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世界を奏でるメロディに
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男の住むアパートの隣に立つ一軒家から、毎日決まった時間にピアノの音が聞こえてくる。ちょうどその時間は夕日が沈みかけた頃で、男が仕事から帰って来るのとほぼ同時であり、男はそのたどたどしくも一生懸命な音色に耳を傾けながら、コンビニで買ってきた弁当を食べ、日々をストレスを吐き出すかのように酒を煽るのが日課となっていた。
その日も相変わらずピアノの音が聞こえてくる。その音色は男を魅了してゆき、男の中で小さな欲望が沸々と大きくなってゆくのを感じた。
――いったいどんな少女が弾いているんだろう――
人付き合いというものをしたことがなかった男にとって、隣の家にどんな人が住んでいるのかさえわからなかった。唯一わかっていることは、夫婦に少女が一人住んでいるということ。
――ピアノの音色と同じように、可愛い子なんだろうな――
そんな日が毎日続き、聞く人によってはただうっとうしいだけのピアノの音は徐々に上達してゆき、男にとって生きがいにまでになっていた。
「何でそこばかりミスするの!? 何度言ったらわかるの!」
ピアノの音が止まると同時に、たぶん母親であろう怒号が男の部屋にまで飛んできた。男はまるで自分が怒られたかのように錯覚し、肩を竦め、それはじょじょに震えになってゆく。今日も男は仕事でミスを出し、工場長に昼休みが終わるまで、果ては仕事が終わった後にまで――その間、当然残業代などは付かないのだ!――懇々と説教を受けていた。男は少し少女を助けたい気持ちになったが、他人の家庭事情に首を突っ込むなど、長時間も世間話に花を咲かせる暇な主婦のすることだと自分に言い聞かせ、男は次々に飛んでくる怒号をかき消すかのように、震える手でテレビのスイッチを入れた。
そう、他人の家庭には首を突っ込まない。みんな、そうだった。
――本当にお前は出来損ないのクズだな!――
――お前なんか生まれてこなきゃよかったんだ!――
男の脳裏に、うっすらと蘇るあの日の記憶。男は一瞬しかめるような顔をして、買ってきたビールを喉に無理矢理流し込んだ。
――家のことはお前に任せるって言ったのに、なんだこのザマは!――
――私だって忙しいし、この子がもっとちゃんとしてればこんなことにはならないのよ!――
「……ろ……めろ……や……ろ…」
ビールの空き缶を握りつぶし、その手で頭を抱え、体をすくめ、小さく何度も繰り返す。
――お前、この仕事向いてねぇんじゃねーの?――
――せんぱーい、またミスっすか。俺らの仕事増やさないでくださいよ――
――ここはド! なんど言ったらわかるの!――
――アイツ、ずっとこっち見てる。キモくね?――
――この人痴漢です!――
「……ろ……め……やめ……やめろ……やめろ!」
徐々に男の声が荒げてゆく。
――お前みたいなグズ、私の子じゃないわ!――
――でさー、知ってる? あいつトイレの水飲んだらしいよ――
――明日またピアノの先生に来てもらいますからね――
――何でこんな簡単な仕事すらできないんですかぁー?――
――ギャハハ――
――じっとしてれば、誰にも言わないからね。痛くないよ、大丈夫。ママにはピアノ上手に弾けてましたって言ってあげるからね――
――俺の小便飲んだら許してやるぜー、ケヘヘ――
――あいつの代わりにお前が死ねばよかっ――
気づけば、男は涙を流していた。頭を抱えた手は、強く頭を押さえつけている。まるで自分を押さえ込もうと必死で抵抗しているような……。それが男が唯一できる防衛手段だった。
そして、ついに、何かが、吹っ切れたような、そんな、気がした。
男が仕事に行かなくなって数日経ってから、ピアノの音も母親の怒号も聞こえなくなり、その代わりに、連日パトカーのサイレンの音が鳴り響いていた。
そしてそのサイレンも聞こえなくなったある日、少女よりも下手だが、丁寧で、熱心で、優しいピアノの音色が毎日聞こえ始めたのだ。
「おい、アンタ、うるさいよ、毎晩毎晩。隣に居る俺の気持ちにもなってくれよ」
アパートの住人が、毎晩男の部屋に文句を言いに来る。男はそれに必死に頭を下げ謝るものの、決して辞めようとはしなかった。徐々にそれが聞くに堪えるものになってゆくと、もはや文句を言われることもなくなっていた。
