雨の晴の洞

巳島柚希

文字の大きさ
上 下
1 / 1

一節

しおりを挟む
 車窓から冷たい空気が染みてきて、脱いでいた黒のジャケットをシャツの上に羽織る。記憶を暴き立てる山の空気が、すごく嫌な心地だった。

 村営のマイクロバスは、山道を走る。どこから湧き出てくるのか知れない、怪しい修行僧らしき人間や坊主、祈祷師なんかを乗せるこの白いバスが、麓の雑木林に差された卒塔婆のようなバス停に止まっているのを見たとき、吐きそうになった。それが俺を待っていたのかと思うと、激しく気が滅入った。
 二人きりの車内で、運転手は一言も喋らない。俺が子供の頃と同じ人間なのかどうかもわからない。通路側の座席に視線を落とす。白い弔い花の花束が、小さく揺れていた。町で買った花だった。
 鞄の中に手を入れて、中から茶封筒を取り出す。
水貴みずきくんへ
何時までもあるような冬があっという間に去って、春も随分深くなりました。水貴君はいかがお過ごしですか?
都会の春は、沢山の人の出会いの季節でしょうか。村は、蕗の薹と命を吹き返した甘い山の香りが、春の季節を教えてくれますよ」
 紙をなぞる。この春叔父から届いた最後の手紙。俺と十くらいしか変わらない歳の叔父は、そうだというのに長く患っていた。東京の、いや市のでもいい。病院に行けば治ると何度手紙に書いても、大丈夫、もういい、村から出る気はないんだ、と優しい筆致は弱っていった。バスが小さく跳ねる。
 この夏、叔父が死んだ。


「水貴! ああ水貴、おかえり! おかえりなさい!」
 バスが目前で動き始めた瞬間、母の病的な高い声に、耳を劈かれる。背筋がじとりと冷たくなって、ゆっくり振り返る。村の入口から、男の従者を両脇に従えた母が、小股で走り寄ってくるのが見えた。母は正喪服、男達は白衣に白袴で、同じような目で、同じような顔色をしていた。鉛のような溜息を堪えて、気丈に振る舞う。
「仕事もあるから。すぐに帰る」
「でも、一日は泊まるでしょう?」
「泊まらないってば。葬式場どこだよ」
  母の髪型は、妙にありがちなショートカットだった。街角にどこにでもいるような女。でもその目は酷く虚ろで、文明の光は全くもって感じられない。近づくと生臭い村の臭いがした。
「御谷の幣殿よ。さ、巫女服に着替えましょうね。ご神前ですから。そして婚前のご挨拶も済ませましょう。まだ遅くないわ。でもずっと、ずっと貴方をお待ちなのよ。この村がトカサ様に創られてから、こんなことはないぐらい。ね、だから早く、できる限りずっと早く、ご挨拶しましょう?」
 残念ながら幣殿への道を、足は覚えていた。出処の分からない水で泥濘む土の道を、安物の革靴で踏み歩く。その後ろを小走りでついてくる母はそんな譫言をのたまう。早くも頭痛がしてきた。

 村人達によると、俺は現在この日本国を守る唯一の神「トカサ様」の神嫁らしい。
「水貴! あなた、正気なの?! そんな服で」
「はぁ……母さんは知らないかもしれねぇけど。これは正装なんだよ」
 黒く湿った幣殿の玄関。靴を脱いで床板に足をつけると、初夏であるにも関わらず靴下の裏がひやりとした。母は糸が切れたように黙る。神前では静かに、と幼い俺へ呪文のように言っていた呪いが、自分に掛かっているようだった。
 幣殿といっても、そういう名のついたただの平屋である。奥の間のその奥、無人の宴会場のような畳敷きの広間に、叔父の棺桶は置かれていた。
 村の葬式は、現代日本の葬式とは結構違う。例えば、棺を囲むのは、様々な形の白い器に差された雑多な種類の、裏山の木の枝。それが何十本も、足の踏み場もないほど周りに置かれている。器に入っているのは一応、酒。御神酒、という村で作られる酒だった。俺はその器達を倒さないように、足を差し入れる。そして器用に棺桶の前に立つ。蓋は顔の部分だけ開いていて、そこに叔父は、驚くほど穏やかに眠っていた。痩せて血の気のない顔でも、まだ三十五にもならない叔父は、あまりにも若すぎた。悲しみとやるせなさが胸を締め付け、視界が滲みかける。
「叔父さん。手紙、ありがとうございました。今まで、本当に、お疲れ様でした」
 そして心の中で強く、どうか安らかに、苦痛なく、あの世で正しく天に帰ることを望んだ。白い桐の蓋の上に、花を供える。
 なぜなら、この村人の遺体は、もれなく全てトカサ神への供物となるからだ。
 山の植物を手当たり次第手折るのは、木霊の悲鳴で神に民の死の嘆きを知らせるため。そして、その木の残骸に御神酒を吸わせ神を呼ぶ。民の死体を喰ってくれるように、一日の間、神にお目通りを願う。それが済んだら遺体を御谷の滝の上から滝壺に、落とす。
「水貴。もう戻っていらっしゃい」
 祈りの闇の中、話しかけてくる声。目を開けた。後ろでは、母がやり場のない手を落ち着きなく動かして、器の大分手前で足踏みをしている。涙はいつでも流せる。仕方なく戻る。

