名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

二人だけの秘密

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 家の中はランタンの明かりに照らされて明るいが、窓の外は夕日の赤と群青が混じり合ったような暗い色をしていた。もう日も暮れようかという時間なのに、アデルとリディアの二人はまだ帰ってこない。
 一緒に出かけたのが昼過ぎだったから、もう結構な時間が経つ。あんな小さな町なら、すぐに回ってしまえるはずだ。帰ってこないということは、何か違うことをしているのだろう。
 一体何をしているのかはわからないが、早く帰ってきて欲しい。

 そうでないと、このままお勉強が続いてしまう。ソフィは机の向かい側に座るシシィを見て軽く首を振った。

「古代言語など妾に何の関係もなかろう。古語でさえ妾にとってはさして役立つものとは思えんのじゃ」

 さっきまでずっと古語を勉強していた。山のような語彙を頭に叩き込む作業はまさに苦行で、あれが続けば頭が破裂してしまいかねない。
 あれだけでも厄介だというのに、シシィは古代言語とやらの勉強も勧めてきた。はっきりいって正気の沙汰ではない。

 シシィがソフィの言葉に対してこくりと素早く頷いた。

「確かに古代言語は学んでもあまり意味がないかもしれない。でもソフィは少しくらい知っておいたほうがいいと思う」

 いつもと変わらない無表情でシシィがそう言った。自分が古代言語とやらを必要とする状況が生まれるとは到底思えない。
 ソフィは目の前のシシィに尋ねた。

「何故じゃ? 妾とその古代言語とやらに何の関係があるというのじゃ」
「それは、ソフィの家系は古代言語の時代から続いているから。ソフィが語った名前も古代言語に基づいているし、杖を持った牛の図柄も古代言語から採られている」
「んん? 牛? なんのことじゃ」

 ソフィがそう言うと、シシィは意外そうに瞬きを繰り返した。いきなり牛と言われてもなんのことだかわからない。ソフィはシシィが何か言うのを待った。
 どうやら考えがまとまったのか、シシィが口を開く。

「一般的に、ソフィの家系の代表者は杖を持った牛の姿で描かれる。ゆえに、魔王を牛頭の怪物だと誤解する人もいる」
「ああ……」

 シシィの言葉を聞いて、ソフィは頷いた。アデルは魔王というのは牛頭の怪物だとばかり思っていたらしい。何故そう思ったのかなど気にしたことがなかった。どうやらシシィはそのあたりの事情についていくらか知っているらしい。
 ソフィは机に少し身を乗り出した。

「ふむ、アデルもそのように思っておったようじゃ。なんじゃ、何故牛なんじゃ」
「それは古代言語に基づいている。アレフという文字、これはアルファに相当し、Aという文字の元になったものだけれど、これは牛の頭を象ったもの。Aとαのはみ出た二つの部分は牛の角を表わしている。アレフという単語には牛という意味があり、また、アレフという文字には強さ、始まり、そのような意味もある」
「ふむ……」
「そして杖は古代言語でラメドという文字を表わしている。ラメドは杖を象った文字で、ラムダやLに相当する。そしてこの二つから作られる単語がエル、神という意味。通常、神聖なものについては複数形で綴られるので、エルではなくエロイムの形のほうが見る機会が多くなると思う。ミハエルやダニエルのエルもこれに由来している」
「ほう……」
「ラメドという語根には学ぶことという意味があり、杖は知性の象徴でもある。サタンという単語もまた古代言語から来ていて、敵や密告者という意味がある。そしてそのサタンの持つ杖の先には光が描かれる。この光をアインソフオウルという。アインというのは存在するという意味の動詞イェシュの否定形で、存在しないという意味になる。ソフというのは説明した通り、終わりを意味している。オウルというのは光。つまり、終わりなき光という意味になる」

 シシィはこちらの理解度など気にした様子もなくつらつらと説明を続ける。いまひとつ理解が追いつかなくて、ソフィはシシィの言葉を脳の中で反芻した。
 どうやらアルファベットのAやLというものは多くの言語で共通しているらしい。その古代言語ではアルファをアレフと呼び、ラムダをラメドと呼んでいるのだという。
 アルファベットとは違い、こちらの文字はそのひとつひとつに意味があり、アレフは牛を、ラメドは杖を表わしているのだという。

