名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

慌てん坊のお嬢さん

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 少し歩いたところで、目の前を誰かが走りぬけようとしているのが目に入った。若い娘さんが両手で籠を持ち、足早に駆け抜けてゆこうとしている。
 どこかで見た顔だと考えた瞬間、その娘さんは何かに躓いて思い切り前のめりになった。

 持っていた籠が前方へと飛び上がり、さらに娘さん自身も地面へ倒れこもうとしている。

 そのまま倒れるかと思ったところで、隣にいたリディアがスッと体を前へと滑らせた。その速度があまりに速く、一瞬虚を突かれてしまう。男の自分でも大股で一歩半ほどの距離を、リディアは地面を蹴り飛ばすだけで縮めてしまった。

 リディアはさらに手を伸ばし、倒れこもうとしていた誰かの体を支えた。アデルはその誰かの姿を見下ろし、それが誰なのかに気づいた。
 あれはリーゼの友達で、以前市場で花を売っていたお嬢さんだ。年齢はリディアとほぼ変わりないだろうが、背が低く随分と小柄な人である。

 その娘さんは地面との激突を覚悟していたのだろう。しかし、何者かに支えられていることに気づき、おっかなびっくりという様子で目を見開き、叫んだ。


「きゃああああっ?!」


 高く、どこまでも通るような声だった。アデルは彼女が大声を上げた理由がわからなくて一瞬戸惑ったが、二人を見たことですべてを理解した。
 リディアが伸ばした手のひらは、確実に彼女の胸の上にあった。さらにリディアは何の遠慮もなくその柔らかさを確かめるかのように手を動かしている。
 真剣な表情でリディアが呟く。

「あら、この揉み覚えのある胸は……」
「そんな言葉初めて聞いたぞ、これリディア、離してやらんか」

 支えられているお嬢さんは、正体不明の相手にいきなり胸を揉まれていることになる。もちろん、転びそうになったのを助け支えたわけで、狙ってやったとは思っていないだろうが、それでも今はまだ冷静になれていない。
 リディアはお嬢さんの胸を手で支えながら、左手でフードをぱさりと落とした。それから落ち着いた声で語りかける。


「あらごめんなさい、転びそうになってたから、つい手を伸ばしちゃったの」

 その声で、お嬢さんは自分を支えているのが女だと気づいたらしい。顔を横に向けて、リディアの顔を見た。

「あ、あなたはいつぞやの美人さん!」
「あら、あたしのことを覚えていてくれたの? 嬉しいわ」
「そんな! 絶対に忘れませんよ! あわわ、すみません、変な声出しちゃって!」
「いいのよ、それよりも大丈夫? 怪我はない? あなたみたいな可愛い子の肌に傷が出来たら大変だわ」
「そんなことないです! わたしの肌なんか別に!」

 お嬢さんは混乱している。すぐ顔の近くにリディアの顔が迫っているせいか、お嬢さんの顔は赤い。一方のリディアといえば涼しい顔でお嬢さんの胸に手を当てて体を支えている。
 いくら女の体とはいえ、そうやって人の体を支えるのは随分と力がいるはずだ。

 アデルはお嬢さんが籠の中から撒き散らしたものを拾い集めた。何かと思えば、蝶結びにされたリボンがいくつも入っていた。どうしてこんなものを持ち歩いていたのかは知らないが、何かしら大事なものなのだろう。
 アデルはすべてのリボンを拾い集め、籠の中に戻した。それからお嬢さんのほうを見る。

 どうやらいつまでも支えられているわけにはいかないと思ったのか、小柄なお嬢さんが立ち上がろうとした。

「すみません! あの、ありがとうございます!」

 礼を述べるお嬢さんに、リディアが大人の笑みを見せた。

「あら、いいのよ。それより、怪我がないのか心配だわ? 本当に大丈夫かしら?」

 そう言いながらリディアが小柄なお嬢さんの体を確かめるようにじろじろと体を眺め回す。お嬢さんのほうは緊張しているのか肩を強張らせていた。

「あっ、大丈夫です! ありがとうございます!」
「そう、よかったわ。こんな可愛い子が怪我したら悲しいもの」
「ふえっ?! いえ、そ、そんな!」

 リディアの言葉にお嬢さんの顔が赤くなっていた。
 自分はこの娘さんの名前は知らないが、面識はある。アデルはお嬢さんの近くへと進み出た。

「うむ、怪我が無いのであれば何より。しかしお嬢さん、あまり走り回っては危ないぞ」
「あ、アデルさん、お久しぶりです」
「そうじゃな、いつぞやは花のことで世話になった」

 向こうはこちらの名前を知っている。おそらく、誰かから噂話の一環として色々聞いたりしたのだろう。こちらが気づかないうちに顔を見られたのかもしれない。
 お嬢さんはリディアの顔をちらちらと見ていたが、急に我に帰ったようにピンと体を伸ばした。

「はっ、いけない! 遅れちゃった!」
「ん? 急ぎの用があったのか。いらん時間を食わせてしまったようじゃな」
「いえそんな! 助けて頂けなかったらもっと大変なことになってたかもしれないですし!」
「ふむ、これ以上引き止めるのもいかんな。では気をつけて」
「はい!」

 アデルは籠をお嬢さんに手渡し、その小柄な体を見下ろした。
 急ぎの用があったらしく、お嬢さんはリディアにも再び礼を述べ、すぐさま駆け足で去っていった。

「大丈夫かのう」

 急いでるから走るというのはわかるが、転びそうになった後なのだからもう少し注意してもいいはずだろう。
 どうにも慌てん坊のように見えて仕方ない。 










 ソフィは一軒の家の前に立ってその姿を見上げた。町の中央にある広場からそれほど離れていない場所に、三階建ての家が一軒あった。
 どうやらこの家の中で着替えをするらしい。祭りで着る衣装がどんなものなのかは知らないが、わざわざ着替えるのだから普段着よりもいくらか立派なものなのだろう。

 ソフィはごくりと唾を飲み込み、重たそうな黒い扉に目を向けた。隣にいたカールが明るい声で言う。

「ソフィちゃん、ここで着替えて、それから祭りだって」
「うむ、そんなことはとうにわかっておるのじゃ」

 それを教えてくれたのはカールだったが、さも以前から知っていたかのように言ってみる。
 着替えるのがどうとかいう話ではなく、ここで出会うだろう他の参加者について考えてしまう。同じくらいの年頃の女の子たちがもうこの家の中にいるのだろう。
 女の子の声が家の外にまで届いていた。さすがに心細くなったが、一人で行かなければいけない。
 ソフィは決心を固め、威嚇するように黒い扉を睨みつけた。

「考えていても仕方が無いのじゃ、妾は行く」
「うん! がんばってね!」
「何をがんばればよいのじゃ?」
「え? それは祭りとか」
「ふむ……」

 神経が立っている時に、カールのように暢気な人物がいると少々腹立たしく思えてしまう。もちろんカールに非があるわけでもないので、責めるのはお門違いだ。
 ここでカールの相手をしていても何も始まらない。

 きっと大丈夫だ。今まで出会ってきた人たちとも上手くやれているし、同じ年頃の女の子とも上手くやれるだろう。

 ソフィは扉を開いて中へと入った。



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