揺り椅子の女神

白岡 みどり

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二章

24.逆上

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 何が起こっているのか、分かっているのに信じたくなかった。

 小夜が、運河に落ちた。
 違う、落ちたのではない、あれはーー。
 
(やめろやめろやめろ!!)

 無我夢中でフレイアルドは岸壁に置いてあった係留用の縄を手に取り、それを自身の腰に結びつける。
 小夜が落ちたのを見ていながら周囲はまだ呆然と立ち尽くしている。
 その内の一人に縄の先を無理矢理持たせた。

「二回引いたら引き揚げてくれ!!」
「ーーお、おぉっ」

 縄を持たされた漕手はそれでやっと事態が飲み込めたらしい。
 フレイアルドが小夜を追って水に飛び込む前には周囲の人間を呼び集めていた。

 横目にそれを確認したフレイアルドは、腰の剣を捨てて運河に飛び込む。

 水はぬるく、濁っていた。

(サヨ!! ……どこだ!!)

 すると流れの中、レースが沈んでいくのが見えた。
 フレイアルドは渾身の力で水を掻き、追いつく。
 手を伸ばして服を掴んだ。確かな重みだ。
 そのまま手繰り寄せると、華奢な体は人形の如くぐったりとしている。

(サヨ!! 頼む死ぬな!!)

 眼を閉じた小夜はフレイアルドに水中で引っ張られても無反応だった。

 フレイアルドは腰の縄を強く二回引く。
 するとすぐに凄まじい力で二人は岸壁へと引き寄せられていく。

 水面までは一瞬だった。

「出たぞ!! みんな引けー!!」

 岸で漕手達が雄叫びをあげると、縄を引く力は一層強まった。

「ーーサヨ!!」

 フレイアルドは運河の流れに逆行して進む自分の胸に、小夜をもたれさせる。
 二人は重なって背泳ぎをしているような体勢になった。
 小夜の顔がしっかりと水面から出るように支えるが、依然として反応は無い。
 フレイアルドはそれでも呼び続けた。
 
「しっかりしなさい!! サヨ!! ーー起きろ!!」

 岸壁に辿り着いても小夜の意識は戻らない。
 引き揚げられ、フレイアルドはすぐさま小夜を横たえた。
 その呼吸はすでに止まっている。

(息がないーーくそっ!!)

 ここにはラインリヒはいない。オレラセアの遺物もない。
 フレイアルドは必死に頭を巡らせる。

(サヨ、サヨ、貴女を助けるにはーー)

 ーーここが小夜の国ならば。

 フレイアルドがそれを思い付いたのは偶然としか言えなかった。
 しかし体は瞬時に動いた。
 この間、引き揚げからわずか数十秒のことだった。

 フレイアルドは仰向けの小夜の額に左手を当て、右手の指先を下顎の先端に伸ばすとその頭を後方に反らせた。
 周囲は突然の奇行にざわつき始める。

「おいあんた何してーー」
「黙ってろ!!」

 小夜はまだ息が止まったままだ。
 額に当てた左手で小夜の鼻を摘み、フレイアルドは大きく開けた口で小夜の口を覆った。
 息をゆっくり吹き込んでいく。

(胸ーー動いた!)

 小夜の胸が上下するのを確認し、フレイアルドはその動作を何度も繰り返す。
 この間、周囲の雑音を意識から排除したフレイアルドだったが、聞こえてきたその声だけは無視できなかった。

「ーー通せ!! 通してくれ!! 儂の娘だ!!」

 フレイアルドが声に気を取られ小夜の口から離れた瞬間、小夜が咳き込む。

 ゲホッという音と共に、大量の水が吐き出された。

「全部吐きなさい!!」

 小夜の顔を横に向けさせ、残りの水を吐くよう促せば、ゆるりとその眼が開いていく。

「……ぅ」
「サヨ……!! 分かりますか!?」

 小夜の薄く開いた眼にフレイアルドが映る。

「私が誰か分かりますか?」
「……フレ……ァル……けほっ」

 答える途中また咳込み、残っていた水を吐ききった小夜とフレイアルドの前に伯爵が立つ。
 その顔は青褪めて、細かく震えている。
 
「サヨ、儂だ、分かるか」
「……とぅ、さま……」

 小夜に父様と呼ばれた伯爵は、ふらふらと近づくと、小夜のほど近くに腰を下ろした。
 がっくりと肩を落としているのは、安堵からだろう。

「そなたが水に沈むのを見たとき、心臓が止まるかと……」

 おそらくはフレイアルドとほぼ同時に小夜を見つけたのだろう。
 フレイアルドがより小夜に近かった。だからすぐ飛び込んで助けられた。
 もし伯爵の方が先に見つけていたら、必ず飛び込んで助けていたはずだ。

 伯爵の手は硬く握られ、震えている。
 小夜は何も言わず、伯爵を見つめている。

「儂は、もうだめかと……アマーリエになんと言えばいいのか、と……」

 伯爵の大きな背が丸まる。
 伏せられた顔から地面に雫が落ちる。
 染みをつくっていくそれを、フレイアルドは男の情けで見なかったことにした。

 小夜の手が持ち上がり、伯爵の硬く握られた手に重なる。

「ごめ……なさ……ぃ……」

 小さな手を、伯爵は握った。
 すっぽり小夜の手が隠れるほど大きなその拳を、伯爵は己の目元に持っていく。
 祈るような体勢だった。

「……生きて、いるのだな、そなた、生きて……っ」

 伯爵は嗚咽を隠すことも忘れ、男泣きする。 
 その場面に駆けつけたのはアマーリエとシェルカだった。
 二人は漕手と野次馬で出来た人垣を押し退けて来たらしい。
 アマーリエは仰向けで横たわる娘と嗚咽をあげる夫を交互にみて、混乱している。

