役を降りる夜

相沢蒼依

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プロローグ

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 吐く息が白くなる寒空の下、駅前の雑踏で名前を呼ばれた気がした。

「あ……高瀬先輩?」

 呼び止められて振り向いた瞬間、視線が絡む。そこにいたのは、間違えるはずがない顔だった。大学時代、サークルで何度も見たその顔。少しだけ大人びて、でも笑うと当時のままの目をする憧れの人。

「やっぱり三好だった。久しぶり!」

 気負いのない声と笑顔に、胸の奥が小さく揺れる。それだけで、周囲の喧騒が一段遠のいた気がした。

 不思議と懐かしさが先に来て、気まずさは遅れてくる。彼と最後に会ったのは卒業前。連絡先は知っていたけれど特別に連絡を取る理由もなく、いつの間にか時間だけが過ぎていた。

「三好は仕事帰り?」
「はい、高瀬先輩は?」
「同じ。このあと、少し時間ある?」

 断る理由はなかった。むしろ、断るという選択肢が思い浮かばなない。

 ふたりで向かった先は、全国展開してる居酒屋。駅から少し外れた静かな通りにあって、肩肘張らずに話せる場所だった。

 生ビールで乾杯してから、会話は自然と大学時代の話へ流れていく。サークルの空気、合宿の思い出、就職してからの近況。不思議なほど、話題が尽きない。

 先輩と後輩という距離が、会話の歯車をちょうどよく噛み合わせてくれる。

「三好は変わらないね」
「それ、褒めてます?」

 高瀬先輩は笑って、グラスを傾けた。

 高瀬先輩の変わったところを横目で探す。上半身が大学時代よりも少し厚くなったこと。言葉を選ぶ間が増えたこと。でも、根っこの部分はあの頃のままだった。

「高瀬先輩は彼女いるんですか? 結婚とか考えてます?」

 軽く聞いたつもりだったけれど、彼の動きが一瞬止まる。

「……その話、実は今日で二回目だ」
「すみません」
「いいよ。会社の先輩にも言われたばっかでさ。なんで彼女がいないのかって」

 微苦笑を浮かべた横顔が、なぜだか胸に引っかかった。

 終電が近づく頃、店を出た。夜風が思ったより冷たくて、ふたりして肩をすくめる。

「もう一軒、行く?」
「……はい」

 それが、どちらの提案だったのかは覚えていない。気づけば、彼の部屋にいた。

 玄関で靴を脱いだとき、急に現実味が押し寄せる。昔の先輩後輩。久しぶりの再会。酒の勢い。

 でも高瀬先輩は何も言わず、コップに水を注いで差し出した。

「三好、無理しなくていいから」
「……してません」

 それは嘘じゃなかった。近くにいることが思った以上に自然だった。

 ソファに並んで座り、テレビもつけないまま会話が途切れる。沈黙が重くならないのは、知っている相手だから。

「昔さ」

 高瀬先輩がぽつりと言った。

「三好、あんまり自分のこと話さなかったよな」
「だって高瀬先輩がよく喋って、俺の話を遮っていたし」
「そうだっけ」

 視線が合ったことで、逃げ場のない距離を意識した。どちらからともなく、手が伸びる。触れた指先に、躊躇はなかった。

「ちなみに三好は、彼女いるの?」
「いません。仕事が忙しくて作ってる暇がなくて」
「じゃあ、さ――」

 高瀬先輩は、それ以上のことは言葉にしない。言葉にしなくても、伝わってしまう空気がある。それを否定する理由も、拒む気持ちもなかった。

 顔を寄せて唇が触れ合う瞬間、温かな息が絡みつき、甘い酒の香りが混ざり合った。

 柔らかい感触が体を震わせ、溶けるような快楽がじわじわと広がる。あの頃の記憶が蘇る――大学時代の控えめな視線、抑えていた想い。

 それが今、自由に解き放たれる。高瀬先輩の指が背中を優しくなぞり、肌の熱が伝わるたび心臓の鼓動が速まる。こんなに近くにいることが、信じられなくて、でも欲しかった。

 恥ずかしさが込みあげるのに、拒否する気などない。耳元で漏れる吐息が熱く、首筋に唇が寄せられると甘い疼きが下腹部に広がる。

 久しぶりの再会が、こんな形になるとは思わなかった。でも心の奥で、ずっと待っていたのかもしれない。

 体が彼を受け挿れる瞬間、柔らかく包み込むような感覚に幸せを感じて目を閉じた。互いの動きが重なり、波のように揺れるリズムが深まる。自然と互いの指が絡み、汗ばんだ肌が密着して静かな部屋に微かな喘ぎが響く。