 幣殿を出ると、いつの間にか出てきた数十人の村人が集まっていた。ぎょっとする俺を気にも止めず、彼らは俺に向かって手を合わせたり、何か呪文のような物をぶつぶつと呟き始める。やっていることはバラバラだが、俺はこれらが自分を拝んでいるということを知っていた。それを避けて行こうとしたが、その前に母と男達に進路をやんわりと塞がれる。帰す気がないことがありありと伝わってきた。
「お、おい……俺は」
 そんなことを言いながら後退ろうとして、母に両肩を掴まれる。母の背では迫力はないが、その力は見た目よりもずっと強く、指が肉に食い込んでいる。
「聞いて水貴。あなたがいかないと村、ひいてはこの国が滅びてしまうわ。お願い、もう逃げないで!」
 凄まじい剣幕だが、俺はどこか他人事だ。昔からこの手の母の妄言は聞き慣れている。恐らく、この村の宗教の経典か何かに書かれていることを、信じ切っているのだ。
「っ、やめろよ! このちっせえど田舎の村の、変な因習がそんなだいそれたことに関わってるわけねぇだろ! いい加減気付けよ!」
「本当なの! トカサ様に会えば分かるわ。お会いすれば分かるわっ、あなたなら、その御姿を目に入れることも、触れることもできる。豊河ゆたかさんも、あなたの晴れ姿をずっと楽しみにしてたんだから」
 溜息を隠しきれない。手紙に必ず、帰ってこなくてもいいと書いていた叔父が、そんなことを言うわけがないだろう。
「あのな。そういう嘘は、せめて叔父さんを送ってからついてくれ」
「遺書もあるわ」
 その言葉にどきりとする。
 頑なに村を出ようとしなかった叔父を、完全な善人だと盲信している訳では無かった。手紙も、俺が消息不明にならないように、監視する意味もあっただろうことぐらい、想像に難くない。それでも、心のどこかで叔父は血の繋がった肉親の中で、唯一の味方であってほしいという幻想が、心臓の鼓動を少しずつ早めていく。母が懐から、つづら折りの紙を出した。
「お葬式の連絡ができたのも、豊河ゆたかさんが遺言に、貴方の住所を書いてくれたなのよ」
 恐る恐る、紙を広げる。そこには確かに俺の住所と、一言。
「お葬式に来てほしい」
と、蚯蚓の這うような字が書かれていただけだった。
 明日、叔父の遺体が葬られるまでは、ここに留まるということで、折れた。


 実家は何も変わっていなかった。暗い玄関の豆電球も、軋む長い縁側も、変に真新しい自室の畳さえも、まるで家全体の時が止まったように変わらない。いや、俺が村を飛び出した十八の頃から、村全体の時が止まってしまっている。
「あら、もう四時なのね。お風呂の準備ができてるから、暗くならないうちに入っていらっしゃい」
 母はとても上機嫌で台所に入っていった。それを俺は、すごく嫌な気分で見ていた。
 この村に住んでいて一番嫌だったことは、この風呂だ。一泊二日程度なら入らず誤魔化したいが、ただ風呂場は台所の近くにある。入れとしつこく言われることは避けられなかった。
(クソ、嫌だな……また触られたら)
 台所の前の廊下を通って、脱衣所の古い引き戸をゆっくりと開く。右手の黄ばんだ陶器の洗面所と、それに似つかわしくない大きな鏡に、地べたに置かれた寝間着の浴衣と下着が入った籠。何もかも、そのままだった。思考は、まだ俺が幼く、この生活を受け入れるしかなかった幼い頃に、いや応なしにタイムスリップしていく。

