四季の姫巫女2

襟川竜

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第二幕 埜剛と埜壬

第三〇話

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「…すまねぇ」
 その言葉は、自分が巻き込んでしまった二人だけでなく、結果として裏切ってしまった親友にも向けられていた。
「や…ごう…」
「あやめ…っ」
 謝罪の声が聞こえたのか、彼女がゆっくりと目を開けた。か細い声は、集中していなければ聞き漏らしてしまいそうだ。
 抱き起こされた彼女は、そっと埜剛の頬に手を当てた。自身の血で濡れた指先は、埜剛の頬に血の跡を残す。
「俺がもっと早く駆け付けていたら、こんな…。すまない、あやめ」
 その言葉に、彼女はゆっくりと首を横に振った。穏やかな笑みが、目に焼き付く。
「私、今とっても幸せよ。愛する人に看取ってもらえるのだから」
「馬鹿言うな。今ならまだ間に合うかもしれねぇ。一か八かの方法が…」
「埜剛」
「なんだ?」
壬左 じんざを、私の大切な弟を助けて。私の為に、一人で戦ってくれたの。いつもそう、あの子は、私の為に頑張ってくれていたわ。だから、今からでもいいの。あの子だけの幸せを見つけて欲しいの」
「あやめ…」
「私は十分すぎる幸せを二人からもらったわ。大切な家族、愛するひと。三人で過ごした半年は、私の宝物よ。最期に、貴方にも会えた。もう、十分よ。だから、お願い。壬左を助けて」
「…っ」
 彼女は分かっていたのだろう。埜剛には、どちらか一人を助ける力しかない事が。
 岩鬼という種族は、妖術は不得手だ埜剛には治癒術は使えない。今すぐに高度な治癒術か医者に見せなければならない二人を助ける術すべはないのだ。
 埜剛が言う『一か八かの方法』では助けられるかどうかもわからない。もし助けられたとしても、どちらか一人しか救えないだろう。
 そのことを察したのだろう、彼女は恋人である自分ではなく、たった一人の家族を助けてくれと願ったのだ。
 幼い頃に両親を亡くし、それ以来二人で暮らしてきた姉弟は、例えモノノケであっても新しい家族が出来た事が本当に嬉しかった。三人で過ごした半年間は、三人にとっても宝物だった。
 怪我をして動けなかった埜剛を、二人は恐れる事無く介抱した。そんな二人の優しさに触れ、埜剛は二人を命に代えても守ろうと誓った。
 なのに、結果はどうだ?
 守るどころか助ける事すら出来ていない。
 どちらを助けるか早く決めなければ、どちらも助ける事が出来ない。
「埜剛、私のお願い、叶えてくれるよね?」
「…ああ」
 優しく背中を押した恋人を強く抱きしめ、埜剛は頷いた。
「ごめんね。それから、ありがとう」
 微笑む彼女に口付け、そっと地面に横たえると、埜剛は彼に向かいあぐらをかいた。合掌し、目を瞑る。
「我が魂は球となり、現と冥土を繋ぐ橋となれ。彼の者に我が魂の恩恵を」
 埜剛の胸から琥珀色の光が溢れ出し球状になる。その光の球を埜剛は彼へと差し出した。光の球は彼の中へと吸い込まれるようにして消えた。
 すると、彼の体は淡い琥珀色に輝きだし、見る見るうちに傷が塞がった。青白い肌や紫色の唇に血色が戻る。
「うっ…ぐ…あ…かはっ」
 だが彼は眉間にしわを寄せ苦しみ始めた。髪の色が徐々に新緑から金へと変化していく。脂汗も浮き、苦痛が伴っているのは間違いない。
「あが…うがあああああ!」
 苦痛で暴れ始めた体を押さえつけ、舌を嚙まないようにと埜剛は自分の腕を彼の口にねじ込んだ。
 埜剛が彼に与えた光の球は、モノノケにとっての心臓とも呼べる落魂珠だった。彼の尽きかけている生命力の代わりに、自身の落魂珠を与えたのだ。
 だが、人間に多量の妖力を与えるのはとても危険な行為でもあった。人によって症状は違うが、それでも何かしらの変異が起こる。
 彼の歯が埜剛の腕に食い込む。柔らかな皮膚も、まるで岩鬼のように固くなっていく。

 彼に起きた変異、それは、人間から岩鬼になるというものだった。

 目が覚めたらきっと、彼は埜剛を責めるだろう。
 なぜ姉ではなく自分を助けたのだ、と。
 なぜ岩鬼にしたのか、と。

 憎まれてもいい。
 恨まれてもいい。
 許されなくてもいい。
 恋人の最期の願いを叶えたかった。
 どちらか一人でも助けたかった。
 二人とも失うなんて、心が耐えられなかった。
 目が覚めた彼に拒絶される事は分かっている。
 それでも、生きて欲しかった。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。気づいた時にはもう、彼は大人しく眠っていた。呼吸も安定しているから、もう大丈夫だろう。
 見た目の変化は髪の色だけだ。
 だが、触れればわかる。体は岩鬼そのものだ。気配も自分と同じだ。今の彼は九割がた埜剛から流れ込む妖力で生きているのだから、当然だろう。
 拒絶されても側に居続けなければ、妖力を与えられずに彼は死んでしまうだろう。
 全て覚悟の上で、彼女の願いを優先させた。
「あやめ、壬なら助かったぜ。あやめ…あやめ?」
 彼女の元へと赴けば、満足そうに笑い、すでに息を引き取っていた。
「壬は、俺が必ず守る。この命に代えても、必ず。だから、見てて…くれよ…な…」
 彼女を彼の隣に寝かせ、彼が目を覚ますのをただじっと待つ。
 二人同時には、里まで運べない。

 無数の死体が転がり、血の臭いが充満する中で、埜剛はただ、静かに泣いていた。
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