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好きだから、アナタのために

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 閉店作業をいつもどおりにおこなう智之さんの気配を感じつつ、店内の拭き掃除をテキパキする。

 奥のテーブルの上を拭き終わって振り返ると、カウンターから智之さんが出てきて、僕に意味深な視線を注いだ。

「聖哉……」

 妙な雰囲気を肌に感じ、持っている布巾をぎゅっと握りしめる。智之さんはカウンター席に腰かけ、首を垂れて俯いた。

「智之さん?」

 近づいて来ないことを不思議に思い、彼の名を呼んだのに、俯いたまま暗い声で語り出す。

「あのさ、聖哉。昇さんの店で働く理由は、珍しいピアノを弾くことができるからか?」

「そうですね、滅多にお目にかかることのできない逸品ですし」

 すぐに答えた僕に、智之さんはゆっくり顔をあげて口を開く。

「他には?」

「他って――」

「おまえ、普段はほとんどミスることがないのに、今日はなんかおかしかったよな」

「それは、ちょっとだけ疲れが出てしまったのかも」

(――本当は智之さんに見惚れていたなんて、恥ずかしくて絶対に言えない)

「さっきも言ったが、無理してここに通って疲れをためることを、聖哉にしてほしくないんだ」

「僕が藤田さんのお店で働く理由は、ピアノだけじゃなくて」

「……ここよりも時給が良さそうだよな」

 智之さんに事実を告げられたため、隠していることを言わなければならなくなった。

「あのね僕、智之さんの力になりたいんです」

「力って?」

「ここのお店を維持するためのお金……智之さんの家で、銀行の返済計画書を偶然見てしまったんです」

「そうか」

「正直なところ、平日はお客様が少ないじゃないですか。週末でなんとか盛り返してる感じでやってますよね?」

 テーブルに布巾を置き、智之さんに視線を投げかけながら質問をした。

「まぁな。でもギリギリというほどでもない」

「借金の返済額を知ってしまった以上、僕もこのお店を支えたいって思ったんです」

「おまえの弾くピアノで、充分に支えてもらってる」

「でも僕は――つっ!」

 首を横に振って、もっと智之さんの力になりたいと言いかけたのに、僕の視線に留まった不機嫌な顔が、言いかけたセリフを見事に奪った。

「金を使って、俺をつなぎとめようとしてるのなら、やめてくれないか」

「えっ?」

「この店は、俺が丹精込めて経営してる店だ。赤の他人に、施しを受けるつもりはない」

(確かに僕は赤の他人。これ以上、首を突っ込まないほうがいいことは、わかっているけれど)

「好きな人が苦労しているのを知ってるのに、見て見ぬふりなんてボクにはできない!」

「聖哉には、ピアノでよくしてもらってる。だから金銭的な施しは、必要ないんだって!」

 苛立ちを含んだ、お店に響き渡る大きな声――智之さんの怒号が、ボクの胸に深く突き刺さった。

「僕からピアノをとったら、なにも残らない。ピアノを弾くしかできない僕は、智之さんにとって、お荷物になっちゃうのかな」

「なに言ってるんだ、そこまで卑下してないだろ」

「すみません、帰ります……」

 テーブルに置いた布巾を手に取り、急ぎ足でカウンターに向かう。

「聖哉、ちょっと待て」

 台所に向かいかけた僕の肩に智之さんの手が置かれたものの、上半身を使ってそれを振り払い、持っていた布巾を乱雑にキッチンに投げた。

「智之さん、さよなら」

 振り返らずに、そのまま店を出る。このやり取りのせいで、しばらく店に顔を出すことができなくなってしまったのだった。
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