 俺は、物心つく前に神嫁に選ばれた。何があってそうなったのかは一切記憶にない。ただ途中で、狭かった家がこの大きな屋敷になったことだけは、何となく覚えている。それから少し大きくなって、最初にそう思ったのはいつだったか。俺は水場で、視線を感じるようになった。
 特に、一人で風呂に入っている時、頭から背中にかけて、本当に、撫でられるような感覚を覚えるのだ。驚いて振り返っても何も誰もいない。そうしてじっと身を縮めて、静かに壁や天井を見渡す。変に広い風呂に、自分の小さな呼吸音が響く。
 そんなことを続けて、ある時ふと、幼い俺は少しだけ呼吸を止めてみた。完全に無音になれば、何か聞こえるかもしれないと思った。そしてぎゅっと口を噤んだ瞬間。
 ふう、と小さな呼吸が、耳元で聞こえた。

 その後、俺は風呂の前、毎回大泣きした。当たり前だ。目に見えない存在に、自ら気がついてしまったのだから。そこで異常だったのは周りの反応だ。
 大人達はそのことをとても喜んだ。目が開いた、と幣殿で豪華な料理を食べさせられたのを覚えている。その頃から俺はここのおかしさに、少しずつ気づいていった。ある時に叔父が、こっそり高校で使う教科書を見せてくれた。この時始めて、隣の家に住む子供が、俺の変わりに小学校に行っているということを知った。

 それでも、その時の俺にとって、ここは唯一の故郷であり居場所だった。第一、神嫁になるため全てを削ぎ落とされた幼い俺に、この村を出るという選択肢も、出なければどうなるのか、という想像力も何もなかった。ただ漠然とした不安を抱えたまま、何となく生活や神事という日常をやっていた、今から六年前。

 あの日もこんな風な脱衣所を抜けて風呂に入った。十六にもなり、視線も息遣いも随分慣れてしまっていて、何となく確かに気を抜いていたかもしれない。その日、少し深い時間まで神事を行っていたのも、祟ったのかもしれない。
 何かの呼吸音が大きく聞こえて、俺は外で誰かが大きな溜息でもついたのかと思いふと、顔を上げる。シャワーの水が体から離れた、その一瞬。生暖かい塊が、とん、と左の尻に当たった。あれ? 何か倒れてきたのだろうか、と思ったのを鮮明に覚えている。それが指先だと気付いたのは、尻に押しあてられたそれが、五本分の感触に増えたときだった。掌だ、と思った時には、風呂の隅に蹲っていた。目が覚めたのだ。このままここにいれば俺はいずれ、この狂気に触れることに慣れて、完全に狂ってしまう。
 それからニ年後、俺は叔父の手を借りて、家庭に頼れない人間を受け入れてくれそうな支援団体をなんとか調べ出し、村からほぼ身一つで逃げ出した。

 恐怖を打ち払うように、風呂への扉を勢いよく開け放つ。その残響も消えない間に、シャワーに手をかける。勿体ないが湯船には浸からない。なるべく一瞬ですましたかった。
 椅子に座り、水を出す。夏のくせに、水浴びをするには低すぎる山の気温に焦る。まだシャワーは水しか吐き出さない。イライラしつつも、段々神経が周りを探り始める。
(……ん?)
 シャワーの勢いを、少し弱めた。そうして耳を澄ましても。……息遣いも視線も何も、感じなかった。
 安堵と感動が、ふつふつと湧き上がってくる。そうだ、そうだ。全ては俺の幼さと、神経耗弱のせいだった。人間の社会に多少なりとも受け入れられた俺は、もうあの頃の神に身を捧げられるだけの生贄ではない。神は俺などもう、望んでいない。全ては奴らの思い込みだ。体を丸めて、小さく拳を握りしめる。ただそれは、ほんの些細な衝撃で緩む。
「つめたっ」
 背中に一滴、冷たい雫が落ちてきたようだった。