 古代言語など学ぶ気はないが、シシィの話はなかなか興味深い。
 ソフィはシシィの言葉の続きを持った。シシィは何枚も重ねた紙の中から一枚の紙を取った。それからシシィが問題を出してくる。

「古語でもたらす、を意味する動詞を一人称単数現在形で答えて」
「ん? feroじゃな」
「そう、この動詞は不規則動詞なので、他の活用を覚えるのが大変かもしれないけど頑張って。それはともかく、このフェローという言葉には運ぶという意味もある。そして古語におけるルキフェルとは光を意味するルクス、もたらすや運ぶを意味するフェローという単語が繋がって出来た言葉。従ってルキフェルとは光をもたらすという意味の形容詞になる」
「ふむ……、そのルキフェルとかいう言葉は妾と何か関係があるのか?」

 そう言うと、シシィはやはり意外そうに瞬きを繰り返した。そんな反応をされても、知らないものは知らない。ソフィは素直に尋ねた。

「妾の家に関係があるようではあるが」
「……魔王の家系においてその代表者、つまり魔王と呼ばれる者はみんなルキフェルと呼ばれる。ソフィの場合は女性だからルキフェラになるけれど」
「ほう……。そういえば、言っておらんかったが、妾のいくつかある名前のうちのひとつにそんな単語が入っておったはずじゃ」
「それは興味がある。聞かせてほしい」

 シシィがずいっと体を乗り出した。シシィの大きな胸が机の上にドンと乗った。その膨らみの大きさに、ソフィはつい目を奪われてしまう。
 理由はよくわからないが、シシィは興味をそそられたらしく目を輝かせている。自分には名前がいくつかあるが、ゾフィ以外の名前は人に教えてはならないと聞かされていた。もっとも、すでにひとつ教えてしまったし、自分はもう魔王ではないのだから教えても問題はないはずだ。

 それでも、素直に教えるのは何故か躊躇われた。自分だけ情報を引き出されてゆくのが何か引っかかる。
 ソフィは腕を組んで胸を張った。

「なんじゃ妾ばかり。シシィはどうなんじゃ? 他の名前を持っておらんのか?」
「わたしにも、先祖から受け継いだ名前はある」
「ほう、なんじゃそれは、妾に教えて欲しいのじゃ」

 そう言うと、シシィは少し困ったように視線を伏せた。もしかしたら内緒にしているのかもしれない。
 よっぽど恥ずかしい名前なのだろうか。無理に聞き出そうとは思わなかったので、ソフィは前言を翻した。

「いや、別に教えたくないのであれば構わんのじゃ」
「いい、構わない。教えてあげる。わたしも教えてもらったから」

 シシィがすっと立ち上がる。一体どうするのかと思ったら、シシィは机を周りこんでソフィの隣にまで来た。それからソフィの耳元に口を近づける。
 他の誰かが聞いているわけでもないのにこの念の入れようはなんなのだろう。

 シシィはソフィの耳朶を両手で覆って、その中に柔らかく言葉を吐き出した。可憐な少女の声を耳のすぐ間近で聞いて、ソフィは鼓膜をくすぐられたような心地になった。
 ぞくぞくするような感触が肌の表面を駆けていく。おかげで、シシィが紡いだ言葉自体には殆ど注意が向かなかった。

「ふむ」

 シシィの本名を聞き終えて満足していると、シシィも用が終わったとばかりに自分の傍からさっと離れて、再び椅子に座った。
 シシィの本当の名前を聞いた限りでは、何か恥ずかしい類のものだとは思えなかった。どこかで聞いたことがあるような名前のような気もしたが、上手く思い出せない。今日は色々な単語を頭に詰め込んだから、そのうちのどれかに似ていると感じたのだろう。
 ソフィは腕を組んで椅子の背もたれにもたれかかった。

「わざわざ隠すような名前とは思えんのじゃ」
「それでも、隠しておいたほうが面倒がなくていい。わたしは今まで誰にも話したことがなかったから、今この世でこの名前を知っているのはわたしとソフィの二人だけ」
「な、なんというかそう言われると重たいのう……」

 シシィが微笑みながら、人差し指を唇の前に当てた。
「ないしょ」

 ソフィは一瞬我を忘れてその笑みに見入ってしまった。
 同性でありながら、その微笑には魂をごっそりと奪われてしまいそうになる。
 その微笑みに、わずかな悪戯っぽさが混じっているのがまた魅力的だった。
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