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出逢い

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 ピアノ講師のお仕事が休みだったので、 次の日に石崎さんがいる時間帯にお店に顔を出し、ピアノの調律をしてあげた。仕事以外で人様のピアノに触れられる機会があることに、なんとも言えないワクワクを感じるだけで、妙に落ち着かなくなってしまう。

 いつも以上にテンションの高い状態で調律をしたからか、予想していたよりも作業が短時間で済んだ。

「清哉は本当に、ピアノが好きなんだな」

「え?」

 滅多に名前を呼ばれることがないため、思わず手にしていた調律ハンマーを落としてしまった。ハンマーの金属部分が床に当たったけど、これくらいでは壊れたりしない頑丈な道具だった。

「おい、すごい音がしたな。それ大丈夫かよ、壊れたんじゃないのか?」

 カウンター越しに声をかけてくれた石崎さんに、慌てて頭を下げる。

「だ、大丈夫です。ご心配おかけしました……」

 慌ててしゃがみ込み、落とした調律ハンマーを手にして胸に抱きしめる。

「ちなみに聖哉は、ここでの仕事をいつからやってくれるんだ?」

「石崎さんの希望は?」

 質問を質問で返したというのに、石崎さんは気にする様子もなく、平然と答えてくれる。

「このあと店をオープンしてから。と言いたいところだが、聖哉の心の準備やどんな曲を弾くとか、いろいろあるだろう?」

「えっと……。その、バーでよく流れてるジャズクラシックを事前に選曲したので、実はすぐに弾けます」

「マジでか! すげぇな」

「そんなに、すごくな、ぃです……」

 感心する石崎さんから注がれる視線にどうにも堪えられなくなり、首を垂れるように俯きながら、震える声で事実を告げた。

 きちんとしたお店でピアノを弾くんだから、あらかじめリサーチして選曲し、耳コピするのは、僕としては当然だと思った。それなのに石崎さんに褒められたせいで、それをプレッシャーに感じてしまうなんて。

 さっき落とした調律ハンマーを意味なく握りしめながら、思いきって話しかけてみる。

「一応それ用のスーツも持ってきているので、着替えてから弾きましょうか?」

「いやいや、そこまで堅苦しい感じにしなくていいって。今の格好で充分だ」

 恐るおそる顔をあげて、カウンターの向こう側にいる石崎さんに視線を飛ばしたら、僕のことを優しいまなざしで見つめていた。

「今の恰好って、こんなのでもいいのでしょうか?」

 Tシャツの上に長袖のシャツを重ね着し、下は綿パンという出で立ち。お洒落なバーなのに、ラフすぎるのではと僕は思った。

「聖哉が持ってる、普段着で充分だ。それと俺からのお願い。おまえがここで、ピアノを弾きたいときに来てくれてかまわない。変に責任を感じて、毎日来なくていいから」

「それはとてもありがたい待遇なんですが、本当にいいんですか?」

「給金を出す関係もあるからな。そのときの客の入りで、変えさせてもらうことになる。それでいいか?」

 僕としてもここで働くこと自体、予想外だったので、臨時ボーナスみたいな感じになる。

「石崎さんにおまかせします。とりあえず今日はこのままお店の様子を見ながら、ピアノを軽く弾いてみますね」

「ああ。選曲は清哉にまかせるよ」

 こうして初日から石崎さんに翻弄される形で、ピアノを弾くことになった。コンテストとは違う緊張感に、僕の心はずっとドキドキしっぱなしだった。
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