「サヨ? あなた? い、一体……」
「ーー申し訳ありませんが、早く小夜を温めねば。伯爵、よろしいですか」
「……うむ……」

 小夜の手を離した伯爵は、フレイアルドにしか聞こえないほど小さな声で、娘を頼む、と呟いた。

 フレイアルドは声には出さず頷き、小夜を抱き上げる。
 その体は冷たく、ぐったりしている。

「……帰りましょう、サヨ」

 小夜から返事はなかったが、その目が静かに閉じられるのをフレイアルドは了承と受け取った。
 
 漕手の一人に、後日改めて礼をするとだけ告げフレイアルドは辻馬車に乗り込む。
 行く先は無論、侯爵邸だった。

 ***

 馬車の扉が閉まり走り出すのと同時に、フレイアルドは膝の上に抱えていた小夜に口付けた。

「ーーんっ」

 小夜の唇は冷たく、濡れている。
 顔を背けようとしているが、フレイアルドが後頭部をしっかり支えている限り、逃げられはしない。
 何度もついばみ、舌先で唇をつつき、一瞬の隙を見つけて口の中へと押し入る。
  
「んっ、んー!」

 小夜がフレイアルドの服を掴み身をよじっても止める気はなかった。
 己の舌で白い真珠が並んだような歯列をなぞり、逃げようとする少女の舌を捕らえる。

「……っ! ……んっ、ん……!」

 鼻にかかった少女の甘い声が体の芯に響く。
 フレイアルドは小夜の体の震えを見計らって、水音とともに唇を解放した。
 
 小夜の榛の瞳はとろりとした色を纏いつつ、戸惑いを映している。
 きっと息の仕方を知らないのだろう。
 その胸は上下していた。

「ーー私に、されて嫌なことはないんでしたね」
「……フレ……」
「貴女が自ら死を選ぶというのなら、私は遠慮なく貴女を貰いますよ」

 そう脅せば小夜はびくりと肩を揺らした。

「……死?」

 首を傾げたいのはこちらだった。
 あんなことをしておいて、まさか自覚が無いのかとフレイアルドは思わず語気が強くなる。

「そうです。夏とはいえ、泳げもしない貴女が運河に入る理由が他にありますか? 私が駆けつけた時貴女は、みずからっ……」
「……あ……」

 少女はやっと思い至ったらしい。
 フレイアルドはこの苛立ちをどうやって鎮めればいいのか分からなかった。
 小夜の白い首筋が目に入る。
 
「前に、私は貴女を怒ったりしないと言いましたが……それは、それだけは、許せない……!」
「ち、ちがうんです、ーーあっ!」
 
 噛み付くように、少女の喉に喰らいつく。
 小夜は狭い馬車の座席で、じたばたと足を動かした。

 やわい肌をねぶり上げれば、小夜が狼狽えているのが伝わってくる。

「あっ、やっ……」

 気が済むまで小夜の白い首を貪り、顔を上げた。

 息を荒げる小夜の目には薄ら涙が浮かんでいる。
 フレイアルドはそれが、愛しくて、可愛くてーー同じくらい、腹立たしい。

「ーー死なせるくらいなら、いっそのこと貴女を屋敷に閉じ込めて、どこにもやらず、誰にも会わせず、私だけのものにします。いいですか?」

 小夜は首を左右に振る。
 目尻に溜まった涙の粒と、濡れた髪の雫が飛び散った。
 
「ちが、ちがうんです……死のうなんて、思ってません……ただ、逃げようと……」
「逃げる? 誰からですか」
 
 あの時一人だったのを自分は見ている。
 しかも運河に飛び込んで逃げるなんて普通に考えて自殺行為だ。

 小夜は首を手で隠しながら、必死に弁解しようとしている。

「おとうさん、と……あの、男の子、から……」

 ーーあの男の子。

 間違いなくそう言った小夜。

「サヨ、まさか……思い出したんですか」

 こくり、と小さな頭が力無く頷く。
 小夜の目からは決壊したように次々と涙を溢れた。
 ぬぐう暇さえないほどに。

 フレイアルドはそれで、一番避けたかったことが小夜の身に起こったのだと、やっと気づいた。
 もっと早く気づけるはずだったのに出来なかったのは、それだけフレイアルドが小夜の死を目前にして冷静さを失っていたということ。

 もしも小夜があの紙を読んで記憶を取り戻したのならば、異常な行動にも説明がつく。

「……わたし、わたしの、せいで、ふたりが」
「貴女のせいじゃない」

 フレイアルドの言葉にとうとう嗚咽をあげる小夜を、潰れるほど抱き締める。
 子供のように泣く小夜は、それからずっとフレイアルドにしがみついて離れなかった。

「サヨ……」


 小夜の泣き声が一向に途切れぬ中、馬車は侯爵邸に到着する。
 出迎えに現れたのはマーサとマルクスである。馬車の扉を開けて中を伺った二人は、びしょ濡れで大泣きする小夜に目を白黒させていた。
 訳を知りたがる二人を制する。

「すまんが、説明は後だ。マーサ、すぐに小夜の湯浴みと着替えを頼む。マルクス、ラインリヒを引っ張ってこい。遺物を忘れるな」

 短く応じた二人は駆け出していく。
 この状態の小夜を連れて歩くわけにもいかず、フレイアルドは二人が戻るまでは馬車に留まることにした。
 
「サヨ、あとで話があります」
「おは、なし……」

 フレイアルドの中の炎は小夜の涙ですっかり鎮まっていた。ーー火種は、残ったが。
 
「えぇ。大切な話です」

 ぐすぐすと泣きながらも頷く小夜。
 フレイアルドはマーサとマルクスが来るまで、その頭を優しく撫でたのだった。

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