砂の甘さ

巳島柚希

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砂の甘さ

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 祭りの夜はどよめき、太鼓の音が大地に沈んでゆく。三日月に見守られる夜の下、市が開かれ、人々が笑い合う。
 これを見た他の国の民は、それがよもや、破滅の予言の日だとは思わないだろう。
「祝宴だ! 勇者が早朝、果ての地に旅立つぞ」
「送り出せ、送り出せ。我らの希望を!」

 三十年前、大魔道士からこの国に予言があった。
「予言の年。静かな夜、この国に魔王が現れ、この世界は魔と命が混じり、命が脅かされる。
そして、厄災には救いがある。その年から十五年前に生まれた子供の中に、勇者がかならず現れる。その勇者を見つけられたのならば、我々は唯一の希望を手にするだろう」
 そうして今から十五年前。その年に生まれた子供の中から、一人の勇者が選ばれた。今日、その少年が齢十五を迎えたのだ。

「砂漠の向こうに行けるんだ。わくわくするよ」
 絢爛豪華な石の神殿。見晴らしのいいテラスで、勇者の少年シルムはそう話した。彼の浅黒い肌と黒い髪、宝石のようなエメラルドの瞳が、ランタンの光に淡く照らし出されている。
 彼は今朝まで、街の城壁近くの貧民街「砂まみれ」にいた。そんな少年が、生まれて初めて入った石の床の建物に、うわつかない訳はない。俺は自分と同じ貴族の白いローブを着た彼をそっと眺め、そして溜息を飲み込み、努めて明るい声を出した。
「俺は昔から、お前には絹の着物が似合うと思っていた」
「はは、なんだそれ! ボロきれ着てるとこしか見たことないだろう……ま、レイジャは絹にも慣れ親しんでるもんな。どうだ? 想像通りか?」
 シルムは、その慎ましく美しい体を包むローブの裾をなびかせながら、風で踊る花のようにその場で一回転する。胸に走る、焼け付くような痛み。
「うん。綺麗だ」

 国がこの、全く緊張感のない有様である訳は、脅威になる魔王など、この世界にはいないからである。予言の日から国の者は、内外問わず魔王らしき影を探してきたが、そんな者は一向に見つかっていない。初めからいないものに、厄災も何もなかった。あるのは漫然とした砂嵐と日差しだけ。
 この国の周りの砂漠は、かつてはラクダで横断できるほどよい距離に水場があった。だがそれが枯れてからは、徐々に孤立無援の国となっていく。 それでも国民は、水の出るこの城壁の中だけで細々と暮らした。そしてその日々を重ねるごとに鬱屈し、退屈していく。生殺しの楽園で、人々は予言を、次第に娯楽として扱うようになっていった。

「わあ……綺麗な色水だ。甘い香りがする」
 そんなことで。そんなことでこの、美しく優しいシルムは試練を課され、見世物にされ、この国で一番大きな神殿で饗されるだけの、たった一日の贅沢を対価にその十五年から先の人生を奪われるのだ。
「リンゴという果実の汁を、砂糖水で割った飲み物だ。飲んでみろ」
 そんなことは、あってはならない。
 シルムは寝椅子に軽く腰掛け、美しいガラス細工のグラスを手に取り、その薄緑色の果実水を、細い喉に通していく。
「甘くて美味しい! それにしても、リンゴという実は、緑色なんだな。見たことも聞いたこともない果実だけど」
「違う。リンゴは赤だ」
「え、じゃあ何で水が緑なんだ?」
「……隠し味。お前の、瞳の色になるように」
「隠し、あ、じ……?」
 ゆっくりと、彼の身体が傾く。空のグラスが手から落ち、寝椅子の座面へ静かに転がる。それとほぼ同時にシルムも、そこへ倒れ込んだ。
 向かいに座っていた俺は立ち上がり、シルムの顔を覗き込む。彼は呆然としつつも目を瞬かせ、これから起こる「とても良くないこと」に感づいているようだった。その聡明さに俺は、愛情の確信をさらに強くする。
「れ……レイ、ジャ? な……なに、こ……れ」
 シルムの瞳は揺れ、焦点が定まらない。瞬きが多いのは、瞼が自然に落ちてくるからだろう。他にも俺に何か呼びかけようとしたようだが、呂律が回らず言葉にならない。それに焦ったのか必死に身体を動かそうとするが、四肢は綿の詰まった布地の上を滑るだけだった。
「シルム。この世界に魔王はいない。でも、魔は居るんだ」
 俺はシルムの頭を撫でながら、歌を歌う。それは人の耳には理解できない、魔族の歌。

 俺の家系は、元は魔力の弱い矮小な人型魔族だった。でも先祖がこの孤立した砂漠の国に流れ着いたことで、いたずらに血を濃く、長く継承してしまう。そして俺の代で、ついに魔境の門を開くまでに格が至ったのだ。魔境とは、地上に生まれた魔族が尊ぶ古の故郷。人外の文明が築かれる異世界。そこに続く門を開くのは、いつの時代も人間の世界で生まれた魔の悲願である。
「や、やめ……て……お、れは……み……」
 声が途切れ、彼の身体から力が抜けた。呼吸が浅く、規則的になっていく。シルムが眠りに落ちた証拠だった。
「どうでもいい、どうでもいいんだ」
 ここで人が生きていること。死んでいること。それは砂漠の向こうには、何ら関係のないことだった。その暮らしは、思いは、砂に阻まれ全て、伝わる前に掻き消える。彼らはそれに気づき、諦め、一人の若い命を渇き殺すごっこ遊びを大層なこととして、この広い世界に貢献しているような気になることにした。そして、その虚しさを慰めようとした。それだけの、下らないことなんだ。
 「一緒に行こうな、シルム」

 ただ、上流階級の子供の中の一人だった少年は今、瞳を魔族の力で琥珀色に輝かせ、虚の門を開ける。その心の中は、自身の腕の中で眠る少年への愛で溢れ返っていた。
 そこには砂漠で生きる一万の民も、この世界に生きる十億の民も、さらには無数の命へさえも、一切の憐憫は無く。
 祭りの夜。静かな部屋で高まるその魔の気配に、誰一人として気づく者は居なかった。
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