村長の家を後にした。


※※※


 フラスコから出て、声が聞こえなくなり、いろいろなことが変わった。
 例えば、五感が強くなったのもその一つだ。
 朝と夜の肌を包む空気の違い、食べ物をかみ砕く時の音、風に揺れる葉が見せる色の変化、湯気と共に立ち上るお茶の香ばしい匂いと、口に含んだ時の苦みと微かな甘み。舌の上で浮かんで消える。

 世界に満ちる声は聞こえないけれど、代わりに意味をなさないものの集合が絶えず感覚を刺激してくる。
 人間にフラスコの中で得るようなコミュニティや知識はないが、代わりに個としての自己の認知や経験の蓄積は鮮明で鮮烈で、目が回りそうだ。
 もし、生まれた時からこんなものと付き合ってきたのならば……。
 無知な人間が、自らの無知に鈍感なのも頷けるのかもしれない。
 あまりにも個として完結し過ぎている。
 完結したものが、その外へ目を向けることはない。その外側があるなどと、気付くことさえもできないのではないのだろうか。
 存在に気が付かなかったものを認知することはできない。人間の無知は、きっとそこから来ている。
 人間が求める真理だとか不老不死も、人間の認知の外にあるものなのにもかかわらず、おそらくあいつらは完結した人間たちの世界の内側に求めているのだろう。

 だから、フラスコの中の小人に〈賢者の石〉などという馬鹿げた名前をつけ、不老不死の妙薬などと世迷言を謳えるんだ。
 ……狂ってる。
 
 人間にはわからないだろう。
 こんな体を持った人間たちに、俺たちのことをわからせることもできない。
 やつらと対話を試みる変わり物の小人のことを想った。
 人間とは、わかり合うことなどできはしないのだ、どうあがいても。それをどうすれば、〈賢者の石〉として売られて行った奴らに伝えることができるのか……。

 だけど、俺だってすでに人間だった。
 今はまだいい。
 フラスコの中にいたころのことをしっかりと覚えているから。
 でも、これがあと十年たったら? 百年後も、俺は俺のままでいられるのか?

 フラスコの中では決して生まれなかった思考だ。
 答えは自力で探すしかない。
 声はどこからも聞こえないが、代わりに手に入れた人間の知識を使って。

「ま、そこまで生き延びることが出来れば、の話だがな……」
  フラスコを出てから五日経った。
 ようやく五日だ。
 未だに製作者と関わりのある場所から逃れられていない。
 いつ正体がバレてしまうか、もしバレたらどうなってしまうのか。
 不安は尽きないが、今は大人しくしているほかないのだろう。
 もう少し、ほとぼりが冷めるまでは動くべきではない。
「……くそ」

 もうすぐ夜が明ける。
 また、タピールとしての一日が始まる。
 
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