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第245回 幽霊ラーメン店訴訟事件
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都市伝説レポート 第245回
「幽霊ラーメン店訴訟事件」
取材・文: 野々宮圭介
筆者のもとに一通の手紙が届いたのは、梅雨入り前の蒸し暑い六月のことだった。差出人は栃木県在住のM氏。便箋に綴られた内容は、一見すると荒唐無稽な話に思えるものだった。
「先生の記事をいつも読ませていただいております。実は、私の知人が巻き込まれた不可解な事件について、ぜひお聞かせしたいことがあるのです」
M氏の手紙によれば、彼の知人が二〇〇六年に日光市内でラーメン店を開業した際、「幽霊の存在」を理由に損害賠償を求める訴訟を起こしたというのだ。法廷で幽霊の存在が争点となった――そんな奇妙な事件に、筆者は俄然興味を抱いた。
二週間後、筆者は東武日光線に揺られていた。M氏との面会の約束を取り付け、現地調査に向かうためである。車窓から見える日光の山々は初夏の緑に包まれ、一見すると平穏そのものだった。
問題となった建物は、日光市内の住宅街の一角にあった。現在は空き家となっており、「テナント募集」の看板が寂しく風に揺れている。二階建ての建物は、外観から見る限り特に変わった様子はない。しかし、よく見ると一階の店舗部分の窓ガラスには薄っすらと埃が積もり、長期間使用されていないことが分かる。
M氏の紹介で会うことができた元ラーメン店主のK氏は、五十代半ばの物静かな男性だった。筆者との面談に応じた彼の表情には、今なお当時の体験への困惑が滲んでいた。
「最初は、単純に立地が良いと思ったんです」
K氏は当時を振り返りながら語った。日光市内という観光地に近く、住宅街の角地で人通りもそれなりにある。賃料も手頃だった。契約書にも特記事項は何もなく、二〇〇六年二月に賃貸借契約を結び、四月の開業に向けて改装工事を始めた。
「工事中は何も感じませんでした。ただ、近所の人たちの視線が気になる程度で」
四月中旬、K氏の「麺屋○○」は無事開業を迎えた。しかし、営業を始めて間もなく、常連客となった地元の年配女性から思いもよらない言葉を告げられる。
「この建物、前の人が亡くなってから変な噂があるのよ」
女性の話によれば、この建物では一九九九年から二〇〇三年まで、地主の長男が洋食店を経営していた。店は順調に営業を続けていたが、二〇〇三年の冬、その長男が交通事故で急逝。それ以来建物は空き家となり、近隣住民の間では「夜中に明かりが点いている」「人影を見た」といった噂が囁かれるようになったという。
K氏は当初、そうした話を単なる噂として聞き流していた。しかし、営業を続けるうち、自身でも説明のつかない体験をするようになる。
「夕方の仕込み中、カウンターの向こうに白い影のようなものがちらりと見えることがありました。最初は見間違いだと思っていたのですが」
人感センサー付きの照明が、誰もいない二階で突然点灯する。夜間の店内で、明らかに人の足音のような音が天井から聞こえる。冷蔵庫が勝手に開いている――そんな現象が続くようになった。
営業に支障をきたすほどこうした現象が続いたため、K氏は二〇〇七年、建物の所有者と仲介を行った不動産業者を相手取り、宇都宮地方裁判所に損害賠償請求訴訟を起こした。請求額は五〇二万円。その理由は「心理的瑕疵の告知義務違反」だった。
不動産取引における心理的瑕疵とは、物理的な欠陥はないものの、借り主や買い主が心理的に忌避する要因がある状態を指す。自殺や事件の現場となった物件がその典型例だが、K氏の代理人弁護士は「幽霊の噂も心理的瑕疵に該当する」と主張した。
被告側は「科学的根拠のない噂を告知する義務はない」として全面的に争った。法廷では、幽霊の存在そのものではなく、「そうした噂がある物件を貸す際の説明義務」が争点となった。
裁判では多くの証人が法廷に立った。K氏の体験を証言する常連客、以前から噂を知っていたという近隣住民、そして建物の管理を行っていた不動産業者の担当者。