 夕食は豪勢だ。なんでも各地から供物が届くらしい。
「明日の昼までには帰るからな」
 今食べると、本当に良い食材を使っているのだから、つくづく仄暗い。まあ、そんなことを思うのも、今日が最後だ。そんな怪しげな方法で手に入れる華美な生活など、欲しくはない。
「駄目よ。今年こそ結婚式を上げないと。丁度いいわ、嫁入りは八月の終わりが最も良い時期とされるのは、勿論覚えているわよね」
 俺はそんなことで村が浮ついている、その時期に逃げ出した。
「ハッ……。母さん。俺はもうそれには相応しくないよ。もう都会に住んで長いし、成人した。あの頃みたいに、身綺麗でもないしな? ……正直な話、俺じゃなくてもいいんだろ。神嫁って、何するのか結局分からんけど。ここまで何もなかったじゃん」
「水貴? 滅多なこと言わないで。トカサ様の選定も、どんどん厳しくなっているわ。今回の、貴方に一番近しい豊河さんのご奉仕は、本当に最後の手段なの……でも、それもいつまで持つか分からない」
「選定? ご奉仕? ……なんのことだよ、それ」
「貴方がいない四年の間、一年に何人かトサカ様を沈める、沈め人をトサカ様自らがお選びになるのよ。貴方に似た、若い男性ばかりが選ばれるわ」
「まさか、それを叔父さんもしたのか? 病気だったのに……!」
「そうよ。それで亡くなったのよ。貴方の叔父さんは、貴方が逃げたせいで亡くなったの」
「は……?」
 信じられない。そりゃ確かに、俺がやれば良かったのかもしれないけれど。それってつまり、あんたらが無理させなければ、叔父がこんなに早く死ぬことはなかったってことだろ。それを、俺のせいって。 
 底のない集団的狂気と、自分の無力さに目眩がした。どうして、徒党を組んででも、叔父を助けに来なかったんだろうか。
「信じられねぇ。あんたら最低だな……」
「時間がないのはもう分かったわね。ちゃんとお務めを果たして頂戴。ああ、それと」
 母は妙に大きい目をじっとこちらに向けて、微笑んだ。
「神嫁は、神様にとって気に入った嫁であれば良いの。あなた一度も、最後まで性行為できたことないでしょう? トサカのご寵愛は、あなた自身が一番よくわかってるんじゃないかしら?」
 俺は黙り込んで、夕食も早々に自室に戻った。


 泊まりを了承したものの、ここで夜を過ごす気はなかった。真夜中、鞄から懐中電灯と予備の靴を取り出し、縁側からそっと外に出た。服は案の定風呂で回収されたが、このために買った安物である。惜しくはない。
 叔父の遺書は堪えたが、でもあの花が俺の弔いの全てだ。叔父には天国から恨まれるかもしれないが、それもこの村で死ねばままならないのだから、どうか許してほしい。
(叔父さん、ごめん。でも、もう行くよ)
 想定していた通り、屋敷の周りには見張りがいた。ただこの家の塀に、一部板の建付けが悪くなっている所があることには気付いていなかったようで、楽に出れてほっとする。後は野生動物に出くわさないように祈りながら、村の端を歩いていく。すると、この村の唯一の出入り口である、短いトンネルについた。ここを通るのはあのマイクロバスぐらいだ。
(よし、誰もいない)
 前日、俺はこの近くにバイクで来た。その時、麓にこっそり、バイクを置いておいたのだ。鍵は鞄の中にある。足元だけを照らしていた懐中電灯を、ふっと前に持ってくる。そこにはぽっかりと、トンネルの闇が。

 あるはずだった。
 そこにあるのは木立だ。びったりと横に並んだ木々。そんなはずはない。森を間違えて照らしたのかと思ったが、違う。違うのだ。木は、そんな生え方はしない。可能性としてあるなら、丸太を束ねたような作りの木の塀。もしかすると、トンネルを扉のような物で塞がれたか。焦って、その根本を照らした。照らしてしまった。照らしてはいけなかった。ああ。
 そこに並び立つ、人の足を見てはいけなかった。 
 ただ、それを見て立ち尽くす。土色の右足。それが何十本も並んで、トンネルの前に佇んでいる。その足を降ろす物を、見上げる胆力はない。
(……幻覚だ。俺はこんな物は見えないし、触れない)
 さっきの食事に、何か混ぜられたのかもしれない。もはやこれも夢かもしれない。でも、ここで引き換えしたら、この夢はもう二度と醒めないのではないか?
 覚悟を決めて一歩踏み出す。その足の壁に向かって、そんなもの何も見えないという顔をして、突っ込んでいく。大丈夫。幻なのだから。
 175センチある俺の目の前に、異形の脛がある。それにぶつかる瞬間。その隙間からぬっと出た長い手が、俺を抱きすくめようと迫ってきた。
「あ」
 小さく上げた悲鳴の後、思わず身を固め。
 映像が途切れた。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...