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第265回 送り犬
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都市伝説レポート 第265回
「送り犬」
取材・文: 野々宮圭介
筆者の元に一通のメールが届いたのは、今年の三月のことだった。差出人は都内在住の会社員、仮にK氏としておく。件名には「深夜の路地で犬に追われました」とあった。
当初、筆者はよくある野犬の目撃談だろうと軽く考えていた。しかし、メールの本文を読み進めるうちに、ある単語に目が留まった。「送り犬」――民俗学の文献でしか見たことのない、古い妖怪伝承の名だった。
K氏の証言は具体的だった。終電を逃した深夜二時頃、渋谷区内の住宅街を歩いていると、背後から規則正しい足音が聞こえ始めたという。最初は人間の足音だと思ったが、やがてそれが四つ足の動物――犬のものだと気づいた。振り返ろうとしたが、なぜか強い違和感を覚え、そのまま前を向いて歩き続けた。足音は筆者の後ろを、一定の距離を保ちながらついてくる。五分ほど歩いただろうか。ふとした拍子に躓いて膝をついた瞬間、K氏は咄嗟に「ちょっと休んでいただけだ」と口にしたという。その言葉と同時に、背後の気配が消えた。恐る恐る振り返ると、薄暗い路地には何もいなかった。
奇妙なのは、K氏がその言葉を口にした理由だ。本人も「なぜあの言葉が出てきたのか分からない」と首を傾げていた。
筆者は早速、民俗学者の乙羽教授に連絡を取った。教授は「送り犬」について、山間部に古くから伝わる妖怪譚の一種だと説明してくれた。
「江戸時代の文献には、すでにこの伝承の記録が見られます」と教授は言う。
「特に中国地方や九州地方の山道で語られることが多かった。夜道を歩く旅人の背後に犬がついてくる。振り返れば災いが起こる。もし転んでしまったら『休んでいるだけだ』と言えば助かる、という内容です」
民俗学的には、夜の山道を一人で歩く危険性を子供に教えるための戒めだったとする説が有力だ。しかし教授は付け加えた。
「ただし、あまりにも広範囲で似たような話が伝わっている。単なる作り話にしては、不自然なほど共通点が多いのです」
筆者は教授から紹介された文献を当たった。柳田國男の『妖怪談義』にも送り犬に関する記述がある。明治期の岡山県では、実際に「送り犬に襲われた」という報告が複数記録されていた。いずれも深夜の山道での出来事で、証言者たちは口を揃えて「犬の姿は見えなかったが、足音だけは確かに聞こえた」と語っている。
K氏の証言が特異なのは、それが都市部で起きたという点だった。筆者は同様の体験談がないか、独自のネットワークを使って調査を開始した。
すると、驚くべきことに、ここ数年で似たような報告が全国で散発的に上がっていることが判明した。東京、大阪、名古屋――いずれも大都市の住宅街や路地裏での目撃談だ。共通しているのは、深夜帯であること、足音だけが聞こえること、そして「振り返ってはいけない」という直感的な恐怖を感じる点だった。
特に印象的だったのは、横浜市在住の大学生、M氏(22歳・女性)の証言だ。彼女はアルバイトの帰り道、午前一時頃に住宅街を歩いていたという。
「最初は気のせいかと思いました。でも、立ち止まると足音も止まる。歩き出すとまた聞こえてくる。それが十分くらい続いて……」
M氏は我慢できずに振り返ろうとしたが、その瞬間、脳裏に「見てはいけない」という強烈な警告が浮かんだという。彼女はそのまま早足で自宅まで駆け込んだ。翌日、その道を通ると、自分が歩いた場所に不自然なほど大きな犬の足跡が残っていたという。
筆者は現地を訪れたが、すでに雨で足跡は消えていた。しかし、M氏の自宅周辺で聞き込みをすると、意外な証言を得た。近所に住む老婆が「この辺りでは昔から、深夜に犬の遠吠えが聞こえる」と語ったのだ。老婆によれば、四十年前、このあたりは雑木林だった。戦時中には野犬が多く、住民たちは夜道を避けていたという。
