1 / 6
1章:生ける伝説、仮想世界に降り立つ
1話:静寂
しおりを挟む
福丘の朝は、常に研ぎ澄まされた静寂から始まる。
吉岡一之進は、薄暗い土間に腰を下ろしていた。九十二歳になるその背筋は、古い建築の柱のように一点の揺らぎもなく垂直に伸びている。
指先が、砥石の上で規則正しいリズムを刻む。
「シャッ……、シャッ……」
手にしているのは、近所の主婦から預かった安物の菜切り包丁だ。量産品のステンレス刃だが、一之進の手に掛かれば、そこに宿る「鉄としての理」が引き出されていく。
かつて、国宝『濡れ刃鴉』を打ち上げたその指先は、今や日用品のメンテナンスにその命を費やしていた。
奉納を終え、戦場を遠い過去の記憶として封じ込め、愛した妻・由美子を土に返して七年。一之進の肉体は、医者が驚愕するほど健壮であったが、その心根には、枯れ木のような静かな諦念が根を張りつつあった。
己は、もう役目を終えたのだ。
このまま、静かに、誰にも知られず、福丘の土に還る。それが隠居としての「美学」であるとさえ思っていた。
だが、その静寂は、無作法な排気音によって無残に引き裂かれた。
「おーい! イチ! もう起きてんだろ、開けるぜ!」
返事も待たず、土間の引き戸が勢いよく開け放たれる。
朝の冷気を引き連れて入ってきたのは、作業服を乱暴に着崩したトシと、その後ろで岩のように黙り込んでいるゲンだった。トシの腕には、何やら最新型の端末が握られ、その背後にある軽トラの荷台には、巨大な木箱が鎮座している。
「……トシ。朝の研ぎは、ワシにとっての祈りだと言ったはずだが」
「祈りなら向こうでいくらでも捧げりゃいいだろうが! ほら、ゲン、運ぶぞ。畳を傷つけねえように気をつけろい!」
一之進の小言を風のように聞き流し、二人は巨大な荷物を運び入れ始めた。
運び込まれたのは、漆黒のカーボンフレームに覆われた、流線型の「繭)」だった。それは一之進の古びた和室に、異物として、しかし圧倒的な存在感を持って鎮座した。
「……それは、何じゃ」
「何って、おめえの『新しい仕事場』だよ、イチ」
トシは端末をコンセントに繋ぎ、手際よく配線を処理していく。
「セイユーグループが社運を賭けて開発した、最新鋭のフルダイブカプセル『零式』だ。おめえの息子、慎介が特注したんだぜ。わざわざ俺の店に持ち込んで、『親父の隠居生活に、火を灯してやってくれ』って泣きついてきやがった」
一之進は、その黒い繭を見つめた。
表面には、うっすらと青いLEDのラインが呼吸するように明滅している。それは現代の魔術が産み落とした、もう一つの世界への入り口だった。
「慎介が……。あやつ、余計な真似を」
「余計じゃねえよ。おめえが一日中、近所のババアの包丁研いでんのが、息子にすりゃ見てられねえんだよ」
トシは畳の上に膝をつき、専用の光ファイバーを端子に滑り込ませる。ゲンの大きな手が、カプセルの脚をミリ単位で調整し、和室の床が歪まないよう特注の免振板を差し込んでいった。
二人の動きは、プロのそれだった。トシは最新の電化製品を、ゲンは建物の構造を、一之進という「古き英雄」を再び動かすために捧げている。
「いいかイチ。俺とゲンはもう、向こう側に拠点を構えてる。俺は機人、ゲンは鋼人だ。向こうでの名前はトシとゲン。おめえを招待するための通信リンクは、俺が裏から無理やり通しておいたぜ」
「ワシは、そんな箱に入って遊ぶほど、暇を持て余してはおらんぞ」
一之進の拒絶は、トシには通用しなかった。
「遊ぶんじゃねえ、生きるんだよ。イチ、おめえは昔っから『年寄りのくせに』って言われるのが一番嫌いだったろ? なら見せてやれよ。九十二歳のジジイが、最新の電脳空間でどれだけ『本物』かってのをな」
トシは端末の最終確認を終えると、一之進のスマホを手に取った。
