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第99回 存在しない国から来た男
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都市伝説レポート 第99回
「存在しない国から来た男」
取材・文: 野々宮圭介
「彼の国籍が『タウレド』だったことに、入国審査官が気づいたのは、ごく日常的な業務の中でのことでした」
元入国管理局職員の佐々木誠氏(仮名・68歳)は、そう語り始めた。その表情は、30年以上前の出来事を語っているとは思えないほど緊張に満ちていた。
羽田空港。1980年代後半のある夏の日。当時の日本はバブル経済の絶頂期にあり、国際線ターミナルには連日、各国からのビジネスマンや観光客が押し寄せていた。審査官たちは、いつものように乗客のパスポートを確認し、入国スタンプを押していた。
「その男性は、ヨーロッパ系の40代と思われる、濃紺のスーツを着た普通のビジネスマンでした。しかし、彼のパスポートを見たとき、私は奇妙な違和感を覚えたのです」
佐々木氏の同僚だったという審査官が、男のパスポートを開いたとき、国籍欄には「Taured」と記されていたという。審査官が不審に思い、念のため地図で確認しようとしたところから、この奇妙な事件は始まったのだ。
私が入手した断片的な記録によれば、問題の男性は流暢な国際的なフランス語と英語を話し、日本語も片言ではあるが意思疎通が可能だったという。問題は、彼が提示した「タウレド」というパスポートの発行国が、地球上のどこにも存在しなかったことだった。
「男性は困惑した様子で、スペインとフランスの間にある小さな国だと説明しました。アンドラ公国の位置を指し示し、そこが自分の国だと主張したのです」と佐々木氏は証言する。
アンドラはピレネー山脈にある実在の小国だが、タウレドという国は歴史上も地理上も存在しない。
さらに不可解だったのは、男性が提示した書類がすべて完璧だったことだ。パスポートには複数の国々の出入国スタンプが押され、有効なビザも添付されていた。日本の商社との会議のために来日したという彼は、その会社の連絡先や、都内のホテルの予約確認書まで持っていた。
「当時の手続きとして、彼は入国管理局の一室で待機することになりました。翌日、事態を調査するために部屋に行ったところ……」
佐々木氏はここで言葉を詰まらせた。一瞬の沈黙の後、こう続けた。
「彼はいなくなっていました。窓は開いておらず、監視員も交代で廊下に立っていました。しかし、男は跡形もなく消えていたのです」
「タウレド事件」を裏付ける公式記録を探す作業は、私にとって前例のない難しさだった。入国管理局(現在の出入国在留管理庁)への情報公開請求は「該当する記録は存在しない」との回答で却下され、当時の新聞や雑誌にも関連する記事は見当たらなかった。
「公式には存在しない事件だということです」と語るのは、都内で外国人の法的支援を行うNPO代表の鈴木啓子氏(55歳)だ。
「しかし、入管の内部では、伝説として語り継がれている事案だと聞いています」
その後も複数の元入国管理職員、空港関係者、そして当時の警察関係者に接触を試みた結果、興味深い証言を得ることができた。
「確かにそういう案件があったという話は聞いています。ただ、公式の記録からは抹消されているようです」と、元警視庁の刑事は匿名を条件に語った。
「当時は冷戦の終わりかけの時期で、国際的な諜報活動も活発でした。何らかの政治的判断で、記録が意図的に消された可能性も否定できません」
私は粘り強い取材により、事件当時、男が所持していた物品の一部に関する情報を入手することができた。
「男は普通のビジネスバッグを持っていました」と証言するのは、当時空港で通訳として働いていたという山田洋子氏(仮名・65歳)だ。
「中にはタウレドの通貨らしき紙幣と硬貨、フランス語とタウレド語と思われる言語で書かれた会社の書類、そして複数の国々の通貨が入っていました」
特に注目すべきは、男が所持していたという名刺だ。山田氏によれば、それは立派な印刷の名刺で、タウレドの国内に本社を置く貿易会社の役員という肩書きと、フランス、日本、そして「タウレド」の連絡先が記されていたという。
「彼の持ち物は全て、まるでその国が実在するかのように整合性がありました。彼自身も、自分の国の存在を疑われることに対して、心底困惑していたようです」
