名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

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 グッセンは五十も半ばに達してはいたが、その体は壮健そのものだ。髪はほぼ真っ白になってしまったが、老いによる衰えよりも老獪さが鋭い目からにじみ出ている。
 そのグッセンは屋敷の一室で唇の端をぐにゃりとひん曲げていた。

 マリーはそのグッセンの顔を見ながら一歩近づいた。

「本当なの? あんたが……」

 村を襲わせて、村人たちを殺し、そして自分を奴隷も同然の状態にまで追い詰めた。もし自分が借金を返さなければ、村人から土地や金を取り上げて追い詰めるつもりでいた。
 そのすべてが仕組まれていたというのなら、自分のすべてがこの男に壊されたことになる。

 両親は殺された。村の人たちの多くも無残に殺され、生き残った人たちもあのままでは生きてはゆけなかっただろう。
 グッセンが金を貸すと言わなければ、生き残った村人たちはあの村で生きてゆくことは出来なかったはずだ。


「グッセン!」

 マリーが大股で近づいた瞬間に、グッセンの左腕が伸びてきた。グッセンの親指と人差し指の間が、マリーの喉に突き刺さる。
 突然の喉輪にマリーが鈍い声を漏らす。マリーの動きが止まったのとほぼ同時に、グッセンはマリーの背に回りこんだ。
 グッセンは太い左腕を後ろからマリーの首に回し、右手をさっと上げた。グッセンの右袖から何か尖ったものが現れたのを、マリーは視界の端で捉えた。

 グッセンが大声を上げる。

「動くな! おいてめぇ! 動くんじゃねぇ」

 おそらく、グッセンの視線はルキウスに向けられているのだろう。グッセンは人質をとって、ルキウスの行動を止めるつもりらしい。マリーは喉輪の衝撃から立ち直ると同時に呆れてしまった。
 出会ったばかりの自分に、ルキウスにとって人質になるほどの価値があるとは思えない。
 ルキウスならば二人まとめて簡単に殺すことが出来るだろう。

 ルキウスが何か行動を起こすだろうと思ったが、ルキウスは目を細めたまま動かなかった。その態度を見て、グッセンが喜びの混じった声をあげる。

「はははっ! そうだ、動くなよ」

 マリーにはルキウスが何を考えているのかわからなかった。ルキウスほどの魔法使いであれば、二人まとめて殺すことなど容易いだろうし、そもそも出会ったばかりの自分に人質としての価値があるとは思えない。
 ルキウスはただ自分が思うように行動すればいいだけだ。


 マリーは羽交い絞めにされながら、どうにか声を出した。

「グッセン、あんたがわたしの村を」
「ああ、あれか。あれは上出来だった」

 罪の意識などまったく感じられない言葉だった。グッセンは自分の仕事が上手く行ったという誇りを滲ませて、嬉しそうに話し始める。

「へっ、あんな村はどうでもよかったがな、マリー、お前が手に入ったのは上出来だった。あの時のお前はまだ十四か十五くらいか、まだ硬くて幼いその体を、存分に味わったっけなぁ。涙目のお前を跪かせて、散々楽しんだっけなぁ……。楽しかったぜ。お前の体の成長をひたすら味わって味わって、まったく、たまらねぇ体しやがって」
「なっ……」

 マリーの足が震える。この男がすべてを認めた。怒りのせいで顔面が熱くなる。だが、それよりも悔しさが先立った。
 自分は間抜けにもずっと騙され続け、この男の言いなりになってきた。両親を殺した相手に腰を振り、その男の機嫌を取り続けた。そうしなければ生きてゆけなかったのだ。
 両親がいた頃は幸せで、自分は穢れなど何一つなかった。だが、この体は汚水の中に叩き落されて、腐臭をも振りまくほど汚れてしまった。

 自分の愚かさが体を絞り上げてくる。胃がぎりぎりと縮んで痛む。触れれば火傷をするのではないかと思うほどに、自分の顔が熱くなっていた。
 視界がぼんやりと滲む。溢れた涙が目を濡らす。頬を伝って流れる涙が、細い顎へと川をかけた。


 もう死んでしまいたい。
 もう、生きていたくはない。
 ルキウスがすべてを終わらせてくれればいい。

 瞬きをすると涙がぽとぽととグッセンの腕へと流れた。グッセンが右腕をルキウスに向かって伸ばす。

「動くなよ、動けばこいつは死ぬ」

 グッセンが腕を伸ばしたから、その手に持っているものが何かわかった。グッセンが握っているのは小さな鋏だった。おそらく引き出しを開けて中のものを取り出した時に、こっそりと袖の中に仕込んだのだろう。
 そんな小さな鋏でも先は尖っている。この細い体を死に至らしめるには十分だろう。