――僕のピアノの音はどうだい。そうか……――
男は微笑みながら、ピアノに置いていた手を、ゆっくりと前に出し、まるで誰かを呼んでいるような奇妙な動きをした。
男の部屋からピアノの音が少女の元に届いているかは、男にしかわからない。
その日も相変わらずピアノの音が聞こえてくる。その音色は男を魅了してゆき、男の中で小さな欲望が沸々と大きくなってゆくのを感じた。
――いったいどんな少女が弾いているんだろう――
人付き合いというものをしたことがなかった男にとって、隣の家にどんな人が住んでいるのかさえわからなかった。唯一わかっていることは、夫婦に少女が一人住んでいるということ。
――ピアノの音色と同じように、可愛い子なんだろうな――
そんな日が毎日続き、聞く人によってはただうっとうしいだけのピアノの音は徐々に上達してゆき、男にとって生きがいにまでになっていた。
「何でそこばかりミスするの!? 何度言ったらわかるの!」
ピアノの音が止まると同時に、たぶん母親であろう怒号が男の部屋にまで飛んできた。男はまるで自分が怒られたかのように錯覚し、肩を竦め、それはじょじょに震えになってゆく。今日も男は仕事でミスを出し、工場長に昼休みが終わるまで、果ては仕事が終わった後にまで――その間、当然残業代などは付かないのだ!――懇々と説教を受けていた。男は少し少女を助けたい気持ちになったが、他人の家庭事情に首を突っ込むなど、長時間も世間話に花を咲かせる暇な主婦のすることだと自分に言い聞かせ、男は次々に飛んでくる怒号をかき消すかのように、震える手でテレビのスイッチを入れた。
そう、他人の家庭には首を突っ込まない。みんな、そうだった。
――本当にお前は出来損ないのクズだな!――
――お前なんか生まれてこなきゃよかったんだ!――
男の脳裏に、うっすらと蘇るあの日の記憶。男は一瞬しかめるような顔をして、買ってきたビールを喉に無理矢理流し込んだ。
――家のことはお前に任せるって言ったのに、なんだこのザマは!――
――私だって忙しいし、この子がもっとちゃんとしてればこんなことにはならないのよ!――
「……ろ……めろ……や……ろ…」
ビールの空き缶を握りつぶし、その手で頭を抱え、体をすくめ、小さく何度も繰り返す。
――お前、この仕事向いてねぇんじゃねーの?――
――せんぱーい、またミスっすか。俺らの仕事増やさないでくださいよ――
――ここはド! なんど言ったらわかるの!――
――アイツ、ずっとこっち見てる。キモくね?――
――この人痴漢です!――
「……ろ……め……やめ……やめろ……やめろ!」
徐々に男の声が荒げてゆく。
――お前みたいなグズ、私の子じゃないわ!――
――でさー、知ってる? あいつトイレの水飲んだらしいよ――
――明日またピアノの先生に来てもらいますからね――
――何でこんな簡単な仕事すらできないんですかぁー?――
――ギャハハ――
――じっとしてれば、誰にも言わないからね。痛くないよ、大丈夫。ママにはピアノ上手に弾けてましたって言ってあげるからね――
――俺の小便飲んだら許してやるぜー、ケヘヘ――
――あいつの代わりにお前が死ねばよかっ――
気づけば、男は涙を流していた。頭を抱えた手は、強く頭を押さえつけている。まるで自分を押さえ込もうと必死で抵抗しているような……。それが男が唯一できる防衛手段だった。
そして、ついに、何かが、吹っ切れたような、そんな、気がした。
男が仕事に行かなくなって数日経ってから、ピアノの音も母親の怒号も聞こえなくなり、その代わりに、連日パトカーのサイレンの音が鳴り響いていた。
そしてそのサイレンも聞こえなくなったある日、少女よりも下手だが、丁寧で、熱心で、優しいピアノの音色が毎日聞こえ始めたのだ。
「おい、アンタ、うるさいよ、毎晩毎晩。隣に居る俺の気持ちにもなってくれよ」
アパートの住人が、毎晩男の部屋に文句を言いに来る。男はそれに必死に頭を下げ謝るものの、決して辞めようとはしなかった。徐々にそれが聞くに堪えるものになってゆくと、もはや文句を言われることもなくなっていた。
――僕のピアノの音はどうだい。そうか……――
男は微笑みながら、ピアノに置いていた手を、ゆっくりと前に出し、まるで誰かを呼んでいるような奇妙な動きをした。
男の部屋からピアノの音が少女の元に届いているかは、男にしかわからない。
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