筆者は私立探偵の灰原氏に協力を依頼し、過去の記録を洗い出した。すると興味深い事実が浮かび上がった。
目撃例が報告されている地域の多くは、かつて山林だった場所や、古い街道沿いだったという共通点があった。都市化によって風景は一変したが、土地の記憶は残っている――そう考えることもできる。
民俗学的には、送り犬は「境界を守る存在」とされてきた。人間の世界と異界の境目に現れ、迷い込んだ者を元の世界へ送り返す、あるいは連れ去る。その境界が、現代では「深夜の路地」という形で残っているのかもしれない。
乙羽教授は別の見解を示した。
「集合的無意識という概念があります。人類が共有する深層心理の記憶です。送り犬の伝承が広範囲に伝わっているのは、私たちの深層心理に刻まれた何か――夜の危険性や、見えないものへの本能的恐怖が形を変えて現れているのかもしれません」
一方で、より現実的な説明も可能だ。深夜の静寂の中では、自分の足音が反響して複数に聞こえることがある。心理的ストレスや疲労が幻聴を引き起こすこともある。しかし、それだけでは説明できない要素もある。なぜ複数の証言者が「休んでいるだけだ」という同じフレーズを口にするのか。なぜ振り返ってはいけないという直感が働くのか。
調査の過程で、筆者自身も深夜の路地を歩いてみた。渋谷区内の、K氏が体験した場所だ。時刻は午前二時、人通りはまばらで、街灯の光も心もとない。
十分ほど歩いただろうか。確かに背後で何かの気配を感じた。足音――だったかもしれない。しかし振り返ることはしなかった。理由は分からない。ただ、振り返るべきではないという直感があった。
やがて幹線道路に出ると、気配は消えた。筆者は革製のメモ帳を開き、「送り犬は都市の闇に適応した」と記した。
送り犬の伝承が真実なのか、それとも人間の心が生み出した幻なのか。筆者には断言できない。ただ一つ言えるのは、深夜の路地を一人で歩くとき、多くの人が説明のつかない恐怖を感じているという事実だ。
もしあなたが深夜の帰り道で、背後に犬の足音を聞いたなら――振り返らず、もし転んだら「休んでいるだけだ」と口にすることをお勧めする。それが古来から伝わる、送り犬への対処法なのだから。
(了)
*本誌では読者の皆様からの都市伝説情報を募集しています。身近な不思議体験がありましたら、編集部までお寄せください。
「送り犬」
取材・文: 野々宮圭介
筆者の元に一通のメールが届いたのは、今年の三月のことだった。差出人は都内在住の会社員、仮にK氏としておく。件名には「深夜の路地で犬に追われました」とあった。
当初、筆者はよくある野犬の目撃談だろうと軽く考えていた。しかし、メールの本文を読み進めるうちに、ある単語に目が留まった。「送り犬」――民俗学の文献でしか見たことのない、古い妖怪伝承の名だった。
K氏の証言は具体的だった。終電を逃した深夜二時頃、渋谷区内の住宅街を歩いていると、背後から規則正しい足音が聞こえ始めたという。最初は人間の足音だと思ったが、やがてそれが四つ足の動物――犬のものだと気づいた。振り返ろうとしたが、なぜか強い違和感を覚え、そのまま前を向いて歩き続けた。足音は筆者の後ろを、一定の距離を保ちながらついてくる。五分ほど歩いただろうか。ふとした拍子に躓いて膝をついた瞬間、K氏は咄嗟に「ちょっと休んでいただけだ」と口にしたという。その言葉と同時に、背後の気配が消えた。恐る恐る振り返ると、薄暗い路地には何もいなかった。
奇妙なのは、K氏がその言葉を口にした理由だ。本人も「なぜあの言葉が出てきたのか分からない」と首を傾げていた。
筆者は早速、民俗学者の乙羽教授に連絡を取った。教授は「送り犬」について、山間部に古くから伝わる妖怪譚の一種だと説明してくれた。
「江戸時代の文献には、すでにこの伝承の記録が見られます」と教授は言う。
「特に中国地方や九州地方の山道で語られることが多かった。夜道を歩く旅人の背後に犬がついてくる。振り返れば災いが起こる。もし転んでしまったら『休んでいるだけだ』と言えば助かる、という内容です」