「タウレド事件」はインターネット上でも一部で知られており、並行世界や異次元からの訪問者だったという説が有力視されている。アンドラ公国の位置に「タウレド」という国が存在する別の歴史線、あるいは別の次元から、誤って我々の世界に迷い込んだ可能性を指摘する声もある。
物理学と哲学を専門とする早坂大学の村上教授は、こうした可能性について慎重な見解を示す。
「量子物理学の多世界解釈によれば、理論上は無数の並行世界が存在する可能性があります。しかし、そうした世界間の『漏れ』が現実に起こり得るのかは、現代科学では答えが出ていません」
村上教授はさらに「記憶の錯誤」という可能性も指摘する。
「男性自身が何らかの精神的混乱や記憶障害を抱えていた可能性もあります。自分の国の名前や場所を誤認するという症状は珍しいものの、完全に否定はできません」
一方で、心理学者の田中氏は別の見解を示す。
「男性のあらゆる持ち物が『タウレド』という国の存在を裏付けていたのであれば、単なる妄想や錯誤では説明がつきません。彼が意図的に偽の国籍を作り出したのであれば、それは驚くべき緻密さと一貫性を持った偽装工作ということになります」
「タウレド事件」の真相を探る中で、私は別の仮説にも行き当たった。それは、この事件自体が何らかの理由で意図的に隠蔽されたというものだ。
「冷戦末期は国際的な諜報活動が活発だった時期です」と語るのは、国際政治に詳しいジャーナリストの黒田氏だ。
「何らかの機密工作の一環として、架空の国籍を使った工作員がいた可能性は否定できません。そして何かがうまくいかなくなったとき、その痕跡を消そうとした——そういうシナリオも考えられます」
また、情報セキュリティの専門家である木村氏は、別の観点から分析する。
「1980年代後半といえば、日本のバブル経済の絶頂期です。海外からの投資家や詐欺師も多く日本に訪れていました。『タウレド』の男は、何らかの金融詐欺を計画していた可能性もあります。そして、それが発覚しそうになって、共犯者の助けを借りて逃亡したのかもしれません」
どちらの説も、男が拘束されていた部屋から謎の失踪を遂げたことを十分に説明するものではない。
「窓もなく、監視員もいた部屋から、どうやって逃げ出せたのか——それが最大の謎です」と佐々木氏は首を傾げる。
「タウレド事件」は時折、同様の不思議な出来事として語られる「ジョン・ティター事件」(未来からの時間旅行者を名乗る人物の事件)や「モントーク・プロジェクト」(米国の時空実験に関する都市伝説)と共に、時空の歪みや並行世界に関する証拠として挙げられることがある。
私の取材中、思いがけない証言も得られた。2010年、成田空港で働いていたという元航空会社職員の遠藤氏(仮名・45歳)が、タウレドの事件に酷似した経験をしたというのだ。
「手荷物カウンターで、中年の紳士からチェックインの依頼を受けました。パスポートを確認したとき、見慣れない国名があったので、念のため上司に確認したんです。戻ってきたとき、その男性はいなくなっていました。荷物も、カウンターのシステム上の記録も消えていたのです」
遠藤氏は、その国名が「タウレド」だったかどうかは明確に記憶していないという。
「ただ、スペインとフランスの間の小さな国だと言っていたことは覚えています」
この証言が真実であれば、「タウレドの男」あるいは類似の現象が、数十年を経て再び現れた可能性がある。しかし、こちらも公式記録は存在せず、証明することは困難だ。
「タウレド事件」の真相に迫るべく、私はあらゆる手段を尽くした。だが、時間の経過と共に証言者は減り、記録も失われつつある。
現存する唯一の物証と言えるのが、元入国管理職員の一人が私的に保管していたという、事件当日の勤務記録のコピーだ。そこには簡潔に「国籍不明の男性による入国試み。調査のため収容」と記されているのみで、翌日の記録には何の言及もない。
最も不思議なのは、男が宿泊予定だったという都内の高級ホテルにも、彼の予約記録が一切残っていないことだ。彼が商談を予定していたという日本の商社にも、そのような取引先や面会予定は存在しなかった。
「まるで彼の存在自体が、この世界の記録から消え去ってしまったかのようです」と佐々木氏は静かに語った。
世界各地には、「境界が薄い場所」と呼ばれる不思議な地点があるという。時空の歪みや、並行世界との接点が生じやすい場所だという説もある。「タウレドの男」が出現した羽田空港は、そうした場所の一つなのだろうか。
民俗学者の乙羽教授は、日本の古い言い伝えにも着目する。「古来より日本には『異界との境目』という概念があります。海辺、峠、川、そして今で言う空港のような『往来の場所』は、異なる世界との接点になりやすいと考えられてきました」