特に印象深かったのは、前の店主だった長男の家族による証言だった。遺族は「息子は店に愛着を持っていた。もし何かがあるとすれば、それは悪意ではないはず」と語り、法廷は静まり返った。
一方、不動産業者側は「単なる思い込みと偶然の重なり」として、K氏の体験を否定する専門家の証言を用意した。建築士は「古い建物特有の音や光の現象」と説明し、心理学者は「暗示と思い込みによる錯覚」と分析した。
二〇〇八年春、宇都宮地裁は興味深い判決を下した。裁判所は「幽霊の存在そのものについては判断しない」としながらも、「近隣住民の間で広く知られていた噂について、借り主に説明がなかったことは事実」と認定。しかし、損害賠償については「噂と実害の因果関係が不明確」として、K氏の請求を棄却した。
K氏は控訴せず、判決は確定した。現在、問題となった建物は再び空き家となっている。
「結局、真相は分からないままでした」
取材の最後にK氏が漏らした言葉が、筆者の記憶に残っている。彼は現在、別の場所で小さな食堂を営んでいるという。
この事件について調べを進める中で、筆者は一つの興味深い事実に行き当たった。問題となった建物の登記簿を確認すると、一九九九年の建築時から二〇〇三年まで、確かに洋食店としての使用許可が出されており、二〇〇三年十二月に営業許可が取り消されている記録があった。また、近隣住民への聞き取り調査では、複数の人が「夜中に明かりを見た」という証言をしており、これは単純に否定できるものではなかった。
しかし同時に、心理学的な観点から見れば、「噂を知った後の体験」が心理的暗示によるものである可能性も否定できない。真実はどこにあるのか。それは読者諸氏の判断に委ねたい。
ただ一つ言えることは、現在もその建物は静かに佇んでおり、新しい借り主を待っているということである。もしかすると、次の入居者には全く何も起こらないかもしれないし、あるいは――。
取材を終えた帰路、筆者は再び件の建物の前を通った。夕暮れ時の薄暗がりの中、二階の窓に一瞬、明かりのようなものが見えたような気がしたが、それが街灯の反射だったのか、それとも別の何かだったのかは、今となっては確かめる術もない。
(了)
*本誌では読者の皆様からの都市伝説情報を募集しています。身近な不思議体験がありましたら、編集部までお寄せください。
「幽霊ラーメン店訴訟事件」
取材・文: 野々宮圭介
筆者のもとに一通の手紙が届いたのは、梅雨入り前の蒸し暑い六月のことだった。差出人は栃木県在住のM氏。便箋に綴られた内容は、一見すると荒唐無稽な話に思えるものだった。
「先生の記事をいつも読ませていただいております。実は、私の知人が巻き込まれた不可解な事件について、ぜひお聞かせしたいことがあるのです」
M氏の手紙によれば、彼の知人が二〇〇六年に日光市内でラーメン店を開業した際、「幽霊の存在」を理由に損害賠償を求める訴訟を起こしたというのだ。法廷で幽霊の存在が争点となった――そんな奇妙な事件に、筆者は俄然興味を抱いた。
二週間後、筆者は東武日光線に揺られていた。M氏との面会の約束を取り付け、現地調査に向かうためである。車窓から見える日光の山々は初夏の緑に包まれ、一見すると平穏そのものだった。
問題となった建物は、日光市内の住宅街の一角にあった。現在は空き家となっており、「テナント募集」の看板が寂しく風に揺れている。二階建ての建物は、外観から見る限り特に変わった様子はない。しかし、よく見ると一階の店舗部分の窓ガラスには薄っすらと埃が積もり、長期間使用されていないことが分かる。
M氏の紹介で会うことができた元ラーメン店主のK氏は、五十代半ばの物静かな男性だった。筆者との面談に応じた彼の表情には、今なお当時の体験への困惑が滲んでいた。
「最初は、単純に立地が良いと思ったんです」
K氏は当時を振り返りながら語った。日光市内という観光地に近く、住宅街の角地で人通りもそれなりにある。賃料も手頃だった。契約書にも特記事項は何もなく、二〇〇六年二月に賃貸借契約を結び、四月の開業に向けて改装工事を始めた。
「工事中は何も感じませんでした。ただ、近所の人たちの視線が気になる程度で」
四月中旬、K氏の「麺屋○○」は無事開業を迎えた。しかし、営業を始めて間もなく、常連客となった地元の年配女性から思いもよらない言葉を告げられる。
「この建物、前の人が亡くなってから変な噂があるのよ」