民俗学的には、夜の山道を一人で歩く危険性を子供に教えるための戒めだったとする説が有力だ。しかし教授は付け加えた。
「ただし、あまりにも広範囲で似たような話が伝わっている。単なる作り話にしては、不自然なほど共通点が多いのです」
筆者は教授から紹介された文献を当たった。柳田國男の『妖怪談義』にも送り犬に関する記述がある。明治期の岡山県では、実際に「送り犬に襲われた」という報告が複数記録されていた。いずれも深夜の山道での出来事で、証言者たちは口を揃えて「犬の姿は見えなかったが、足音だけは確かに聞こえた」と語っている。
K氏の証言が特異なのは、それが都市部で起きたという点だった。筆者は同様の体験談がないか、独自のネットワークを使って調査を開始した。
すると、驚くべきことに、ここ数年で似たような報告が全国で散発的に上がっていることが判明した。東京、大阪、名古屋――いずれも大都市の住宅街や路地裏での目撃談だ。共通しているのは、深夜帯であること、足音だけが聞こえること、そして「振り返ってはいけない」という直感的な恐怖を感じる点だった。
特に印象的だったのは、横浜市在住の大学生、M氏(22歳・女性)の証言だ。彼女はアルバイトの帰り道、午前一時頃に住宅街を歩いていたという。
「最初は気のせいかと思いました。でも、立ち止まると足音も止まる。歩き出すとまた聞こえてくる。それが十分くらい続いて……」
M氏は我慢できずに振り返ろうとしたが、その瞬間、脳裏に「見てはいけない」という強烈な警告が浮かんだという。彼女はそのまま早足で自宅まで駆け込んだ。翌日、その道を通ると、自分が歩いた場所に不自然なほど大きな犬の足跡が残っていたという。
筆者は現地を訪れたが、すでに雨で足跡は消えていた。しかし、M氏の自宅周辺で聞き込みをすると、意外な証言を得た。近所に住む老婆が「この辺りでは昔から、深夜に犬の遠吠えが聞こえる」と語ったのだ。老婆によれば、四十年前、このあたりは雑木林だった。戦時中には野犬が多く、住民たちは夜道を避けていたという。
筆者は私立探偵の灰原氏に協力を依頼し、過去の記録を洗い出した。すると興味深い事実が浮かび上がった。
目撃例が報告されている地域の多くは、かつて山林だった場所や、古い街道沿いだったという共通点があった。都市化によって風景は一変したが、土地の記憶は残っている――そう考えることもできる。
民俗学的には、送り犬は「境界を守る存在」とされてきた。人間の世界と異界の境目に現れ、迷い込んだ者を元の世界へ送り返す、あるいは連れ去る。その境界が、現代では「深夜の路地」という形で残っているのかもしれない。
乙羽教授は別の見解を示した。
「集合的無意識という概念があります。人類が共有する深層心理の記憶です。送り犬の伝承が広範囲に伝わっているのは、私たちの深層心理に刻まれた何か――夜の危険性や、見えないものへの本能的恐怖が形を変えて現れているのかもしれません」
一方で、より現実的な説明も可能だ。深夜の静寂の中では、自分の足音が反響して複数に聞こえることがある。心理的ストレスや疲労が幻聴を引き起こすこともある。しかし、それだけでは説明できない要素もある。なぜ複数の証言者が「休んでいるだけだ」という同じフレーズを口にするのか。なぜ振り返ってはいけないという直感が働くのか。
調査の過程で、筆者自身も深夜の路地を歩いてみた。渋谷区内の、K氏が体験した場所だ。時刻は午前二時、人通りはまばらで、街灯の光も心もとない。
十分ほど歩いただろうか。確かに背後で何かの気配を感じた。足音――だったかもしれない。しかし振り返ることはしなかった。理由は分からない。ただ、振り返るべきではないという直感があった。
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(了)
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