乙羽教授はさらに興味深い指摘をする。「タウレドという名称は、スペイン中部に実在するトレド(Toledo)という古都に音が似ています。トレドはかつてキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の三つの文化が交わる場所でした。『境界の街』とも言えるでしょう」
この視点から見れば、「タウレドの男」の出現は、何らかの形で時空や世界線の境界が揺らいだ結果なのかもしれない。
「タウレド事件」から35年以上が経過した今日、この謎の男性の行方は依然として不明のままだ。彼は本当に別の世界から来たのか、それとも緻密に計画された詐欺や工作の一部だったのか、あるいは全く別の真実があるのか——決定的な答えはない。
「もし彼が本当に並行世界から誤って迷い込んだのなら、どうなったのでしょうか」と佐々木氏は問いかける。
「元の世界に戻れたのでしょうか、それとも今もどこかで、存在しない自分の国に帰る方法を探しているのでしょうか」
私は最後に、当時の事件を間接的に知るという匿名の情報筋からのメッセージを受け取った。そこには、「彼は帰るべき場所に帰った」とだけ記されていた。その意味するところは、想像に委ねるほかない。
「タウレドの男」の物語は、私たちの認識する現実の確かさに疑問を投げかける。地図上に存在しない国からやってきたという男性は、実在したのか。彼が消えたという事実は、何を意味するのか。
記録も証拠も乏しいこの都市伝説が、いまだに語り継がれているのは、それが私たちの世界観に根本的な問いを突きつけるからかもしれない。私たちの認識する「現実」とは何なのか。地図や記録に残されていない真実は、存在しないことになるのか。
「タウレドの男」の真実は、いまだ闇の中にある。しかし、この物語が私たちに教えてくれるのは、既知と未知の境界線は、思っているよりも曖昧で脆いということかもしれない。
取材を終えて編集部に戻る電車の中、私は窓に映る自分の姿と、その向こうに広がる東京の夜景を見つめていた。もしも、この世界とは別の歴史を歩んだ東京があるとしたら——その世界では、自分は今、何をしているのだろうか。
「タウレド」という国は、地図上には存在しない。しかし、それは必ずしも、その国が「どこにも」存在しないということを意味するわけではないのかもしれない。
(了)
*本誌では読者の皆様からの都市伝説情報を募集しています。身近な不思議体験がありましたら、編集部までお寄せください。
「存在しない国から来た男」
取材・文: 野々宮圭介
「彼の国籍が『タウレド』だったことに、入国審査官が気づいたのは、ごく日常的な業務の中でのことでした」
元入国管理局職員の佐々木誠氏(仮名・68歳)は、そう語り始めた。その表情は、30年以上前の出来事を語っているとは思えないほど緊張に満ちていた。
羽田空港。1980年代後半のある夏の日。当時の日本はバブル経済の絶頂期にあり、国際線ターミナルには連日、各国からのビジネスマンや観光客が押し寄せていた。審査官たちは、いつものように乗客のパスポートを確認し、入国スタンプを押していた。
「その男性は、ヨーロッパ系の40代と思われる、濃紺のスーツを着た普通のビジネスマンでした。しかし、彼のパスポートを見たとき、私は奇妙な違和感を覚えたのです」
佐々木氏の同僚だったという審査官が、男のパスポートを開いたとき、国籍欄には「Taured」と記されていたという。審査官が不審に思い、念のため地図で確認しようとしたところから、この奇妙な事件は始まったのだ。
私が入手した断片的な記録によれば、問題の男性は流暢な国際的なフランス語と英語を話し、日本語も片言ではあるが意思疎通が可能だったという。問題は、彼が提示した「タウレド」というパスポートの発行国が、地球上のどこにも存在しなかったことだった。
「男性は困惑した様子で、スペインとフランスの間にある小さな国だと説明しました。アンドラ公国の位置を指し示し、そこが自分の国だと主張したのです」と佐々木氏は証言する。
アンドラはピレネー山脈にある実在の小国だが、タウレドという国は歴史上も地理上も存在しない。
さらに不可解だったのは、男性が提示した書類がすべて完璧だったことだ。パスポートには複数の国々の出入国スタンプが押され、有効なビザも添付されていた。日本の商社との会議のために来日したという彼は、その会社の連絡先や、都内のホテルの予約確認書まで持っていた。
「当時の手続きとして、彼は入国管理局の一室で待機することになりました。翌日、事態を調査するために部屋に行ったところ……」
佐々木氏はここで言葉を詰まらせた。一瞬の沈黙の後、こう続けた。
