役を降りる夜

相沢蒼依

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番外編

起きていた夜

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 眠っているふりをしていた。最初から、眠れてなんていなかった。

 高瀬の背中はいつも近い。同じ布団に入って、背中合わせで寝る。それだけで十分なはずなのに、目を閉じても意識は冴えていた。

(……今日は、やけに近いな)

 距離を測る癖が、どうしても抜けない。

 君を選ぶ――そう言われた。それでも、身体はまだ線を引こうとする。

 だから、背中合わせのまま動かずにいた。触れない。触れさせない――そのはずだった。

 どれくらい時間が経ったのか、わからない。夜勤明けの疲労と静かな呼吸音に、意識が少し揺らぐ。

 その瞬間、無意識に身体が動いた。

(……あ)

 気づいたときには、もう遅かった。額が高瀬の背中に触れている。すぐ離れようとして、できなかった。

 触れた額から伝わってくる高瀬の背中は、とてもあたたかかった。逃げ道みたいに自然で。考える前に、指が動いた。

 シャツの裾を、つまむ。ほんの少し。引き止めるつもりも、求めるつもりもない。

 ――ただ、そこにいてほしかった。

 その瞬間、はっきり目が覚めた。

(……やばい)

 これは甘えだ。役じゃない。条件にも、契約にも、書いてない行為。

 高瀬が動いたら、終わりだと思った。気づかれたら、離れなきゃいけない。

 なのに高瀬は、何も言わなかった。動かなかった。代わりに、背中の距離が、ほんの少し縮まった。

(……え?)

 驚いて指を離そうとした。でもその前に、手首に触れられた。包むような、力のない手。

 それは捕まえるでも、引き寄せるでもない。ただ、「そこにある」と教えるみたいな触れ方。

 呼吸が、乱れそうになる。

(たぶん……気づいてる)

 でも、起こさない。責めない。確かめない。ただ、受け止めている。

 その事実が、胸に落ちた。

 ――ああ。選ばれたって、こういうことか。

 言葉じゃなくて。約束でもなくて。逃げ場を壊さないこと。

 俺は、目を閉じ直した。今度は、本当に。

 この距離が許されるなら今は、それでいい。

 朝。目が覚めて、反射的に距離を取った。やってしまったことを思い出す。恥ずかしくて、情けなくて。

「……すみません」

 高瀬は、何も知らない顔をした。それが、ありがたかった。

 朝食も会話も、いつも通り。でも胸の奥にだけ、小さな変化が残っている。

 玄関で靴を履いてる背中に、思わず口を開いた。

「……あの」

 嫌だったら、言ってほしい。だけど本当は、違う言葉を探していた。

 高瀬は、穏やかに答えた。

「俺は全然嫌じゃなかった」

 その一言で、十分だった。

 選ばれるのは怖い。甘えるのは、もっと怖い。でも――。

 眠っているふりをして、触れた夜。あれは、逃げじゃなかった。初めて、自分から近づいた夜だった。

 だから。

(……次は)

 起きたまま、近づけたらいい。

 そう思えたこと自体が、もう前とは違っていた。
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