 マリーはルキウスの顔を見た。ルキウスは渋い顔でグッセンを睨んでいる。
 何を躊躇っているのかわからない。あの六人の男たちにしたように、さっさとグッセンと自分を殺せばいいのだ。そこでマリーがふと思い出す。あの時、ルキウスは誤って馬を傷つけてしまっていた。
 もしかするとそれほど精度の高い攻撃ではないのかもしれない。だとしても構わない。自分ごとグッセンを殺して欲しい。

 マリーは震えていた唇から、声を漏らした。

「ルキウス、殺して」


 そう言った瞬間にグッセンの左腕が喉に強く食い込んだ。息さえ出来なくなるほどで、嘔吐でもしそうなほど気分が悪くなる。マリーはグッセンの左腕に爪を食い込ませたが、グッセンにとっては大した痛みではないようだった。

 グッセンが大声をあげる。

「よぉし、動くなよ……、どうやら来たようだ」

 グッセンが何を言っているのかわからなかった。グッセンはルキウスを見たまま、自分の体ごと窓際に移動した。窓の外に二十近い松明の灯火がちらりと見えた。
 どうやらグッセンの手下がやってきたらしい。ここに来るまでの間に、ルキウスは屋敷の人間を十人以上打ち倒していた。そのうちの誰かが助けを呼びに行ったのだろう。

 ルキウスがどれほど強いのか自分にはわからなかった。駆けつけてきた男たちから逃れることが出来るのだろうか。
 そう考えて、マリーは苦笑した。どうして自分がルキウスの心配などしているのだろう。この男もグッセンと変わらない。女を物だと思っていて、支配しようとしているのだ。
 ルキウスもただの下衆野郎に過ぎないはずだ。


 グッセンは窓際にまで来て、そこでルキウスに鋏を向けたまま怒鳴った。

「いいかてめぇ、両手を挙げろ。従わなけりゃマリーを殺す。なに、てめぇは殺しはしねぇから安心しろ」

 そんな見え透いた嘘を平気で語り、グッセンが老いの混じった口臭をマリーの顔の傍で吐き出した。
 ルキウスは渋い顔でグッセンを睨んでいたが、肩の力を抜くかのように溜息を吐いた。

「貴様に言いたいことがある。余はこれでも寛大に、礼儀正しく振舞ったつもりだ。余は貴様を殺すつもりはなかったし、ことが済めばすぐに去るつもりでいた。しかし、貴様はしてはならんことをした」
「ごちゃごぎゃうるせぇ! さっさと手を挙げて壁に手をつけ、絶対に動くなよ、動けばマリーは死ぬ」
「それは困るな、その女を殺されるのは困る。余の目的を達成するために、その女は必要なのだ」
「知るかボケ! いいから黙って言うことを聞け!」

 グッセンの怒鳴り声に対して、ルキウスが小さく首を振る。

「マリーは余の女だ、貴様ごとき野鼠が触れてよい女ではない」
「うるせぇ! さっさとしねぇと」

 そこまで言った時、グッセンの体がびくりと硬直した。マリーは自分の視界の中で、奇妙なことが起こっているのを見た。グッセンの伸ばした右腕の先が、順番にぽとりぽとりと床に落ちてゆく。
 ソーセージを端から輪切りにしたかのように、グッセンの指が指一つ分ほどの幅で切断されて、ぽとりと床に落ちた。

 グッセンにも何が起こったのかわかっていなかったのだろう。短い悲鳴をあげた。グッセンの腕が端から切り落とされてゆく。何か刃物のようなものがあるようには見えない。
 何故こんなことが起こっているのかもわからない。見えない包丁はついにグッセンの手首にまで達していた。床には切り刻まれたグッセンの指や、手の平の肉が落ちている。

 今頃になって気づいたが、どうやらグッセンの左手も同じように先端から輪切りにされていた。グッセンは自分の体を離し、窓際で自分の腕を見ながら恐怖で顔を引き攣らせている。
 ついにグッセンの肘の先が切り落とされた。

 マリーは覚束ない足取りでルキウスのほうへと駆け寄った。これ以上立つことができず、マリーが膝をつく。振り返ってグッセンのほうを見ると、グッセンが落ちてゆく自分の腕を眺めたまま目を限界まで見開いているのがわかった。

 ルキウスが面倒くさそうに溜息を漏らす。

「はぁ……、厄介なことになったものだ」
「ルキウス、外にあいつの手下が」
「そんなものはどうでもいい。だが困ったことになった」

 ルキウスが何を考えているのかわからない。ルキウスは再び溜息を吐いて軽く首を振った。

「さて、どうしたものか……。マリー、どうする?」
「え? なにが」
「この男を殺すかどうかだ」

 ルキウスはそう言ってマリーを見下ろした。
 何故その判断を自分に委ねようとするのかわからない。ルキウスならば自分の思うがままにすることが出来るだろう。

 ルキウスがさらに尋ねてくる。

「マリー、お前はこの男が憎いはずだ。殺すべきかどうか、お前が決めろ」

 ルキウスはそれだけ言って、再びグッセンへと視線を向けた。




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