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第二部 第三章
月の無い窓
しおりを挟む夜空には星が無かった。風すらもなく、外からは何の音も聞こえてこない。
マリーは窓辺で頬杖をつきながら重たい溜息を吐いた。目に映る光景にも、自分がいる場所についても未だに驚きが溢れてくる。
「本当に、凄いわね……」
マリーはちらりとベッドのほうへと視線を向けた。その上では魔王ルキウスがすやすやと寝息を立てて眠っている。自分のことを抱くだけ抱いてそのまま眠りについてしまった。
彫像のように整った顔は微動だにせず、均整の取れた体躯は呼吸に合わせてわずかに収縮を繰り返していた。全裸のルキウスを見て、マリーが立ち上がる。
シーツをルキウスの体にかけてから、マリーは再び窓辺へと向かった。窓の桟に両手をかけて、体を窓の外へと乗り出す。やはりこの光景は未だに信じられなかった。
大きな溜息を吐いて、マリーは顔にかかった自分の赤毛をかきあげた。
グッセンとの騒動にも決着がつき、生まれ故郷の村にも訪れることが出来た。その後、マリーはルキウスに従って様々な形で協力することになった。
ルキウスは一言で言えば物知りの世間知らずといった様子で、俗世間のことについては殆ど知らないようだった。ルキウスが持っていた金貨をいくらか両替したり、日常の生活に必要なものなどを買い混んだり、ルキウスという世間知らずを生かすために随分と骨を折ってしまった。
おそらく、ルキウスは身の回りのものはすべて誰かに用意してもらっていたのだろう。それゆえに普通の人であれば知っているようなことですら知らなかった。
ルキウスは町の様子が気になったらしく、ふらふらと離れては誰かに話しかけて何かを尋ねたりしていた。ルキウスの身なりや醸し出す雰囲気が立派だから、尋ねられたほうもぺらぺらと喋る。おかげで余計な時間がかかってしまった。
そういった細々とした雑務を押し付けられていると、この男はただ召使が欲しくて自分に助け舟を出したのではないかと思えてしまう。
もちろん、自分のこなした雑務などルキウスが代わりに支払った金額に比べれば微々たるものだし、自分と生まれ故郷の村を救ってくれたルキウスのためなら多少のことなら喜んでやってやろうとは思えた。
だが、それにも増してなお問題なのが、ルキウスの性欲の強さだった。
こちらの体に欲情しては求めてきて、体が擦り切れるのではないかと思うほどに抱かれた。ルキウスの逞しい肉体からすれば、この細い体は手鞠のようなものだろう。貪られるように求められ、体には交合の疲れが付きまとうようになった。
そうこうしているうちに、宿の主人に文句を言われて追い出されることになった。よほどうるさかったのだろう。こっちは恥ずかしさで消えてしまいたくなったが、ルキウスは何も気にした様子がなかった。
宿を追い出された後、ルキウスと共に人目につかない森を訪れた。何をするつもりなのかと思えば、ルキウスは何か呪文のようなものを唱えだした。その直後に、身長の数倍の高さはあろうかという巨大な門が現れた。
今まで魔法使いなら何人も見てきたし、魔法を直接見たことはあった。だが、巨大な門を出すような魔法を見たいのは初めてのことだった。
二本の柱は白く、大理石のような石材に見えた。その間に巨大な金属製の門があった。これが魔法によるものではなく現実のものであったとしたら、おそらく押したり引いたりしても開くことはなかっただろう。
しかしその門はルキウスの一言でゆっくりと奥へと開いたのだ。
普通の人間がここに入るのは数千年の歴史の中でマリーが最初だろう、ルキウスはそう言った。
門の向こう側は真っ暗で、何も見えはしなかった。その向こう側へ行くと、ルキウスが何事か唱えた。同時に背後にあった門が閉まってゆく。
自分の手の平すら見えないほどの暗闇の中で、ルキウスがさらに何かを唱えた。少し前に新たな門が現れ、そこをくぐった。その先にあった光景は信じがたく、魔法がどうとかそういう次元のことですらないように思えてしまう。ここはどこなのだろう。そう考えていたのが顔に出ていたのかもしれない。
門の向こう側には巨大な宮殿がいくつも立ち並んでいた。理解の範疇を大きく超えた事態に、もはや言葉さえも失ってしまった。
ルキウスは手短に説明してくれた。
どうやらこの宮殿はパラティア・カイレスティアというらしい。神話の時代からあるもので、魔王の一族が先祖から受け継いできたのだという。
宮殿全体の大きさは計り知れなかったが、ちょっとした城郭都市ならば軽々と入るのではないかと思えた。何よりも驚きだったのが、この宮殿自体が空中に浮かんでいるということだった。
門の先は宮殿の正面だったのだが、後ろを振り返ると水平線が遥か彼方に見えた。ルキウスに案内されて端のほうまで行くと、この宮殿全体が空中に浮かんでいるのだということがようやくわかった。
こんな高い場所を訪れたのは初めてだったし、海を見るのも初めてだった。大地のようなものはひとつも見当たらず、雲でさえ存在しない。さらに、太陽が無いにも関わらず明るいということだった。
ここはもう自分が住んでいた世界とはまったく異なる場所にあるのだろう。
まさかこんな場所を訪れることになるだなんて、想像もできなかった。宮殿はすべて白く、大理石のような石がぼわっとした青白い光を放っていた。ルキウスの後をついて宮殿の中を歩き、その中の一室へと着いた。
広い室内には大きなベッドがあり、窓際には木製の立派な机がある。他の何かを見ようと首をあちこちに向けていると、突然お尻を撫でられた。
「ちょっとルキウス」
ルキウスは尻を撫でるためにわざわざ体を傾けていた。尻の感触を確かめるかのように真剣な面持ちで指先を這わせてきた。
「やはり素晴らしい」
「素晴らしいじゃないでしょ、ちょっと」
ルキウスの手を叩き落したが、その手は肩に伸びてきた。
「よいではないか、せっかく邪魔の入らぬ場所まで来たのだ。その体を存分に味あわねばならん」
「ちょ、ちょっと、こらっ」
ルキウスにぐいぐいと押されてマリーはついにベッドの上に転がされてしまった。
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