「彼はいなくなっていました。窓は開いておらず、監視員も交代で廊下に立っていました。しかし、男は跡形もなく消えていたのです」
「タウレド事件」を裏付ける公式記録を探す作業は、私にとって前例のない難しさだった。入国管理局(現在の出入国在留管理庁)への情報公開請求は「該当する記録は存在しない」との回答で却下され、当時の新聞や雑誌にも関連する記事は見当たらなかった。
「公式には存在しない事件だということです」と語るのは、都内で外国人の法的支援を行うNPO代表の鈴木啓子氏(55歳)だ。
「しかし、入管の内部では、伝説として語り継がれている事案だと聞いています」
その後も複数の元入国管理職員、空港関係者、そして当時の警察関係者に接触を試みた結果、興味深い証言を得ることができた。
「確かにそういう案件があったという話は聞いています。ただ、公式の記録からは抹消されているようです」と、元警視庁の刑事は匿名を条件に語った。
「当時は冷戦の終わりかけの時期で、国際的な諜報活動も活発でした。何らかの政治的判断で、記録が意図的に消された可能性も否定できません」
私は粘り強い取材により、事件当時、男が所持していた物品の一部に関する情報を入手することができた。
「男は普通のビジネスバッグを持っていました」と証言するのは、当時空港で通訳として働いていたという山田洋子氏(仮名・65歳)だ。
「中にはタウレドの通貨らしき紙幣と硬貨、フランス語とタウレド語と思われる言語で書かれた会社の書類、そして複数の国々の通貨が入っていました」
特に注目すべきは、男が所持していたという名刺だ。山田氏によれば、それは立派な印刷の名刺で、タウレドの国内に本社を置く貿易会社の役員という肩書きと、フランス、日本、そして「タウレド」の連絡先が記されていたという。
「彼の持ち物は全て、まるでその国が実在するかのように整合性がありました。彼自身も、自分の国の存在を疑われることに対して、心底困惑していたようです」
「タウレド事件」はインターネット上でも一部で知られており、並行世界や異次元からの訪問者だったという説が有力視されている。アンドラ公国の位置に「タウレド」という国が存在する別の歴史線、あるいは別の次元から、誤って我々の世界に迷い込んだ可能性を指摘する声もある。
物理学と哲学を専門とする早坂大学の村上教授は、こうした可能性について慎重な見解を示す。
「量子物理学の多世界解釈によれば、理論上は無数の並行世界が存在する可能性があります。しかし、そうした世界間の『漏れ』が現実に起こり得るのかは、現代科学では答えが出ていません」
村上教授はさらに「記憶の錯誤」という可能性も指摘する。
「男性自身が何らかの精神的混乱や記憶障害を抱えていた可能性もあります。自分の国の名前や場所を誤認するという症状は珍しいものの、完全に否定はできません」
一方で、心理学者の田中氏は別の見解を示す。
「男性のあらゆる持ち物が『タウレド』という国の存在を裏付けていたのであれば、単なる妄想や錯誤では説明がつきません。彼が意図的に偽の国籍を作り出したのであれば、それは驚くべき緻密さと一貫性を持った偽装工作ということになります」
「タウレド事件」の真相を探る中で、私は別の仮説にも行き当たった。それは、この事件自体が何らかの理由で意図的に隠蔽されたというものだ。
「冷戦末期は国際的な諜報活動が活発だった時期です」と語るのは、国際政治に詳しいジャーナリストの黒田氏だ。
「何らかの機密工作の一環として、架空の国籍を使った工作員がいた可能性は否定できません。そして何かがうまくいかなくなったとき、その痕跡を消そうとした——そういうシナリオも考えられます」
また、情報セキュリティの専門家である木村氏は、別の観点から分析する。
「1980年代後半といえば、日本のバブル経済の絶頂期です。海外からの投資家や詐欺師も多く日本に訪れていました。『タウレド』の男は、何らかの金融詐欺を計画していた可能性もあります。そして、それが発覚しそうになって、共犯者の助けを借りて逃亡したのかもしれません」
どちらの説も、男が拘束されていた部屋から謎の失踪を遂げたことを十分に説明するものではない。
「窓もなく、監視員もいた部屋から、どうやって逃げ出せたのか——それが最大の謎です」と佐々木氏は首を傾げる。
「タウレド事件」は時折、同様の不思議な出来事として語られる「ジョン・ティター事件」(未来からの時間旅行者を名乗る人物の事件)や「モントーク・プロジェクト」(米国の時空実験に関する都市伝説)と共に、時空の歪みや並行世界に関する証拠として挙げられることがある。