「設定は俺が全部終わらせた。このスマホが、おめえと現実を繋ぐ唯一の命綱だ。カプセルの外から俺が喋る声は、向こうでも聞こえるようにしてある。……いいか、今日は設置と説明だけだ。ログインは心の準備ができてからでいい」
一之進は、静かに立ち上がり、黒い繭に指先で触れた。
ひんやりとしたカーボンの質感。しかし、その奥には、数千万人の意識が混ざり合う、巨大な熱量が秘められていることを、彼の鋭敏な知覚が感じ取っていた。
「……トシ。一つ聞く。そこでも、鉄を打つことはできるのか」
「当たり前だ。おめえが本気になれば、『濡れ刃鴉』を超える一振りだって打てる。……そういう世界だ、ここは」
一之進は視線を落とし、己の掌を見つめた。
九十二年生きた、老人の手。
だが、その指先は、新しい挑戦を前にして、微かだが確かに「震えて」いた。それは老いによる震えではない。かつて戦場へ赴く前に感じた、武者震いに似た感覚だった。
「……茶を淹れよう。トシ、ゲン。設置の礼だ」
一之進は背を向け、台所へと歩き出した。
黒い繭が、主を待つように静かに、しかし力強く、福丘の古家に溶け込み始めていた。
吉岡一之進は、薄暗い土間に腰を下ろしていた。九十二歳になるその背筋は、古い建築の柱のように一点の揺らぎもなく垂直に伸びている。
指先が、砥石の上で規則正しいリズムを刻む。
「シャッ……、シャッ……」
手にしているのは、近所の主婦から預かった安物の菜切り包丁だ。量産品のステンレス刃だが、一之進の手に掛かれば、そこに宿る「鉄としての理」が引き出されていく。
かつて、国宝『濡れ刃鴉』を打ち上げたその指先は、今や日用品のメンテナンスにその命を費やしていた。
奉納を終え、戦場を遠い過去の記憶として封じ込め、愛した妻・由美子を土に返して七年。一之進の肉体は、医者が驚愕するほど健壮であったが、その心根には、枯れ木のような静かな諦念が根を張りつつあった。
己は、もう役目を終えたのだ。
このまま、静かに、誰にも知られず、福丘の土に還る。それが隠居としての「美学」であるとさえ思っていた。
だが、その静寂は、無作法な排気音によって無残に引き裂かれた。
「おーい! イチ! もう起きてんだろ、開けるぜ!」
返事も待たず、土間の引き戸が勢いよく開け放たれる。
朝の冷気を引き連れて入ってきたのは、作業服を乱暴に着崩したトシと、その後ろで岩のように黙り込んでいるゲンだった。トシの腕には、何やら最新型の端末が握られ、その背後にある軽トラの荷台には、巨大な木箱が鎮座している。
「……トシ。朝の研ぎは、ワシにとっての祈りだと言ったはずだが」
「祈りなら向こうでいくらでも捧げりゃいいだろうが! ほら、ゲン、運ぶぞ。畳を傷つけねえように気をつけろい!」
一之進の小言を風のように聞き流し、二人は巨大な荷物を運び入れ始めた。
運び込まれたのは、漆黒のカーボンフレームに覆われた、流線型の「繭)」だった。それは一之進の古びた和室に、異物として、しかし圧倒的な存在感を持って鎮座した。
「……それは、何じゃ」
「何って、おめえの『新しい仕事場』だよ、イチ」
トシは端末をコンセントに繋ぎ、手際よく配線を処理していく。
「セイユーグループが社運を賭けて開発した、最新鋭のフルダイブカプセル『零式』だ。おめえの息子、慎介が特注したんだぜ。わざわざ俺の店に持ち込んで、『親父の隠居生活に、火を灯してやってくれ』って泣きついてきやがった」
一之進は、その黒い繭を見つめた。
表面には、うっすらと青いLEDのラインが呼吸するように明滅している。それは現代の魔術が産み落とした、もう一つの世界への入り口だった。
「慎介が……。あやつ、余計な真似を」
「余計じゃねえよ。おめえが一日中、近所のババアの包丁研いでんのが、息子にすりゃ見てられねえんだよ」
