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―桜miracle―
第10話 若紫は籠の中に
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辺りは段々と暗くなっていく。
少女はすっかり静かになった透垣の向こう側を見つめる。見つめると言っても、実際に透垣の向こう側が見えるわけではない。
しかし見えなくとも、確かにあったはずの温もりを、もう感じることは出来なかった。
少女の前にあるのは、やはり無機質なそれだけだ。
しかし、さっきまで確かに感じていた、人の気配や体温はきれいさっぱり消え去っていた。
「……」
少女は頭上を見上げる。暮れていく世界のなかで、太陽がわずかに残したオレンジ色の光を映した木々が庭に覆いかぶさるようにして葉を広げている。
昼は徐々に消えていく。少女一人を置き去りにして。
冷たい透垣に手を置いて強く力を込めた。しかし透垣は少しも動かない。
「やっぱり駄目だったか……」
少女は渇いた笑いをこぼした。
少女は「あの人」のことを責める気持ちなどこれっぽっちもない。いくら命を助けたとはいえ「あの人」には少女の願いごとを叶える義理や義務など一つもないのだと、少女は理解している。それなのに少女の願いのことを叶えようとしてくれたのだ。
乳母や女房達は少女のことを怖いもの知らずなのだと思っていた。何度叱られようと、少女は懲りずに端近にいたから。
しかし、それは違った。少女は確かに外の世界に憧れていたけど、本当はいつも怖かった。
誰も話なんて聞いてくれないんじゃないかって。透垣《すいがい》の向こう側も大してここと変わりなんかないんじゃないかって。もしかしたら、今よりも酷いんじゃないかって。
でも、違った。少なくとも「あの人」は。
いつも「あの人」は話を聞いてくれる。いつもあの人は真っ直ぐに答えてくれる。
(話を聞いてもらうのって、それに答えてくれるのって、こんなにも嬉しいことだったんだ)
その発見は、少女が今まで感じたことのない温かさがあった。
そんな「あの人」を恨んだり、責めたりする気持ちなど、少女にあるわけはなかった。
ただ、ただ。
それでもやっぱり、少女は思ってしまうのだ。
三年間、待っても。やっと自分の願いを叶えてくれそうな人に出会えても。
少女の願いは叶わない。
どうしようもなく悲しい時。少女はいつも、あるお話を思い出す。
むかし母が少女に語って聞かせてくれた奇跡のような話。
稀代の貴公子である光源氏が一人の少女を救い出した話。
光源氏が生涯、面影を追い続けた継母の藤壺。その姪であった若紫は北山の地で源氏に見出され、彼の手元で育てられる。やがて彼女は源氏の「最愛の妻」と呼ばれるまでになるけれど、藤壺の面影を追い続けた源氏が女三宮を正妻に迎えたことで彼女は深い懊悩に迷い込むことになる。
この話を知っていたら、若紫は源氏のせいで不幸になったと思うだろう。藤壺を手に入れられない源氏が、自分を慰めるために、強引な手段で自分のもとに連れてきたのだから。
しかし本当に彼女は不幸だったのだろうか。
光源氏が彼女を連れ去らなければ、若紫はどうなっていたのだろう。
父である兵部卿宮は、若紫の養育を若紫の母方の祖母に任せっきりにしていた。その祖母は自分の老い先が短いことを悟っていたから、自分の死後、孫がどうなるか深く憂いていた。
このまま祖母が亡くなってしまえば若紫は後見を失い、路頭に迷ってしまう。たとえ兵部卿が迎えに来たとしても、兵部卿宮家では、若紫にとって継母にあたる兵部卿宮の正妻が権力を振るっている。そんな中で果たして生き抜くことができるだろうか、と。
祖母は最期まで若紫の行く末を心配しながら、亡くなってしまう。
若紫の祖母が憂いた結末が回避されたのは、光源氏が若紫を引き取ったからだ。
光源氏は若紫を助けた。それが彼のエゴであっても。
それは確かな事実だ。
彼女も、少女も、籠の鳥であることに間違いはない。
でも彼女は助けられた。
……じゃあ少女は?
