名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

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 秋の長閑な日差しの中、ソフィは息を切らしながら額に浮かぶ汗を袖で拭った。夏と比べればそれほど気温は高くないはずだが、体を動かしているせいで暑く感じられてしまう。
 最も高い場所へ移動した太陽が、頭上に暖かな陽光をまっすぐに振り下ろしている。周囲に広がる草原の一番遠くに視線を置きながら、ソフィは足捌きの練習に励んだ。

 目の前ではリディアが満足そうにこちらを見て、同じように足を横に滑らせたりしながら見本を示している。リディアは布でくるんだ剣を肩に担いでいた。

「ソフィ、置いてきた足をひきつけるのをもっと速くするのよ」
「むっ……」

 リディアは簡単に手本を示してくれるが、それを自分の体で再現するとなると難しい。簡単そうにやっているからといって簡単だとは限らないのだ。
 それでもリディアの指示に従って、ソフィは足を引きつけることを意識した。

 リディアが笑みを浮かべながら言う。

「そうそう! そんな感じよ。視線を遠くに置くのも忘れちゃダメよ。同時にちゃんと左右にも気を配るの。視界を広くしたまま動けるようにならないとダメよ」
「う、うむ……」
「それから、動き始めに息を止めない。例え息を吸ってる時だって同じように動けるようにするの。涼しい顔でサッサッサッて動くのよ」
「む、難しいのじゃ」

 足捌きの練習をしているところを、シシィが後ろから興味なさそうに眺めていた。シシィはやや厚手のワンピースを着て、片手にいつもの大きな杖を握っている。
 シシィはこちらの練習に興味なさそうにしているが、時々思い出したように冷たい風を送ってくれていた。



 ソフィは何故こうなったのかを考えながら足捌きの練習を繰り返した。

 今朝、リディアとシシィによって家の壁が破壊されてしまった。もはや今日中に修復は無理だろうというほどに壊れてしまったのだ。
 アデルが農作業に出かけた後、リディアはとんでもないことを言い出した。自分達で家を建てようと提案したのだ。家を建てるためには相当のお金が必要なはずだが、リディアはその殆どを負担するつもりでいるらしい。
 建材の代金を浮かせるために、木材や石材が必要だとリディアが言ったため、今からそれを取りに行くところだった。

 本当は勝手に木を切り倒したり、岩を持っていったりなどということはしてはならないらしい。土地というのはどこかの誰かのものであって、そこにあるものは勝手に持ち出してはいけないのだという。
 しかし、今から向かう場所は誰のものでもない。そこにあるものを持ち出したところで、誰も困らないはずだ。

 アデルはその場所のことを死の森と呼んでいた。その森には魔物が多くいたため、誰も入ることが出来なかったのだ。そのため、誰かが占有している土地というわけではない。
 リディアはとりあえずそこに行って、何本かの木を切り倒すつもりのようだ。
 そんなわけで、三人揃って死の森に向かうことになった。リディアはついでとばかりに足捌きの練習をするように勧めてきた。練習をすることに異存はないが、おかげでなかなか森へと辿り着けない。


 どうやらシシィも同じようなことを考えたらしく、落ち着いた柔らかい声で言った。

「リディア、そろそろ練習を切り上げて普通に向かったほうがいい」
「そう?」

 リディアは空を見上げて、それから頷いた。

「そうね、ここらで切り上げたほうがいいかもしれないわね。ソフィ、普通に歩いて行きましょう」

 リディアの言葉を聞いて、ソフィは大きく息を吐き出した。
 両腕を高く上に伸ばし、軽く首を回す。基礎的な練習を繰り返すのは苦ではないが、しっかりと身についているのかはよくわからなかった。
 強くなりたいとは願ったが、今のところは誰かを攻撃するような手段はまったく教わっていない。リディアの基本的な考え方は、危ない状況に近寄らない、危ないのなら逃げる、という至って単純なものだった。
 もちろんそれが間違っているとは思わないが、苦労の割には何か目に見えるような上達の実感が無くて困る。

「ところでリディアよ、妾はいつになったら攻撃を学べるのじゃ?」
「あら、ソフィもそういうことに興味が出てきたのね。うーん、そうねぇ……。もちろんね、攻撃することを頭に入れておかないと足捌きも上達しにくいのは確かなんだけど」
「ふむ、ならばやはりやるべきではないのか」
「そうね……、ちゃんとやっておいたほうがいいわね。そこらへんは考えておくわ」

