Another World-The origin

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1章:生ける伝説、仮想世界に降り立つ

1話:静寂

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福丘ふくおかの朝は、常に研ぎ澄まされた静寂から始まる。

 吉岡一之進は、薄暗い土間に腰を下ろしていた。九十二歳になるその背筋は、古い建築の柱のように一点の揺らぎもなく垂直に伸びている。

 指先が、砥石の上で規則正しいリズムを刻む。
 
「シャッ……、シャッ……」

 手にしているのは、近所の主婦から預かった安物の菜切り包丁だ。量産品のステンレス刃だが、一之進の手に掛かれば、そこに宿る「鉄としての理」が引き出されていく。

 かつて、国宝『濡れ刃鴉ぬればがらす』を打ち上げたその指先は、今や日用品のメンテナンスにその命を費やしていた。

 奉納を終え、戦場を遠い過去の記憶として封じ込め、愛した妻・由美子を土に返して七年。一之進の肉体は、医者が驚愕するほど健壮であったが、その心根には、枯れ木のような静かな諦念が根を張りつつあった。

 己は、もう役目を終えたのだ。
 このまま、静かに、誰にも知られず、福丘の土に還る。それが隠居としての「美学」であるとさえ思っていた。

 だが、その静寂は、無作法な排気音によって無残に引き裂かれた。

「おーい! イチ! もう起きてんだろ、開けるぜ!」

 返事も待たず、土間の引き戸が勢いよく開け放たれる。

 朝の冷気を引き連れて入ってきたのは、作業服を乱暴に着崩したトシと、その後ろで岩のように黙り込んでいるゲンだった。トシの腕には、何やら最新型の端末が握られ、その背後にある軽トラの荷台には、巨大な木箱が鎮座している。

「……トシ。朝の研ぎは、ワシにとっての祈りだと言ったはずだが」

「祈りなら向こうでいくらでも捧げりゃいいだろうが! ほら、ゲン、運ぶぞ。畳を傷つけねえように気をつけろい!」

 一之進の小言を風のように聞き流し、二人は巨大な荷物を運び入れ始めた。

 運び込まれたのは、漆黒のカーボンフレームに覆われた、流線型の「まゆ)」だった。それは一之進の古びた和室に、異物として、しかし圧倒的な存在感を持って鎮座した。

「……それは、何じゃ」

「何って、おめえの『新しい仕事場』だよ、イチ」

 トシは端末をコンセントに繋ぎ、手際よく配線を処理していく。

「セイユーグループが社運を賭けて開発した、最新鋭のフルダイブカプセル『零式ぜろしき』だ。おめえの息子、慎介が特注したんだぜ。わざわざ俺の店に持ち込んで、『親父の隠居生活に、火を灯してやってくれ』って泣きついてきやがった」

 一之進は、その黒い繭を見つめた。

 表面には、うっすらと青いLEDのラインが呼吸するように明滅している。それは現代の魔術が産み落とした、もう一つの世界への入り口だった。

「慎介が……。あやつ、余計な真似を」

「余計じゃねえよ。おめえが一日中、近所のババアの包丁研いでんのが、息子にすりゃ見てられねえんだよ」

 トシは畳の上に膝をつき、専用の光ファイバーを端子に滑り込ませる。ゲンの大きな手が、カプセルの脚をミリ単位で調整し、和室の床が歪まないよう特注の免振板を差し込んでいった。

 二人の動きは、プロのそれだった。トシは最新の電化製品を、ゲンは建物の構造を、一之進という「古き英雄」を再び動かすために捧げている。

「いいかイチ。俺とゲンはもう、向こう側に拠点を構えてる。俺は機人、ゲンは鋼人だ。向こうでの名前はトシとゲン。おめえを招待するための通信リンクは、俺が裏から無理やり通しておいたぜ」

「ワシは、そんな箱に入って遊ぶほど、暇を持て余してはおらんぞ」

 一之進の拒絶は、トシには通用しなかった。

「遊ぶんじゃねえ、生きるんだよ。イチ、おめえは昔っから『年寄りのくせに』って言われるのが一番嫌いだったろ? なら見せてやれよ。九十二歳のジジイが、最新の電脳空間でどれだけ『本物』かってのをな」

 トシは端末の最終確認を終えると、一之進のスマホを手に取った。

「設定は俺が全部終わらせた。このスマホが、おめえと現実を繋ぐ唯一の命綱だ。カプセルの外から俺が喋る声は、向こうでも聞こえるようにしてある。……いいか、今日は設置と説明だけだ。ログインは心の準備ができてからでいい」

 一之進は、静かに立ち上がり、黒い繭に指先で触れた。

 ひんやりとしたカーボンの質感。しかし、その奥には、数千万人の意識が混ざり合う、巨大な熱量が秘められていることを、彼の鋭敏な知覚が感じ取っていた。

「……トシ。一つ聞く。そこでも、鉄を打つことはできるのか」

「当たり前だ。おめえが本気になれば、『濡れ刃鴉』を超える一振りだって打てる。……そういう世界だ、ここは」 

 一之進は視線を落とし、己の掌を見つめた。

 九十二年生きた、老人の手。

 だが、その指先は、新しい挑戦を前にして、微かだが確かに「震えて」いた。それは老いによる震えではない。かつて戦場へ赴く前に感じた、武者震いに似た感覚だった。

「……茶を淹れよう。トシ、ゲン。設置の礼だ」

 一之進は背を向け、台所へと歩き出した。

 黒い繭が、あるじを待つように静かに、しかし力強く、福丘の古家に溶け込み始めていた。
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