名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

成長の予感

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 ソフィは一度手を叩くのをやめて、背中に意識を集中させた。脇を軽く閉じながら、背中の筋肉の動きに神経を尖らせる。
 まるで足の小指だけを独立して動かそうとしているかのようだった。意識はしてみるのだが、上手く動かない。

「ふーむ、よくわからんのじゃ」
「まぁ慣れよ慣れ、こうやってね、背中側の筋肉が使えるようになれば、普段の動きの中でも活用できるわ。テーブルを拭く時だって、包丁を使う時だって、薪割りをする時でもね」
「なるほど……」
「他にも色々とコツがあるんだけど、一度に言っても難しいから今日はやめとくわ。とりあえず素振りの続きよ」


 その後、ソフィはリディアの指示に従って素振りを繰り返した。腕を前に突き出す。その時も肩が上がり過ぎないように注意し、肘がしっかりと下を向くよう心がけた。
 リディアから見ればまだまだ未熟なようで、何度も修正を強いられる。初めてリディアのこの動きを見た時は随分と簡単そうに見えたが、これがなかなか難しい。

「ほらソフィ、引き足が遅い。前に跳ぼうとするんじゃなくて、膝の力を抜いて落ちるように前に出るのよ。後ろに置いてきた足はもっと早く引きつけるの」

 今はあれこれ考えるより、リディアを信用してリディアの言う通りにしたほうが良い結果が出るに違いない。今の自分には見えない何かを、リディアははっきりと見て取ることが出来るのだろう。
 自分のような未熟者では到達できない次元で、リディアは体を動かしているのだ。

 リディアからこうやって運動を教わるのは楽しい。ただ体を動かすだけでなく、今まで知らなかったことを知ることが出来る。
 辛いだけではなく、知る喜びも運動の中にはあるのだ。

 夢中になって素振りを繰り返していたが、リディアが手をパンッと叩いた。

「はい、じゃあとりあえずこのくらいにしときましょ」
「ん? もう少しやってもよいのではないのか?」

 まだまだ上手く出来ているとは思えない。それにちょうど面白くなってきたところだ。さっきまでは運動する気など起きなかったというのに、今はもう少し体を動かしたい。
 こちらが不満そうにしているのを見て、リディアは両腰に手を当てて胸を張った。

「もっと練習したほうがいいのは確かだけど、まぁ最初っからそんなに根をつめる必要もないわ。本当はもう少し基礎を固めてから次に行くほうがいいんでしょうけど」
「ふむ、リディアに何か考えがあるのであれば、妾はそれに従うのじゃ」
「あら珍しく素直ないい子ね。じゃあ次は簡単よ、さっきと同じ動作で物を投げるだけだから」
「物を?」
「そ、別に投げるのはなんでもいいのよ、ソフィが持てるようなものなら」

 リディアは体を屈めて、足元に落ちていた小さな石を拾い上げた。それを右手に持ち、ナイフを突くのと同じ動作で前に向かって手を鋭く繰り出した。同時に石を投げ放つ。
 石は緩やかな放物線を描いて地面へと落ちていった。

「つまりね、この動きは武器を選ばないのよ」
「ふむ」
「剣の動きを覚えても、いざと言う時に剣を持ってなかったらあんまり意味がないでしょ?」
「それはそうじゃな」
「でもね、この動きだとそこらへんにあるものを適当に掴んで武器に出来るの。棒状の物なら突いて使えるし、投げられる物なら投げればいい。なんなら砂でもいいわよ、この動きで相手の顔目掛けて思いっきり投げるの」
「ほう……、なかなか卑怯じゃのう」
「卑怯でいいのよ、自分の身を守るためなら。別に試合でもなんでもないんだから」

 リディアの言うことはよくわかる。リディアが想定しているのは、お互いが向かい合うような決闘ではなく、身に火の粉が降りかかった場面なのだろう。
 確かに卑怯と罵られるのを怖がって怪我をしては元も子もない。大体、自分のような女の子を傷つけようとする者がいたとしたら、そっちのほうが卑劣なはずだ。
 こちらが多少汚い手を用いたとしても、非難されるいわれはない。

 その後、リディアの指示に従って足元の砂を投げてみたり、石を投げてみたりを繰り返した。振りかぶって投げるわけでもないから、砂も石もまったく遠くへは飛ばなかった。
 リディアが言うのは、それでも構わないとのことだった。相手の顔目掛けて投げるわけだから、最高速度よりも相手の虚を突くほうが重要なのだという。
 顔に何かが飛んできたら、普通はぎょっとして姿勢を崩すものだそうだ。確かに、顔に物が飛んできたら咄嗟に守ろうとしてしまうだろう。

 額に汗が浮かんだ。何度も同じ動作を繰り返しているうちに、最初は心がけていたことが頭から抜け落ちてしまう。
 その度にリディアが修正を促してくる。

「ほらソフィ、肘が横向いてたわよ。それに、背中のほうにも意識を集中」

 簡単そうに見えたあの動きが、今ではとても難しいことのように思えた。踏み込みひとつとっても、後ろの足を引き付ける動作も、右手の持ち方も、腕の伸ばし方も、肩の下げ方も、背中への意識も、何もかもを同時に色々と考えなければいけない。
 慣れるまで相当な時間がかかりそうな気がした。

 太陽は次第に傾き始め、空の端は燃えているかのように赤みを帯び始めていた。空の高い場所で薄い雲が群れをなして悠々と泳いでいる。その魚影が下から照らされて金色に色づく。
 北国から渡ってきた風は冷たく、ソフィの小さな体を撫でながら南へと走り抜けてゆく。

 体を動かしているにも関わらず、冷たさは肌の産毛に張り付いて離れない。
 さすがに体力も限界に近づき、動きも鈍くなってしまった。

「ソフィ、今日はこのくらいにしておきましょう」
「う、うむ……」

 ナイフを握ったまま、ソフィは額の汗を手で拭った。
 体に残る疲れが、成長の兆しのようで誇らしい。こうやって心身共に逞しくなれば、きっと立派な大人になれるに違いない。

 リディアは満足そうに笑みを浮かべている。お互いに気だるい気分に陥っていたが、運動を通じて随分と調子が上向いてきたようだ。
 ナイフをリディアに返した後、ソフィは髪を解こうと後頭に手をかけた。

「あっ、ソフィ、ちょっと待ちなさい」
「む?」
「今日はあたしたちで料理するから、髪はそのままでいいわよ」
「料理を? 妾たちで?」
「そうよ、何きょとんってしてるのよ。あたしたちだってね、女なんだから料理のひとつやふたつでもしていかなきゃダメでしょ」
「うむ、まぁそれはわかるのじゃ。しかし、妾は竈で火を使うなと言われておる」
「あたしがいるから平気でしょ。それに、別に難しいもの作るわけでもないし」

 リディアは腕を空に向かって突き出し、ぐーっと体を伸ばしていた。その細長い体が、さらに長い影を作って庭に伸びてゆく。
 わずかな逆光の中で、リディアの長い髪がガラス粉のように煌いている。

 そうやっているのを見て、ソフィは思った。やはりリディアという人物はかっこいいのだと。



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