私の取材中、思いがけない証言も得られた。2010年、成田空港で働いていたという元航空会社職員の遠藤氏(仮名・45歳)が、タウレドの事件に酷似した経験をしたというのだ。
「手荷物カウンターで、中年の紳士からチェックインの依頼を受けました。パスポートを確認したとき、見慣れない国名があったので、念のため上司に確認したんです。戻ってきたとき、その男性はいなくなっていました。荷物も、カウンターのシステム上の記録も消えていたのです」
遠藤氏は、その国名が「タウレド」だったかどうかは明確に記憶していないという。
「ただ、スペインとフランスの間の小さな国だと言っていたことは覚えています」
この証言が真実であれば、「タウレドの男」あるいは類似の現象が、数十年を経て再び現れた可能性がある。しかし、こちらも公式記録は存在せず、証明することは困難だ。
「タウレド事件」の真相に迫るべく、私はあらゆる手段を尽くした。だが、時間の経過と共に証言者は減り、記録も失われつつある。
現存する唯一の物証と言えるのが、元入国管理職員の一人が私的に保管していたという、事件当日の勤務記録のコピーだ。そこには簡潔に「国籍不明の男性による入国試み。調査のため収容」と記されているのみで、翌日の記録には何の言及もない。
最も不思議なのは、男が宿泊予定だったという都内の高級ホテルにも、彼の予約記録が一切残っていないことだ。彼が商談を予定していたという日本の商社にも、そのような取引先や面会予定は存在しなかった。
「まるで彼の存在自体が、この世界の記録から消え去ってしまったかのようです」と佐々木氏は静かに語った。
世界各地には、「境界が薄い場所」と呼ばれる不思議な地点があるという。時空の歪みや、並行世界との接点が生じやすい場所だという説もある。「タウレドの男」が出現した羽田空港は、そうした場所の一つなのだろうか。
民俗学者の乙羽教授は、日本の古い言い伝えにも着目する。「古来より日本には『異界との境目』という概念があります。海辺、峠、川、そして今で言う空港のような『往来の場所』は、異なる世界との接点になりやすいと考えられてきました」
乙羽教授はさらに興味深い指摘をする。「タウレドという名称は、スペイン中部に実在するトレド(Toledo)という古都に音が似ています。トレドはかつてキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の三つの文化が交わる場所でした。『境界の街』とも言えるでしょう」
この視点から見れば、「タウレドの男」の出現は、何らかの形で時空や世界線の境界が揺らいだ結果なのかもしれない。
「タウレド事件」から35年以上が経過した今日、この謎の男性の行方は依然として不明のままだ。彼は本当に別の世界から来たのか、それとも緻密に計画された詐欺や工作の一部だったのか、あるいは全く別の真実があるのか——決定的な答えはない。
「もし彼が本当に並行世界から誤って迷い込んだのなら、どうなったのでしょうか」と佐々木氏は問いかける。
「元の世界に戻れたのでしょうか、それとも今もどこかで、存在しない自分の国に帰る方法を探しているのでしょうか」
私は最後に、当時の事件を間接的に知るという匿名の情報筋からのメッセージを受け取った。そこには、「彼は帰るべき場所に帰った」とだけ記されていた。その意味するところは、想像に委ねるほかない。
「タウレドの男」の物語は、私たちの認識する現実の確かさに疑問を投げかける。地図上に存在しない国からやってきたという男性は、実在したのか。彼が消えたという事実は、何を意味するのか。
記録も証拠も乏しいこの都市伝説が、いまだに語り継がれているのは、それが私たちの世界観に根本的な問いを突きつけるからかもしれない。私たちの認識する「現実」とは何なのか。地図や記録に残されていない真実は、存在しないことになるのか。
「タウレドの男」の真実は、いまだ闇の中にある。しかし、この物語が私たちに教えてくれるのは、既知と未知の境界線は、思っているよりも曖昧で脆いということかもしれない。
取材を終えて編集部に戻る電車の中、私は窓に映る自分の姿と、その向こうに広がる東京の夜景を見つめていた。もしも、この世界とは別の歴史を歩んだ東京があるとしたら——その世界では、自分は今、何をしているのだろうか。
「タウレド」という国は、地図上には存在しない。しかし、それは必ずしも、その国が「どこにも」存在しないということを意味するわけではないのかもしれない。
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