レツダンセンセイ・グレーテストヒッツ

れつだん先生

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 桜と聞いてなにを思い浮かべる? 大抵の人は花見を思い出すだろうけれど、僕は違う。僕は一人の女性を思い浮かべる。それがどんな結末になるかは、書いている僕にもわからないけれど、今から書こうと思う。

 日曜日の昼下がりに僕は、歩いて十分のところにある小さな公園の隅に申し訳なさそうな様相で立っている桜の木に腰掛け、小説を読んでいた。小説はドストエフスキーの悪霊で、読んでいるにも関わらず内容はまったく頭に入ってこなかった。僕みたいな人間が読んだってわからないんだろうか? 学力が関係しているのだろうか? つまり、一言で言ってしまうとつまらない。だけど僕は何かにとりつかれたかのように活字を追っていた。そう、小説を読むんじゃなく、活字を追っていた。
 乾いた風が桜の木を吹き抜けると、咲き誇っていた桜の花びらがいくつも飛んでいった。その一枚が小説の間に挟まって、指ではねるとどこからか声が聞こえた。僕は小説から目を離し、目の前を見た。女性が立っていた。二十五歳の僕から見て、年下のようにも見えるし年上のようにも見える、よくわからない女性だった。服装は至って普通、ボブカットにした髪の毛がさらさらと風になびいている。にっこりと僕に微笑んで、僕はどうしていいかわからず、とりあえず小説を閉じて木の幹に立てかけた。
「何の小説を読んでるの?」
 まるで脳みそに直接入ってくるかのように、女性の声が僕の全身に走った。僕は何て答えていいかわからず、あたふたと、閉じた小説の表紙を女性に見せた。
「ふうん、難しそうな小説だね」
 そこでようやく僕の口が開いた。
「ぼ、僕も読んでいてよくわからないんですよね」
 敬語を使う辺りが、どれだけ僕が女性慣れしていないかがわかるだろう。僕は少しだけ情けなくなって、女性を見上げた。女性はまたにっこりと笑った。
「この公園にはよく来るの?」
「そう、だね。たまに、暇なときに」
「私も。今日はたまたま休みでね、桜を見に来たの。私のアパートからはこの桜が見えないから」
「ってことはすぐ近くに住んでるの?」
 ようやく冷静を保てた僕は、敬語を使うのをやめた。
「すぐそこのアパート」
 と指差したところは、どう見たって公園にある滑り台だった。「え、滑り台に住んでるの?」と驚いた僕に、女性は小さく笑った。
「冗談に決まってるじゃない。あなたって面白いね。名前は?」
「島本雄二です」
「フルネームで言うところが面白いね」と言いながらまた笑い、「私は山下桜です。よろしく!」と少し大きな声で言った。また風が吹いて、桜の花びらが散らばった。
 それから僕たちは時間を忘れて話し合った。いつの間にか僕は女性のことを桜と呼び、桜は雄ちゃんと呼んでいた。僕の心は完全に桜に支配されていた。辺りが急に暗くなってきたので、僕たちは話を途中で止めてそれぞれの家路に着くことにした。家に帰ってから悪霊を木に置いていたままにしていたのに気づいたほど、桜のことで頭がいっぱいになっていた。何をやろうにも頭の中では桜の微笑が邪魔して手につかない。
 どうにもこうにもいかなくなったため、友人である信也にその旨を伝えると、「それって恋じゃねーの?」との返信。僕は恥ずかしながらこの歳になるまで恋愛をしたことが無かった。所謂年齢イコール恋人いない暦、というやつだった。そうか、これが恋なのか――と敷いたままにしておいた汚い布団で天井を眺めている内に、いつの間にか眠ってしまっていた。
 次の日も休みだったので、僕は早朝から公園に行くことにした。あまりに話しに夢中になってしまっていたので、桜の連絡先を聞くのを忘れてしまっていた。幹に置いたままにしておいた悪霊はそのままのかたちで残っていたので、桜が来るまで僕は幹に腰掛けて悪霊の続きを読んだ。でも頭には入ってこない。桜の微笑みが僕の脳裏に何度も浮かんでは消えていく。でも――と考える。僕みたいな冴えない男がアプローチをかけたところで、あんなに可愛い桜が僕の相手をしてくれるわけがない。恋人だっているだろうし、幸せにしているだろう。たまたま僕がここにいて、桜も暇だったから、たまたま僕に声をかけただけに過ぎない。それがたまたま盛り上がってしまっただけで、こうして早朝から桜が来るのを待っているのを僕なんて、単なるストーカーじゃないか。
 僕は本を閉じ、幹を枕にする形で砂場に寝転んだ。日が徐々に昇り照り付けるのを感じ、本を目隠しにする形にしてぼんやりとしていると、眠気に負けて、つい――