女性の話によれば、この建物では一九九九年から二〇〇三年まで、地主の長男が洋食店を経営していた。店は順調に営業を続けていたが、二〇〇三年の冬、その長男が交通事故で急逝。それ以来建物は空き家となり、近隣住民の間では「夜中に明かりが点いている」「人影を見た」といった噂が囁かれるようになったという。
K氏は当初、そうした話を単なる噂として聞き流していた。しかし、営業を続けるうち、自身でも説明のつかない体験をするようになる。
「夕方の仕込み中、カウンターの向こうに白い影のようなものがちらりと見えることがありました。最初は見間違いだと思っていたのですが」
人感センサー付きの照明が、誰もいない二階で突然点灯する。夜間の店内で、明らかに人の足音のような音が天井から聞こえる。冷蔵庫が勝手に開いている――そんな現象が続くようになった。
営業に支障をきたすほどこうした現象が続いたため、K氏は二〇〇七年、建物の所有者と仲介を行った不動産業者を相手取り、宇都宮地方裁判所に損害賠償請求訴訟を起こした。請求額は五〇二万円。その理由は「心理的瑕疵の告知義務違反」だった。
不動産取引における心理的瑕疵とは、物理的な欠陥はないものの、借り主や買い主が心理的に忌避する要因がある状態を指す。自殺や事件の現場となった物件がその典型例だが、K氏の代理人弁護士は「幽霊の噂も心理的瑕疵に該当する」と主張した。
被告側は「科学的根拠のない噂を告知する義務はない」として全面的に争った。法廷では、幽霊の存在そのものではなく、「そうした噂がある物件を貸す際の説明義務」が争点となった。
裁判では多くの証人が法廷に立った。K氏の体験を証言する常連客、以前から噂を知っていたという近隣住民、そして建物の管理を行っていた不動産業者の担当者。
特に印象深かったのは、前の店主だった長男の家族による証言だった。遺族は「息子は店に愛着を持っていた。もし何かがあるとすれば、それは悪意ではないはず」と語り、法廷は静まり返った。
一方、不動産業者側は「単なる思い込みと偶然の重なり」として、K氏の体験を否定する専門家の証言を用意した。建築士は「古い建物特有の音や光の現象」と説明し、心理学者は「暗示と思い込みによる錯覚」と分析した。
二〇〇八年春、宇都宮地裁は興味深い判決を下した。裁判所は「幽霊の存在そのものについては判断しない」としながらも、「近隣住民の間で広く知られていた噂について、借り主に説明がなかったことは事実」と認定。しかし、損害賠償については「噂と実害の因果関係が不明確」として、K氏の請求を棄却した。
K氏は控訴せず、判決は確定した。現在、問題となった建物は再び空き家となっている。
「結局、真相は分からないままでした」
取材の最後にK氏が漏らした言葉が、筆者の記憶に残っている。彼は現在、別の場所で小さな食堂を営んでいるという。
この事件について調べを進める中で、筆者は一つの興味深い事実に行き当たった。問題となった建物の登記簿を確認すると、一九九九年の建築時から二〇〇三年まで、確かに洋食店としての使用許可が出されており、二〇〇三年十二月に営業許可が取り消されている記録があった。また、近隣住民への聞き取り調査では、複数の人が「夜中に明かりを見た」という証言をしており、これは単純に否定できるものではなかった。
しかし同時に、心理学的な観点から見れば、「噂を知った後の体験」が心理的暗示によるものである可能性も否定できない。真実はどこにあるのか。それは読者諸氏の判断に委ねたい。
ただ一つ言えることは、現在もその建物は静かに佇んでおり、新しい借り主を待っているということである。もしかすると、次の入居者には全く何も起こらないかもしれないし、あるいは――。
取材を終えた帰路、筆者は再び件の建物の前を通った。夕暮れ時の薄暗がりの中、二階の窓に一瞬、明かりのようなものが見えたような気がしたが、それが街灯の反射だったのか、それとも別の何かだったのかは、今となっては確かめる術もない。
(了)
*本誌では読者の皆様からの都市伝説情報を募集しています。身近な不思議体験がありましたら、編集部までお寄せください。
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