上 下
11 / 25
―桜miracle―

第7話 突然の願いごと

しおりを挟む
「え?」

 突然、何だっていうんだろう。

「……お願いがあるのです」

 お願い?僕に?……何を?

「……わたくしに桜を見せてはいただけませんか?」
「……あの、どういうことでしょう?」
 と僕が問うと、
「上手く話せないかもしれませんがそれでも聞いてくださいますか」
 と逆に聞かれた。その声には不安が滲み出ている。
「……大丈夫です」
 と僕は答えた。話を聞くことくらいはどうってことない。それくらいは恩返しがしたかった。

「……わたくしは生まれてから今まで、ずっと、この山で育ちました。この山を出たことは一度もありません。これからも出ることは永遠にないでしょう。それにご覧の通り、この透垣すいがいはわたくしの背丈以上ありますし、ここから都など見えるはずもありません。ですから、わたくしは都を知らずにずっと生きてきました。
 しかし……不思議なことに、その一度だけ、わたくしは透垣に出来たわずかな隙間から都を一望するかとができたのです。

 見渡す限り、どこまでも青を広げるそら。その下には人々が息をする家々、屋が並び、その間に顔を出す、薄紅か白かも分からぬ淡い花。それが都の一面に咲き誇る――。

 それを見たときの気持ちをどう表現すればいいのか、わたくしにはすべがありません。
 たった一度、見えただけです。それから後は一度も、そこから都の姿は見えなくなりました。……考えてみればおかしな話です。もしかしたら、わたくしは幻影か幻覚を見たのかもしれません。
 ……それを見しより後、わたくしはあの景色に焦がれ、その気持ちを抑えることができませんでした。できることなら、この透垣を飛び越えて、あの時と同じ景色を見てみたい。
 ですが、それは叶わぬ願いだと分かっています。だから……一度でいいから、あの桜という花を間近で見てみたい。

 ですが、わたくしにはそれを頼むことのできる人は今までおりませんでした。乳母や女房はみな、わたくしと同様、この山を出ることはなりません。ですからわたくしは待っていました。この庵の前を誰かが通ってくださることを……。

 そうしてあの日、ここに居合わせたわたくしはあなたを見つけました。あの日はなかなか話しかけられずにいましたが……今日、再び、あなたとお話しすることができました。

 この機を逃しては、今後わたくしの思いは遂げられぬと思い、失礼とは承知しながら、こうしてお願い申し上げている次第なのです」

 ははぁ、なるほど。
 この人の話を聞いていて僕は今までの疑問の答えに行き当たった。
 この人がただの通りすがりに過ぎない僕に、あまりにも優しかった理由。
 つまり、この人は僕に頼みたいことがあったから、食事をふるまってくれたし、僕を気遣ってくれたのだ。
 なんだ、と思わず呟いた。一気に気が抜けて、今まで感じていた違和感が消えてなくなった。僕はこの人の不自然な優しさがずっと理解出来なかった。対価もないのに優しくされるなんて、どこか不気味にさえ思ってしまう。
 ほっと胸を撫で下ろす。
 あの時「殺されるかもしれない」なんてよくもまぁ考えついたものだと思う。真実は単純で打算的だったのだ。

「……話は分かりました。では、一体僕は何をすればいいんです?」
 僕はそう問い返した。この世界は僕の知っている通りの世界だと改めて知ることが出来た。人に何かを与えるときは例外なく、その人間に何かしてほしいときなのだ。要するに見返りが欲しいわけである。この人だって何一つそれに外れていやしないのだ。

 分かりましたよ。僕にできる事なら、できる限りのことはしようじゃないか。だってあなたはそのために僕に優しくしたんだから。どんな理由があったにしろ僕はそれで助かったのだから。その気持ちには答えなくちゃいけないと僕は思った。

「桜の枝を……一枝で構いませぬ。折ってきてはもらえませんか?」
「枝を、折るんですか?」
 枝を折るって、大丈夫なんだろうか?
 都にいれば――特に左京では――桜はそれなりに生えているが、たとえ私有物じゃなくても、公道に生えているものだって国の所有物だ。枝を折るなんて、出来るんだろうか。

「あの……駄目でしょうか?」
 透垣すいがいの向こうの声は、あからさまにしょんぼりした。
 僕は水と食料のお礼としてこの人の願いを聞いてあげなくちゃいけないと思ったけれど、このいたいけな人に同情する気持ちも少しばかりあった。

 この人がどんな身分かは分からないが、若い女性で、こんな山奥に住んでいるなら、おそらく没落した貴族の娘とか、そんなところではないかと思う。現にあの庵を見ても生活は楽ではないだろう。

 ただでさえ女人は自由に行動できない上に、この時代には女人が自活する手段がほとんどない。女人が生まれ持った身分を保ち、尊厳を守って生きていくためには父親の力が必要不可欠なのだ。
 父親がいるうちは、辛うじて尊厳を守って生活していくことは出来るだろうが、父親を喪ったり――父親から見捨てられたりすれば、自身の身分に釣り合わない不本意な結婚をしなければならなくなったり、最悪の場合は飢え死にしてしまったりする場合もある。
 言葉通りの意味で、生死の境を生きている。それが没落貴族の女人を取り巻く、偽らざる現状だ。そんななかで、到底、都に出かける余裕などあるはずがない。それだけでも同情に値するが、その上、境遇のせいで、桜の花を見ることができないとは、あまりにも可哀想だ。

「世の中に たえて桜の なかりせば
春の心も のどけからまし」
 この世界に桜などというものが無ければ、春のなかにいる心も穏やかでいられることだろうに。

 『伊勢物語』に登場する「男」のモデルになったと言われている、かの在原業平ありわらのなりひらの歌によれば、桜という花は存在するだけで、否が応でも人の心を乱してしまうほど、とても風雅な花なのである。……僕はそこまでは思わないけれど、桜を美しいとは思わないわけはない。

 それを間近で見たことがないというのは不憫に過ぎる。日本人ならば一度は桜を見て、その歌の一つでも詠んだらいいと思う。あくまで僕の意見だけど。
 だから……ほんの少しだけ。少しだけだけど……この人に桜の枝を見せるくらいは、してあげたいと僕は思った。

「……分かりました」
「ほ、本当ですか?」
「約束はできません。僕は都の人間であっても、高い身分や地位を持っているわけではありませんから。何でもできるわけじゃありません。ですが、少し考えてみます」
「あ……ありがとうございます!本当にありがとうございます!」
 もしかするとこの人は、透垣の向こうで何度もお辞儀しているのではないか。その証拠に透垣に何かぶつかる音がするのだ。

 喜びすぎじゃないか?“考える”と言っただけなのに。
 出来るかどうかも分からないのに、そんなに喜ばれたら気分が重いじゃないか。

 僕はこの人に少し同情しただけだ。
 この人には悪いが、僕が願いを叶えられる可能性は限りなく少ないし、出来ない場合は出来なかったと言えばいいだけのことだ。自らを危険に晒してまでこの人の言うことを聞かねばならないことなどないのだから。

しおりを挟む

処理中です...