エロサーガ 童貞と処女の歌

鍋雪平

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第七章「セックス」

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 現在と違ってまだ世界全体の地図が明らかになっていなかった時代、文明が及ばぬ未開の土地には暗闇が広がっており、未知なる危険な生物が棲んでいると考えられていた。
 そうした人間の生活に適さない場所には、太陽の光をさえぎる瘴気なるものが漂っていて、それを誤って食べたり飲み込んでしまった者は、動物のように理性を失って凶暴化すると信じられていた。
 昔の人々は、これを魔境と呼んで恐れた。
「ほら、食え。きのこだ」
「きのこ……?」
 クライオは、河原にある石ころでかまどを作って火を焚いた。
 いつも狩猟小屋を張って獲物を待ち構えている山奥の水辺だ。人の気配がすると動物が寄ってこなくなるので、今まで誰にも場所を教えたことがない。
 森の中を見渡せば、すでに真っ暗だった。落ち葉をそよがす風の音と、渓流のせせらぎのみが聞こえる。土地勘がなければ迷って帰れないだろう。
 北方山脈を流れる大河の水源は、冬になっても凍らない。川の底からふつふつと温泉が湧き出しているからだ。そのせいで辺りは不気味な霧に包まれ、見通しが悪かった。
「これは何という生き物でしょうか? もう死んでおります?」
「だからきのこだ。木の根っこから生えてくる子供みたいなもんで、そんなにじーっと見ておっても動かんぞ」
「なんてひわいな形をした食べ物でしょう。それに何だか、とってもいやらしい匂いがいたします。こんな得体の知れないものを食するなんて……」
 エロナは、舌を出して先っぽだけぺろりと舐めた。おそるおそる口を開けてくわえてみると、思いのほか弾力があって何とも言えない不思議な食感がする。
「昨日の夜、またあの夢を見たんだ」
 クライオは、拾った枝で焚き火を突っついて煙たがりながら、ぶっきらぼうに語り始める。
「いつものようにテントの中で寝袋をかぶって眠っていると、真夜中を過ぎたころ、ふと枕元に母さんが現れる。夢の中の俺は、なぜか子供のままだ。金縛りにかかって身動きが取れない」
「クライオ様のお母君と言うと、まさか、無念のうちに非業の死を遂げられたアクセラ妃の怨霊が……?」
「それから服を脱いで裸になった母さんが、上からのしかかるように覆いかぶさってくる。これから一体何をされるのか、俺は恐ろしくて目を開けることができない。ぞくぞくするような寒気を感じながら、ばれないように必死で寝たふりをする。そして、ふと目が覚めたら……」
 そこまで言って、クライオはきつく口をつぐんだ。地べたにあぐらをかいたまま、もじもじと恥ずかしそうに股間を隠している。
「……もしかして、お漏らしをされてしまった?」
「ああ、その通りだ。どうしてわかったんだ?」
「いいえ、何となくそんな気がしたもので……」
 エロナは、耳の後ろに髪をかけつつ気まずくなって目をそらす。
「つまり、あくまでも夢の中での出来事なのですね? 現実の世界では、まだ一度もそのような行為に及ばれたことがないと?」
 賢者グリフィムからエロナの手に託された書物の中には、未亡人アクセラ妃の隠し子であるクライオ王子が、捨て子として修道院に預けられたことが記されていた。
 血縁上の父親に関しては相変わらず不明だが、その出自を疑われた理由については詳しく書かれている。
 かの偉大なる皇帝アクセル一世は生前、自分の娘であるアクセラ妃と情を交わすために、何かしら理由をつけてはたびたび北方へ足を運んでいた。
 そしてある日、行きがかり途中まで同行していたオルスター卿と別れた直後、待ち伏せに遭って無惨にも誅殺された――と、賢者グリフィムは自身の見解を述べている。
「ひょっとして、君は魔女なのか?」
「えっ?」
「たった今、俺のおねしょを言い当てたじゃないか」
「そんなの、たまたまですよ」
「たまたま……?」
「いいえ、そういう意味じゃなくて、本当に偶然ですってば」
「この土地に古くからある言い伝えでな。男の子がおねしょをすると、どこからか魔女がやってきて金玉を取られてしまうんだ」
「その話でしたら、わたくしも聞いたことがあります。生きたまま皮を剥かれるんじゃありませんでしたっけ?」
「なんで知っているんだ。よそ者のくせに」
 まるで睨みつけるように疑わしげな目を向けられて、エロナはついつい自分のおへそを隠してしまう。
 エロナにとって母方の祖先に当たる長耳族は、人類の中でも最も古いと言われる種族だ。
 その昔、帝国に追われて秘境へ逃れた少数部族で、今ではもうほとんど生き残っていない。男性ではなく女性が世帯主となる母系の伝統があり、先祖代々、母親から娘にのみ受け継がれる独特の紋章がある。
 それが、下腹部に彫られた淫紋だ。
 妊娠してお腹が大きくなると、ぱっと花びらが咲くように美しい模様が広がる。身体的な痛みをともなう入れ墨やピアスなどの装飾を好み、種族全体に共通する長い耳や鼻の高さを自慢した。
「もしよかったら今晩、ここに泊まっていかないか?」
「えっ?」
「俺がいつもみたいに目をつぶって寝ているあいだ、何かおかしなことが起こらないか、辺りを見張っていてほしいんだ」
「わたくしに寝ずの番をしろと仰るので?」
「たぶん夢の中の出来事だと思うんだけど、もしかしたら俺自身が気づいていないだけで、本当は現実の世界で起こっている出来事かもしれない。そんなふうに考えると俺、毎晩怖くて小便にも行けないんだ」
「何を仰られているんですか。もう子供じゃあるまいし」
「もちろん嫌なら無理強いはしないが、どうせ君だって一人じゃ帰れないだろう? 夜が明けるまでのあいだ、魔物退治に協力してくれないか?」
「そんなことを言っておきながら、本当はわたくしを手籠めになさるおつもりでは?」
「まさかこの俺が、こっそり夜中に寝込みを襲ったりすると思うか? 君のことをセックスするつもりなら、とっくにそうしているさ。そんなに疑わしければ、俺の手足を縄で縛ってくれても構わない」
「いいえ、わたくしにそのような趣味はございません。そうされるのがお望みでしたら、やぶさかではありませんが……」
「じゃあ、俺はもう休むからな。あとはよろしく頼んだぞ。何か少しでも異変を感じたら、遠慮なく叩き起こしてくれ」
 それだけ言うとクライオは、弓矢や腰道具など武器になるものをすべてエロナに預けた。熊の毛皮を引っかぶるなり背中を丸めて小さくなる。
 エロナは、焚き火のそばで膝を抱えてうずくまりながら、心中何だか寂しい気持ちになる。
 クライオが我が家と呼んでいるのは、地面を掘って立てた柱に布をかぶせた粗末なテントだ。物干しがわりにロープを張って洗濯を乾かしており、どうしても見たくないものまで目に入ってしまう。
(……それにしても、さっきの話、本当に夢だったのかしら)
 悪夢にうなされて苦しげに眉をしかめるクライオ王子の寝顔を覗きながら、エロナは、どうするべきか迷ってふとこんなことを考える。
(ひょっとすると、クライオ様ご自身が幼いころ、実際に体験なされた出来事なのでは……? だとしたら、クライオ様のお心を悩ませている本当の原因は……)
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