春分の暁

曼荼羅

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一話 私の日常的な風景

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 落ちていく桜をぼぉんやりと目で追ってみた。ゆらぁりゆらり、秒速五センチメートルで重力に吸い込まれていく。
 妖怪みたいなアパートの二階、つまり自室の小さい窓から、顔を妖怪みたいに出して桜並木を楽しんでいた。外は春の甘ったるい匂いと、太陽に焦がされたアスファルトの匂いと、おんぼろトラックからぼうぼうと吐き出される排気ガスの臭いに満ち満ちていた。
 春に浮かれて騒ぐ子供たちや、身の丈に合わないお洒落をして歩くカップルどもを見ているだけでも楽しく感じられる。今なら罵声と怒号と上司の愚痴を言ってもばれないような気さえする。
 突然、烏だか鳩だかが私の目線約五十センチの所を横切っていった。吃驚しすぎて体がのけぞる。そして窓の縁に頭を強く打つ。ごぉぉん!と縁も頭の中も響き渡って、オーケストラと言わんばかりの反響っぷりを見せつけられた。

「いってぇ……!」

 後頭部を抑えながらのたうち回り二次元的盆踊りを踊る。もちろん床はどたどた鳴るので、騒音被害は甚大智則じんだいとものりといった感じだった。
 窓をやけに小さくした設計者と私の不注意に並々ならぬ憎悪を向けながら、起き上がりのっそりとあぐらをかく。ついでに隅っこに置いてあるペプシ・コーラ ゼロをのろのろと取ってはラッパ飲みをかまし、げっぷを一つしたところでやっと行き所のない憎悪が落ち着いてきた。感情の操作などちょろいものである、と思った。

 窓の外の絵画のように縁どられた桜を瞳孔にじゅわぁと焼き付けた後、CDプレイヤ―とCDを押し入れから引っ張り出そうと冒険に出る。。中は埃臭く、花粉症になったかのようなくしゃみを連発した。花粉症持ちではないが、多分かかったらこんな感じにくしゃみ三連撃をかまして鼻水を小僧みたいにだらぁっと垂らすのだろう。
 押し入れから帰還すると、春の匂いが鼻孔に戻ってきた。まだ鼻がむずがゆい。それはそうとして、CDプレイヤーの電源ケーブルを正確に差し込んで、白くて小ぶりで製造会社不明な本体を私のやや右前側に置く。そしてCDのパッケージを開く。
 アーティストは小野リサ。もう十年以上前のアルバムで、所々に傷だったり変な跡が付いていたりするが、保存状態はかなり良い。CDを取り出して本体にセットし、再生ボタンを押す。今時CDで曲を聴く物好きは私くらいしかいないだろうなぁと思ったりする。

 明るくてしっとりしたギターの音が流れてくる。私は耳を傾けて目を瞑る。あゝ、春の風に乗って、どこか草原に行ってゐるような気分だ。などと文豪――夏目漱石だったり芥川龍之介だったり――の真似事を頭の中で繰り広げてみる。
 やがてしっとりとしたボーカルが入る。桜が散っている。曲はカント・パラ・ナナン。
 私は風に乗って、草原へと来た。草の匂いにつつまれて私は歩いていく。木々はぽつぽつとあるばかりで、人も動物も一切見当たらなくて、モンシロチョウだけが草原の春を告げている。あそこの木の下、多分百メートルくらいの距離に、待ち人がいるような気がしてならない。ぼぉんという太鼓の音がするたびに私はスキップをする。時折南の方角から風が吹く。心地いい。
 ガトーショコラくらいしっとりとした微睡に落ちていく。スキップは遅くなっていき、草原は夜になっていく――

 ピーンポーン

 死神の宣告が来たと言わんばかりに跳ね起きる。ピンポンは正確にはEとCだろと意味の分からないことを頭の隅っこで怒りながらも、玄関へとのっしのっしと向かっていく。

「はーい……!」

 眠気と怒りと上司への鬱憤を織り交ぜてドアを開けるが、誰もいない。まさかドアの裏かと思って回ってみるもいない。ドアから向かって左側は人ん家だ。なんだどうしたいたずらかと思っていると

「やーいオバケおっさーん!」

 と右側道路方面から子供の声がする。それくらいの言葉では私は動じない。ひょろ長のっぽのガリガリ男だと自負している以上、そのような赤ん坊レベルの罵倒では一切憤りも感じない。だが、

「彼女なしー!だからガリガリなんだよー!」

 とまで実際に言われると、さすがに憤りを通して殺意を抱かざるを得ないし、今現在殺意を超えた何かが心に宿ったような気がする。子供だとはいえ容赦はしない。サンダルを履き、猛ダッシュで道路に出る。ガキはもういない。

「やーいやーい!捕まえてみなー!」

 左の方から声。地面を抉るように蹴り、手をナイフにし空気抵抗を極力まで減らして走る。桜の花びらが目に入りそうになる。

「あんにゃろぉー!とっ捕まえるぞ!」

 叫ぶ。ガキもイノシシ並みのスピードで住宅街を駆け抜ける。だがしかし私にとっては兎に過ぎない。私はというとインド象、あるいはティラノサウルス、あるいはビッグバンかもしれない。そのくらい今の私には爆発力がある。
 うねうねとした道に入る。ここも住宅街。兎少年の姿はロックオンザ眼中したままだ。

「待てやぁぁぁ!!」

 近所迷惑スレスレの雄叫びを上げながら地面を蹴る。体力は底を抜けてブラジルまで行ってしまっているが、まだ私は走れている。少年は後ろを向いてあっかんべーをかましてくる。よくそんな器用なことができるなと感心しつつも、怒りは絶えず燃えたぎっている。
 そうして住宅街を抜け、商店街を抜け、野を超え山を越え日本横断、まではしていないが自分でも驚くほど長く走った。少年は商店街の角を曲がったところで見失い、先ほどまで意気消沈していた。現在は無駄に大きい公園の無駄に大きいベンチに腰掛けて八分咲きの桜をぼぉんやりと眺めている。

「……いやぁ、春だなぁ」

 私の口から思ったことが漏れる。周りには春の甘ったるい匂いと、太陽に焦がされるアスファルトの匂いと、自分の体から溢れ出る体臭に満ち満ちている。
 どこかの自販機でカップ酒でも買って花見をしよう、と思った。こんな昼下がりに酒を煽ったら、さぞかし美味いだろう。だが財布が無いぞ。いや酒なんぞ無くても花見はできるか。深呼吸をしたら、春で体がいっぱいになったような気がした。
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