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―桜miracle―

第1話 そうだ北山に行こう

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「はぁ……今日も疲れた」
 と僕は思わず独り言を吐いた。

 ちょうど今、朝廷での勤めが終わったところだった。
 僕は一年前から朝廷に出仕している。朝廷というのは、おかみを中心として、この平安の世の政治の中枢を担う場所である。朝廷は平安京の最北、おかみのおられる大内裏だいだいりにあり、大内裏だいだいりには朝廷だけでなく、帝の妃が数多あまた住まわれている後宮もここに存在する。
 この説明を聞いたら、朝廷で働いているというのはいかにも偉そうだが、朝廷といってもピンからキリまである。僕は帝のそば近くで勤めている華々しい大臣たちとは異なり、朝廷の最下層で様々な雑用をこなしているだけの使部しぶという下級の役人である。
 とはいっても、その雑用は決して楽な仕事ではないし、仕事をこなす以外にも、色々と気をつけねばならないことがあって――これが本当に色々なのだが――一日の勤めが終わると僕は心底疲れ果てているのだった。

 僕は家路を急ぐ。さっさと家に帰って休みたい。そう思うけれど、なかなかこの道のりが遠い。
   平安京は北と東を山々に囲まれ、西に鴨川が通っている。ちょうど鴨川以西から山までの平地の部分を占めているといっていいだろう。大内裏がある北側の辺りは有力貴族達が住む高級住宅地である。大内裏の近くに住めれば通勤も楽なのだろうが、使部のような下級役人がそんな所に住めるわけがない。僕の家はかなり距離のある平安京の南側だ。

 だから足に鞭打ってとにかく歩く。さっきまで視界には広い豪邸ばかりが続いていたが、少しずつ規模が小さい家も増えてきた。
 もう少ししたら、家に着く。

 そんな時に見知った顔に出会う。

 明るい茶色の前髪を左右に流し、緑がかった黒い瞳の端正な顔立ちをしたその男は、僕を見つけて頭の上でぶんぶんと手を振る。

「よぉ!」

 そんなに振らなくてもそこにいるのは分かるのにと、僕はため息をついた。

 僕の姿を見つけた途端に手を振ってくるこいつは、惟憲これのりという。
 惟憲これのりとは親同士の仲が良く、家柄も身分も、惟憲と僕とは変わらなかったから、自然と遊んでいたし、何かと一緒になることも多かった。
 朝廷に出仕してからは働いている場所は違うし、昔と今では状況は違うけれど、僕にとって唯一といっていい、気を遣わずに話が出来る人間である。

「よぉって……お前、何してるんだよ」

「何してるって……お前に用があるからここで待ってたんだろ」
 と惟憲が言う。じゃあ僕は待ち伏せされていたってことか。珍しいことでもないけれど。
 こいつは時々、僕の帰り道で待ち伏せし、よからぬ誘いをしてくるのだ。

「用って何だよ。くだらない用じゃないのか?」

「くだらない用でお前を待っているわけがないだろ?」
 と惟憲が得意満面に言う。
 だいたい、惟憲がこういう表情をする時は、惟憲にしてみれば重要な用でも、僕にとってはまったく下らない用なのだ。
 でも、ここでわざわざ僕を待っていたのに、用も聞かないというのは人としてどうかと思ったから、何の用なのかだけは聞いておいた。
「……何だ、そのくだらなくない用ってのは」

「北山に行こうぜ!雅行!」

「き、北山?何で急に」
 北山というのは、都から見て北東から北西にかけて連なる山間部一体のことをまとめて指す何とも曖昧な言葉で、北山と一口に言っても範囲は広い。そのなかでも鞍馬山なんかは、そこにある鞍馬寺に祈祷をしてもらいにいく人も多いから、都で有名である。また具体的にどの山かは分からないけれど『源氏物語』の若紫の帳で、光源氏が若紫に出会う場所としても知られている。
 それにしてもなぜそんなところに惟憲は行きたいんだろう。まさか祈祷でもしてもらいに行くんだろうか?……こう見えて、実は体調が悪いとか?

「なぁ行こうぜ~」
 そう言って惟憲は僕の腕を左右に揺らす。その仕草はいつもの惟憲そのもので、どこにも悪そうにみえるところはなかったけれど、少しだけ心配だ。
 ……表には出ないけれど、どこか悪いところがあるんじゃないだろうか。心細くて一緒に着いてきてほしいのに、いつもの癖でふざけたようにしか言えないんじゃないだろうか?

「惟憲……大丈夫か?」
「……え?大丈夫だけど?」
 何でそんなこと聞くんだ、という目で惟憲は僕を見る。

「遠慮なんてするな。何年お前と一緒にいると思っているんだよ」
「だから遠慮なく誘ってるんだろ。お前こそ大丈夫か?雅行」
 惟憲が怪訝そうに僕を見る。

 ここまで聞いて何も言わないってことは、体調が悪いわけじゃないのか?じゃあ何で北山に行くなんて言うんだ?僕には祈祷に行く以外の目的が思いつかないんだけれども。
 でも、さっきの「遠慮なく」っていう言葉が嘘だとは思えない。……ってことは惟憲の空元気などではなく、あの「北山に行こうぜ!」っていうのが惟憲という人間の「着いてきてほしい」という無言のお願いなのか?

「惟憲、分かったよ。一緒に行くよ」
 惟憲の無言のお願いを無視することは僕にはできなかった。これでも十数年来の腐れ縁ですから。

 僕がそう言うと、惟憲は
「……珍しいこともあるもんだなぁ。雅行が俺の誘いにすんなり乗ってくれるなんて」
 とびっくりしていた。
 確かに、いつも僕は惟憲の誘いはほぼ断っている。
 だけど今は違う。体調が悪いのに一人で山を登るなんて不安にきまっている。だから今は惟憲の誘いにのるのが、当然のことだと思っているだけだ。

「じゃあ、いつ行けばいい?準備しとくから」
 鞍馬寺はかなりの山奥にある。そこまで山を登るからには、それなりに準備をしておかなくてはならない。着替えとか……やっぱり着替えしかないな。

「何のために今日ここでお前を待ってたんだよ、今からだよ、今から」
「いくらなんでもそりゃあ無理だろう。こんな格好だし」
 帰宅途中なのだから、僕は当然、仕事着を着ている。朝廷に勤めている者の仕事着というのは朝服といって、高位の貴族では束帯を身につけているけれど、惟憲が就いている大舎人のような武官的な色合いが強い職だったり僕のような使部という職に就いている人間は武官装束だったり、それに近いものを身につけている。

「そんな遠いところでもなし、問題ねぇよ」
 遠いところでもないって……お前、どこ行く気なんだよ。鞍馬寺だったら、それなりに遠いぞ。
 惟憲の言葉を不審に思うけれど、惟憲はそんなのお構いなしに
「何事も善は急げ、だからな」
 と歯を見せて笑う。僕は惟憲に問いただそうと思ったけれど、もう惟憲は僕の腕を引っ張って歩き始めていた。筋肉隆々というほどではないものの、武官を務め始めてから惟憲はどんどん腕力を身に着け、今や僕の数倍はあるはずだ。そんなヤツの腕を振りほどけるわけもなく、仕事終わりの疲労も相まって僕はただ、ずるずると惟憲に引きずられていくしかなかった。

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