 頂点へ向かう快楽の渦が、痛みなど忘れさせる。孤独だった日々が、ようやく埋められるような充足感を覚えた。

 昔の高瀬先輩は、こんなに優しかっただろうか。いや、今の彼が特別なのかもしれない。

 激しくはなく穏やかで深い夜――終わったあと汗に濡れた体を寄せ合い、余韻に浸る。言葉はなく、ただ互いの温もりが朝まで続く。この一夜がただの過ちではなく、何かの始まりのように感じる。心が静かに満たされた。


 目を覚ましたとき、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。隣で眠る彼の寝顔を見て、昨夜のことがゆっくり現実になる。

「高瀬先輩……起きてます?」

 声をかけると、彼は目を開けた。

「おはよう」
「おはようございます」

 大学時代みたいな変な敬語に、ふたりで目を合わせて笑った。気まずさはある。でも、後悔はなかった。

 気怠さを理由にベッドに横たわっていると、高瀬先輩はキッチンに向かう。コーヒーを淹れているのか、芳醇な香りが室内に充満していく。

「ねえ」
「はい」
「……もし、変な提案だったら断ってほしいんだけど」

 両手にカップを持って寝室に戻って来た高瀬先輩の手が、少しだけ震えているのが目に留まった。

「本命ができるまでの間、恋人でいてくれない?」

 一瞬、意味を測る。そして、すぐに理解した。お互い恋人のいない身。感情を考えなくていい、男同士の合理的な関係。

「それって都合のいい関係。身代わりってことですか」
「……そうなる」

 彼は気まずそうにカップを差し出し、顔を明後日に向けた。背を向けてベッドに腰掛けた大きな背中を何の気なしに見つめる俺に、高瀬先輩は言葉を続ける。

「相手に期待しない。けして縛らない。終わるときはすぐ終わる」
「なんかそれ、高瀬先輩が楽なだけじゃないですか」

 そう言うと、彼は困ったように笑って振り向いた。

「そうかも。でも三好なら……大丈夫だと思って」

 その言葉が、胸に静かに落ちる。選ばれたわけじゃないが、高瀬先輩に信じられてはいる。

「俺からも条件があります」

 受け取ったカップを両手で包み込み、ゆっくり息を吐く。手のひらに伝わってくる熱を噛み締めながら、ぽつぽつと口を開く。

「本気にならないこと」
「……うん」
「嘘をつかないこと」
「それは……努力する」

 高瀬先輩からの返事は、少し間があった。都合のいい期間限定の関係の行く末を考えつつ、息を整えて語りかけた。

「じゃあ」
「じゃあ?」
「恋人役、引き受けます」

 彼は驚いた顔をしてから、ふわりと微笑む。

「三好……ありがとう」

 その言葉が、なぜだか少しだけ痛かった。

「条件、整理しよう」

 そう言って、ベッドに潜り込む高瀬先輩。起き上がって、背筋を伸ばしながら彼の隣に並ぶ。

「お互い、本命ができるまで恋人として振る舞うけど、けして深入りしない」
「はい」
「期間は未定」
「わかりました」

 高瀬先輩は慎重な性格を示すように、丁寧に一つずつ確認していく。そのたびに、彼の言葉を肯定した。

「……あと」

 高瀬先輩が一瞬、言葉を探す。

「連絡は、基本いつでも取れるようにしたい」
「俺、警備員なんですけど、現場にいると出られない時もあります」
「それは仕方ない。生活のリズムが違うんだし。だからさ――」

 昼の人と夜の人。そこをどう繋ぐか――高瀬先輩は引き出しから鍵を取り出し、俺の手に握らせた。

「……合鍵?」

 金属のそれを受け取った瞬間、僅かに声が上擦った。

「仕事が終わって、連絡がつかない時とか。無理に使わなくていい。ただ……来たい時に来られる方が、楽だと思って」

 それは合理的な説明だった。恋情を含まないものの言い方に、一瞬だけ眉根を寄せる。

 俺は手のひらの中の鍵を見つめ、俯いたまま高瀬先輩に訊ねる。

「それ……恋人の役として、ですか」
「そう」
「本命ができたら」
「返してもらう」

 きっぱりした言い切り。だからこそ息を吐いて、ようやく笑った。

「わかりました」

 差し出された鍵を自分のものにするように、ぎゅっと握りしめる。伝わってくる金属の冷たさが、やけに現実的だった。

「俺も……渡します」

 ベッド脇に置いてた鞄から、自分の鍵を外した。

「夜勤明けで連絡できない時とか、高瀬先輩が待たなくて済むように」

 高瀬先輩は驚いた顔をしたあと、俺から鍵を受け取った。

「……いいのか」
「条件の範囲内です」
「じゃあ」

 高瀬先輩は俺が渡した鍵を机に置いた。

「行き来は自由。ただし――」
「無断で踏み込みすぎない」

 彼が言葉を告げる前に、先に条件を言った。ふたりで視線を合わせて、少しだけ笑い合う。

 契約は、これで成立したはずだった――少なくとも、その朝までは。
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