少しだけ、夢を見ていた。彼女のように飛べる日を。
怖いけれど、手を伸ばしたら。
誰かが手を掴んでくれるんじゃないかって。
いつか飛べるんじゃないかって。
でも違った。
少女が今まで漠然と信じさせられてきた仏様も、高天原にいる神様もこの世の、ありとあらゆるところにいるという神様も、はたまた、少女が知ることもない国の神様も。
少女の、今まででたった一つの願いを。いや、これからの生涯を通じても、たった一つしかないであろう願いを。
叶えさせてはくれないのだと。
「やっぱりわたくしは……永遠に籠の鳥なのですね」
少女は思う。
永遠にここからは出られないのだと。
少女はすっかり静かになった透垣の向こう側を見つめる。見つめると言っても、実際に透垣の向こう側が見えるわけではない。
しかし見えなくとも、確かにあったはずの温もりを、もう感じることは出来なかった。
少女の前にあるのは、やはり無機質なそれだけだ。
しかし、さっきまで確かに感じていた、人の気配や体温はきれいさっぱり消え去っていた。
「……」
少女は頭上を見上げる。暮れていく世界のなかで、太陽がわずかに残したオレンジ色の光を映した木々が庭に覆いかぶさるようにして葉を広げている。
昼は徐々に消えていく。少女一人を置き去りにして。
冷たい透垣に手を置いて強く力を込めた。しかし透垣は少しも動かない。
「やっぱり駄目だったか……」
少女は渇いた笑いをこぼした。
少女は「あの人」のことを責める気持ちなどこれっぽっちもない。いくら命を助けたとはいえ「あの人」には少女の願いごとを叶える義理や義務など一つもないのだと、少女は理解している。それなのに少女の願いのことを叶えようとしてくれたのだ。
乳母や女房達は少女のことを怖いもの知らずなのだと思っていた。何度叱られようと、少女は懲りずに端近にいたから。
しかし、それは違った。少女は確かに外の世界に憧れていたけど、本当はいつも怖かった。
誰も話なんて聞いてくれないんじゃないかって。透垣《すいがい》の向こう側も大してここと変わりなんかないんじゃないかって。もしかしたら、今よりも酷いんじゃないかって。
でも、違った。少なくとも「あの人」は。
いつも「あの人」は話を聞いてくれる。いつもあの人は真っ直ぐに答えてくれる。
(話を聞いてもらうのって、それに答えてくれるのって、こんなにも嬉しいことだったんだ)
その発見は、少女が今まで感じたことのない温かさがあった。
そんな「あの人」を恨んだり、責めたりする気持ちなど、少女にあるわけはなかった。
ただ、ただ。
それでもやっぱり、少女は思ってしまうのだ。
三年間、待っても。やっと自分の願いを叶えてくれそうな人に出会えても。
少女の願いは叶わない。
どうしようもなく悲しい時。少女はいつも、あるお話を思い出す。
むかし母が少女に語って聞かせてくれた奇跡のような話。
稀代の貴公子である光源氏が一人の少女を救い出した話。
光源氏が生涯、面影を追い続けた継母の藤壺。その姪であった若紫は北山の地で源氏に見出され、彼の手元で育てられる。やがて彼女は源氏の「最愛の妻」と呼ばれるまでになるけれど、藤壺の面影を追い続けた源氏が女三宮を正妻に迎えたことで彼女は深い懊悩に迷い込むことになる。
この話を知っていたら、若紫は源氏のせいで不幸になったと思うだろう。藤壺を手に入れられない源氏が、自分を慰めるために、強引な手段で自分のもとに連れてきたのだから。
しかし本当に彼女は不幸だったのだろうか。
光源氏が彼女を連れ去らなければ、若紫はどうなっていたのだろう。
父である兵部卿宮は、若紫の養育を若紫の母方の祖母に任せっきりにしていた。その祖母は自分の老い先が短いことを悟っていたから、自分の死後、孫がどうなるか深く憂いていた。
このまま祖母が亡くなってしまえば若紫は後見を失い、路頭に迷ってしまう。たとえ兵部卿が迎えに来たとしても、兵部卿宮家では、若紫にとって継母にあたる兵部卿宮の正妻が権力を振るっている。そんな中で果たして生き抜くことができるだろうか、と。
祖母は最期まで若紫の行く末を心配しながら、亡くなってしまう。
若紫の祖母が憂いた結末が回避されたのは、光源氏が若紫を引き取ったからだ。
光源氏は若紫を助けた。それが彼のエゴであっても。
それは確かな事実だ。
彼女も、少女も、籠の鳥であることに間違いはない。
でも彼女は助けられた。
……じゃあ少女は?
少しだけ、夢を見ていた。彼女のように飛べる日を。
怖いけれど、手を伸ばしたら。
誰かが手を掴んでくれるんじゃないかって。
いつか飛べるんじゃないかって。
でも違った。
少女が今まで漠然と信じさせられてきた仏様も、高天原にいる神様もこの世の、ありとあらゆるところにいるという神様も、はたまた、少女が知ることもない国の神様も。
少女の、今まででたった一つの願いを。いや、これからの生涯を通じても、たった一つしかないであろう願いを。
叶えさせてはくれないのだと。
「やっぱりわたくしは……永遠に籠の鳥なのですね」
少女は思う。
永遠にここからは出られないのだと。
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