 そこが夢の中だとはすぐにわかった。なぜなら、僕と桜は手を繋ぎ合って、まるで恋人かのように商店街を歩いていたからだ。夢の中でなら何をしてもいいだろうと、歩みを止めて桜と向き合って、キスしようと顔を近づけた瞬間、頬に衝撃が走って、その痛みで目が覚めた。目の前で驚いたような表情で桜が座っていた。
「寝てたから起こそうとしたらいきなりキスしようとしてくるんだもん」と言い訳を一人呟く桜は可愛い。僕の隣で正座を崩したような座り方でいる桜は可愛い。独り言を呟いた後、僕の持っていた小説を手にとって「よくわかんない」という桜は可愛い。
「難しい小説だから、僕にもよくわかんないんだよね」
「なのに読んでるの?」
「読んでる振りをしてるだけかも」
「何それー」
「ていうか今日も来てるとは。もしかして相当暇?」
「バイト辞めたばかりだから毎日が暇です!」
 二人で笑いあった。どこからどう見ても可愛い。

 それからほぼ毎日僕たちは桜の木の下で何時間も話し合った。僕も桜と同じでバイトを辞めたばかりだったので、求人誌を二人で読みあったりもした。
「このバイトいいんじゃない?」とファミレスの求人を指差す僕。
「えー、このアットホームな感じが逆に信用できない」と桜。
「このバイトいいんじゃない?」とコンビニの求人を指差す桜。
「えー、接客業とか不安だしできるかわかんない」と僕。
 そしてまた笑い合う。正直僕の財布の中にはほとんどお金は無かったし、家賃も一ヶ月未払いという崖っぷちの状態だったんだけれど、彼女が「近所の喫茶店に行かない? 喉渇いちゃった」と言うのに反対できるはずもなく、僕は彼女と一緒に公園を出て、ファミレスへと歩いていった。住宅街を抜けると広い道路に出て、右へ行けば少し大きな駅に着く。それとは正反対に歩くと、少し寂れた喫茶店が見えてきた。僕は歩きながらばれないように財布の中身を確認する。ううん、今日使えば、当分はスパゲティ生活だな。
 喫茶店の中は少し混雑していたものの、とりあえず席には座ることができた。僕はアイスコーヒーを注文し、桜はアイスティーを注文した。手渡されたおしぼりで手を顔を拭いていると、桜に「おじさんくさい!」と笑われた。脇まで拭かなくて良かったと思った。
「あ、そうだ、そういえばお互いのアドレスまだ知らなかったよね?」とアイスティーにシロップとレモンを入れ、携帯を取り出した後桜が言った。
「確かにそういえばまだだったね」
 二人の携帯を見せ合い、赤外線通信でお互いのアドレスと電話番号を交換した。これで毎日いつ来るかわからないまま公園でつまらない小説を読む手間が無くなった、と安心したと同時に、生まれて初めて僕の携帯に家族以外の女性が入ったことに少し感動した。暫く雑談した後、僕が二人分の料金を払って外へ出た。行く先はやはりあの公園だった。そしてまたくだらない話で盛り上がった。僕は桜がいるからなのか、いくつかの求人に電話をかけた。どれもこれも「もういっぱいいっぱいで面接打ち切ったんですよね」との返信が。
「だったらさっさと求人欄から外せばいいのにね!」
 と少し怒った顔で言う桜も可愛い。
「ていうかさ、気になってたんだけど、桜って本名なの?」
 僕は以前から気になっていたことを聞いた。桜は少し「うーん」と考えた後、「内緒!」と言った。
 
 僕と桜の楽しい時間は一気に過ぎ去って、ついに桜の木も枯れ木当然となってしまった。それから桜を公園で見かけることは無くなった。僕はほぼ毎日、桜が来ているんじゃないかという期待で公園に行き、ほぼ毎日落胆しながら帰宅するということを繰り返した。教えて貰ったメールアドレスにメールを送っても、宛先不明と帰ってくるし、電話をかけてみても「この電話番号は」と言われてしまう。
 そうしている内に僕の頭の中から桜の存在は消えうせ、新たなバイトが決まり、そこでようやく女性と付き合うことができたんだけれど、今になってもたまに桜のことを思い出す。あれは一体なんだったんだろうか、と――
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れつだん先生
現代文学
20年間で書き溜めた短編やショートショートをまとめました。 公募一次通過作などもあります。 今見返すと文章も内容も難ありですが、それを楽しんでいただけると幸いです。

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