 リディアはそう言ってから剣を肩に背負いなおした。






 ようやく森に入ると、リディアは辺りをきょろきょろと見回しながらさらに奥へと進んだ。森の中では、水を孕んだかのような湿った空気が重たくゆっくりと流れている。その冷たさが、運動で火照った肌をひんやりと冷やしてくれた。
 日差しは遮られ、木々の間を強引にすり抜けてきた光の束がちらちらと足元に突き刺さっている。

「さて、と」

 どの木を切り倒すつもりなのか、リディアは歩きながら検分していたのだろう。何を基準にしているのかはわからなかったが、リディアは一本の木の前で立ち止まった。ふっと顔をあげて木を見上げている。
 ソフィもつられて上を見上げた。見事な枝ぶりを誇る木を見上げていると、自分が小人にでもなってしまったかのような気分に陥ってしまう。
 リディアは木の幹に手の平を置いてしばらく黙った後、自身の耳を木の幹にぴたりとつけた。何をしているのかはわからないが、リディアはすっと耳を離し、小さく頷いた。

「これにするわ」

 リディアの選んだこの木に、他の木と比べて何か変わったところは見当たらない。どうしてこれを選んだのかはわからないが、それよりも気になることがあった。

「しかしリディアよ、この木を倒すとなれば厄介なのじゃ。どうするつもりなのじゃ? 妾とシシィの魔法であればなんとかなるかもしれんが」
「大丈夫よ、剣で切り倒すから」
「何を言っておるのじゃ。剣で木を切るなど無理なのじゃ。木というのは斧やノコギリでなければ切れんのじゃ」
「普通はそうかもしれないけど、あたしなら出来るわ」
「いや、いくらリディアでも無理がある。見よこの木を、剣の長さよりも木の幹のほうがずっと太いではないか」
「大丈夫だって、いいから黙って見てなさい。危ないから離れてるのよ」

 リディアはそう言って剣を包んでいた布をくるくると解き始めた。




 リディアは剣で木を切り倒そうと考えているようだった。そんなことが可能なのかどうかはわからないが、ソフィは言われた通り木から離れた。シシィは何も言わず、同じように木から大きく離れてリディアの様子を眺めている。
 木の幹はアデルが両手で抱きしめようとしても手が回らないほどに太い。おそらく直径もあの剣よりも長いはずだ。

「うむ、大丈夫なのかのう」

 隣に立つシシィに尋ねてみると、シシィは大きな木の杖を持ったままこちらに視線を向けてきた。

「リディアなら大丈夫だと思う」
「思うって……」

 どうやらシシィもリディアが木を切り倒そうとするような場面に立ち会うのは初めてらしい。それでも特に疑いは挟んでいないようで、リディアに任せるつもりのようだ。
 仲が良いとは言いがたい二人だが、信頼はあるのだろう。

 リディアは鞘から剣を引き抜いた。鞘を脇にそっと放り投げた後、剣の柄を両手で持って構えた。遠くからではリディアの横顔ははっきりと見えなかったが、真剣な表情をしているのはわかる。
 木の葉の触れ合うかさかさした音が森の中のいたるところから湧き出ていた。木漏れ日はきらきらとした黄金色の雫を森の底へと落とし、落ち葉の地面を彩っている。

 リディアが軽く腰を落とした。それと同時に、リディアの持つ剣が髪の色のような紅を灯す。ぼわっと光りだした鋼鉄に目を留めて、ソフィは隣に立つシシィに尋ねた。

「のうシシィよ、リディアのあれは一体なんなのじゃ? 前にも見たことがあったが、剣が光っておる。あれは魔法なのか?」

 シシィは少し黙ってから、いつもの可憐な声音で答えた。

「……わからない。魔法ではないと思う」
「む、シシィにもわからんとは」
「リディアは気合だと言っていた」
「気合で剣が光るわけがなかろう」
「わたしもそう思うけれど……。ただ、リディアは多分、特別なのだと思う」
「ふむ、特別か」

 理解の及ぶ何かではないのだろう。気になるのは確かだが、シシィでさえわからないような何かを知ろうとしてもおそらく自分では難しい。
 リディアが特別な何者であるのは十分にわかっているから、ここは気にしないほうがいいのかもしれない。

 リディアは光を放つ剣をわずかに後ろに下げたかと思うと、体の右側から一気に左へと薙いだ。風の切り裂かれる音を、ばきばきという木の折れる音が覆い尽くしてゆく。



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