トシは畳の上に膝をつき、専用の光ファイバーを端子に滑り込ませる。ゲンの大きな手が、カプセルの脚をミリ単位で調整し、和室の床が歪まないよう特注の免振板を差し込んでいった。
二人の動きは、プロのそれだった。トシは最新の電化製品を、ゲンは建物の構造を、一之進という「古き英雄」を再び動かすために捧げている。
「いいかイチ。俺とゲンはもう、向こう側に拠点を構えてる。俺は機人、ゲンは鋼人だ。向こうでの名前はトシとゲン。おめえを招待するための通信リンクは、俺が裏から無理やり通しておいたぜ」
「ワシは、そんな箱に入って遊ぶほど、暇を持て余してはおらんぞ」
一之進の拒絶は、トシには通用しなかった。
「遊ぶんじゃねえ、生きるんだよ。イチ、おめえは昔っから『年寄りのくせに』って言われるのが一番嫌いだったろ? なら見せてやれよ。九十二歳のジジイが、最新の電脳空間でどれだけ『本物』かってのをな」
トシは端末の最終確認を終えると、一之進のスマホを手に取った。
「設定は俺が全部終わらせた。このスマホが、おめえと現実を繋ぐ唯一の命綱だ。カプセルの外から俺が喋る声は、向こうでも聞こえるようにしてある。……いいか、今日は設置と説明だけだ。ログインは心の準備ができてからでいい」
一之進は、静かに立ち上がり、黒い繭に指先で触れた。
ひんやりとしたカーボンの質感。しかし、その奥には、数千万人の意識が混ざり合う、巨大な熱量が秘められていることを、彼の鋭敏な知覚が感じ取っていた。
「……トシ。一つ聞く。そこでも、鉄を打つことはできるのか」
「当たり前だ。おめえが本気になれば、『濡れ刃鴉』を超える一振りだって打てる。……そういう世界だ、ここは」
一之進は視線を落とし、己の掌を見つめた。
九十二年生きた、老人の手。
だが、その指先は、新しい挑戦を前にして、微かだが確かに「震えて」いた。それは老いによる震えではない。かつて戦場へ赴く前に感じた、武者震いに似た感覚だった。
「……茶を淹れよう。トシ、ゲン。設置の礼だ」
一之進は背を向け、台所へと歩き出した。
黒い繭が、主を待つように静かに、しかし力強く、福丘の古家に溶け込み始めていた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
『イージス艦長、インパール最前線へ。――牟田口廉也に転生した俺は、地獄の餓死作戦を「鉄壁の兵站要塞」に変える』
月神世一
SF
【あらすじ】
「補給がなければ、戦場に立つ資格すらない」
坂上真一(さかがみ しんいち)、50歳。
かつてイージス艦長として鉄壁の防空網を指揮し、現在は海上自衛隊で次世代艦の兵站システムを設計する男。
背中には若き日の過ちである「仁王」の刺青を隠し持ち、北辰一刀流の達人でもある彼は、ある日、勤務中に仮眠をとる。
目が覚めると、そこは湿気と熱気に満ちた1944年のビルマだった。
鏡に映っていたのは、小太りで口髭の男――歴史の教科書で見た、あの「牟田口廉也」。
しかも時期は、日本陸軍史上最悪の汚点とされる「インパール作戦」決行の直前。
部下たちは「必勝の精神論」を叫び、無謀な突撃を今か今かと待っている。
(……ふざけるな。俺に、部下を餓死させろと言うのか?)
現代の知識と、冷徹な計算、そして海自仕込みのロジスティクス能力。
すべてを駆使して、坂上(中身)は歴史への介入を開始する。
精神論を振りかざすふりをして上層部を欺き、現地改修で兵器を強化し、密かに撤退路を整備する。
これは、「史上最も無能な指揮官」の皮を被った「現代の有能な指揮官」が、確定した敗北の運命をねじ伏せ、数万の命を救うために戦う、逆転の戦記ドラマ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる