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第186回 喋る櫛
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都市伝説レポート 第186回
「喋る櫛」
取材・文: 野々宮圭介
筆者がこの奇妙な話を耳にしたのは、品川区のとある古物商でのことだった。店主の松村氏(仮名・70代)が、何気ない会話の中で口にした一言が、すべての始まりであった。
「昔の遊郭で使われていた櫛なんてのは、普通の人には売れませんよ。夜中に声が聞こえるって言うじゃないですか」
松村氏は半ば冗談めかして語ったが、その表情には妙な真剣さが宿っていた。筆者は長年の経験から、この手の話には必ず「何か」があることを知っている。そこで改めて詳しい話を聞くことにした。
松村氏によれば、問題の櫛は戦前の吉原で使われていたとされるべっ甲製の品で、昭和初期の作とみられる。長さは約15センチ、幅は5センチほどの上品な細工が施された女性用の櫛だという。
「祖父の代から古物商をやっていますが、この手の品は扱いに困るんです。持ち主が次々と手放したがる。理由はいつも同じで、夜中に『しゃらん、しゃらん』という音がして、女の声が聞こえるというんです」
筆者は吉原の歴史を改めて調べてみた。江戸時代から続く遊郭は、明治維新後も公認の花街として栄え、戦前まで多くの遊女たちが働いていた。彼女たちの多くは貧しい家庭の出身で、年季奉公として売られてきた女性たちだった。
松村氏の紹介で、過去にその櫛を所有していた三人の女性に話を聞くことができた。
まず、世田谷区在住の田中絹子さん(仮名・65歳)は、母親から受け継いだ櫛について語った。
「最初は単なる古物だと思っていました。でも、夜中に枕元に置いておくと、確かに『しゃらん、しゃらん』という音が聞こえるんです。そして、女の人の声で何かを囁いている。『助けて』と言っているような、『許して』と言っているような...」
田中さんは三年間その櫛を所有していたが、ある晩、櫛で髪を梳いた瞬間に異変が起きたという。
「突然、自分の中に別の声が入ってきたんです。『なぜ私を忘れるの』『なぜ私を置いていくの』って。その声は昼間でも聞こえるようになって、もう恐ろしくて手放しました」
筆者は次に、90歳を超える古老、佐藤久三氏(仮名)を訪ねた。佐藤氏は戦前の吉原を知る数少ない生き証人の一人である。
「櫛ねえ...遊女さんたちにとって櫛は大切なものでした。髪は女の命って言いますからね。でも、年季が明けても故郷に帰れない子たちがいた。病気になったり、家族に縁を切られたり...そういう子たちの思いが、身の回りの品に宿ることはあったかもしれません」
佐藤氏は、遊郭の悲しい現実についても語った。表向きは華やかな花街だったが、その裏では多くの女性たちが自由を奪われ、過酷な境遇に置かれていた。中には絶望のあまり自ら命を絶つ者もいたという。
現在その櫛を所有しているのは、浅草で骨董品店を営む川村達也氏(仮名・50代)である。川村氏は古物商として30年のキャリアを持つが、この櫛については特別な思いがあるという。
「確かに夜中に音がします。でも、私には恐怖ではなく、哀しみのように感じられる。誰かが何かを訴えかけているような...だから、この櫛は売らないことにしました」
川村氏によれば、櫛は現在も店の奥の桐箱に大切に保管されている。時折、夜中に「しゃらん、しゃらん」という音とともに、女性の声が聞こえるが、それは呪いではなく、供養を求める声のように思えるという。
この話について、民俗学者の乙羽教授に意見を求めた。教授は興味深い指摘をした。
「遊郭文化の中で、櫛は女性のアイデンティティそのものでした。髪型によって格が決まり、櫛はその象徴だった。もし本当に超常現象があるとすれば、それは怨念というより、その時代に生きた女性たちの記憶の残響かもしれません」
また、音響学の専門家に相談したところ、古いべっ甲は温度変化によって微細な音を発する可能性があるという。ただし、それが人の声のように聞こえるかどうかは別問題だとのことだった。
筆者は実際にその櫛を手に取らせてもらったが、特別な現象を体験することはなかった。しかし、手にした瞬間に感じた妙な温かさと、どこか切ない気持ちは今でも忘れられない。
「喋る櫛」の正体が何なのか、それは誰にも分からない。科学的な説明もあれば、超常現象として捉える見方もある。ただ一つ確かなのは、この櫛に関わった人々が皆、何らかの「声」を聞いているということだ。
それは果たして、過去に生きた女性たちの魂の叫びなのか。それとも、現代を生きる私たちの心が作り出した幻聴なのか。
真相は永遠に闇の中にあるのかもしれない。だが、もしあなたが古い櫛を手に入れることがあったなら、夜中に耳を澄ませてみてはいかがだろうか。
そこに、何かの声が聞こえるかもしれない。
(了)
*本誌では読者の皆様からの都市伝説情報を募集しています。身近な不思議体験がありましたら、編集部までお寄せください。
「喋る櫛」
取材・文: 野々宮圭介
筆者がこの奇妙な話を耳にしたのは、品川区のとある古物商でのことだった。店主の松村氏(仮名・70代)が、何気ない会話の中で口にした一言が、すべての始まりであった。
「昔の遊郭で使われていた櫛なんてのは、普通の人には売れませんよ。夜中に声が聞こえるって言うじゃないですか」
松村氏は半ば冗談めかして語ったが、その表情には妙な真剣さが宿っていた。筆者は長年の経験から、この手の話には必ず「何か」があることを知っている。そこで改めて詳しい話を聞くことにした。
松村氏によれば、問題の櫛は戦前の吉原で使われていたとされるべっ甲製の品で、昭和初期の作とみられる。長さは約15センチ、幅は5センチほどの上品な細工が施された女性用の櫛だという。
「祖父の代から古物商をやっていますが、この手の品は扱いに困るんです。持ち主が次々と手放したがる。理由はいつも同じで、夜中に『しゃらん、しゃらん』という音がして、女の声が聞こえるというんです」
筆者は吉原の歴史を改めて調べてみた。江戸時代から続く遊郭は、明治維新後も公認の花街として栄え、戦前まで多くの遊女たちが働いていた。彼女たちの多くは貧しい家庭の出身で、年季奉公として売られてきた女性たちだった。
松村氏の紹介で、過去にその櫛を所有していた三人の女性に話を聞くことができた。
まず、世田谷区在住の田中絹子さん(仮名・65歳)は、母親から受け継いだ櫛について語った。
「最初は単なる古物だと思っていました。でも、夜中に枕元に置いておくと、確かに『しゃらん、しゃらん』という音が聞こえるんです。そして、女の人の声で何かを囁いている。『助けて』と言っているような、『許して』と言っているような...」
田中さんは三年間その櫛を所有していたが、ある晩、櫛で髪を梳いた瞬間に異変が起きたという。
「突然、自分の中に別の声が入ってきたんです。『なぜ私を忘れるの』『なぜ私を置いていくの』って。その声は昼間でも聞こえるようになって、もう恐ろしくて手放しました」
筆者は次に、90歳を超える古老、佐藤久三氏(仮名)を訪ねた。佐藤氏は戦前の吉原を知る数少ない生き証人の一人である。
「櫛ねえ...遊女さんたちにとって櫛は大切なものでした。髪は女の命って言いますからね。でも、年季が明けても故郷に帰れない子たちがいた。病気になったり、家族に縁を切られたり...そういう子たちの思いが、身の回りの品に宿ることはあったかもしれません」
佐藤氏は、遊郭の悲しい現実についても語った。表向きは華やかな花街だったが、その裏では多くの女性たちが自由を奪われ、過酷な境遇に置かれていた。中には絶望のあまり自ら命を絶つ者もいたという。
現在その櫛を所有しているのは、浅草で骨董品店を営む川村達也氏(仮名・50代)である。川村氏は古物商として30年のキャリアを持つが、この櫛については特別な思いがあるという。
「確かに夜中に音がします。でも、私には恐怖ではなく、哀しみのように感じられる。誰かが何かを訴えかけているような...だから、この櫛は売らないことにしました」
川村氏によれば、櫛は現在も店の奥の桐箱に大切に保管されている。時折、夜中に「しゃらん、しゃらん」という音とともに、女性の声が聞こえるが、それは呪いではなく、供養を求める声のように思えるという。
この話について、民俗学者の乙羽教授に意見を求めた。教授は興味深い指摘をした。
「遊郭文化の中で、櫛は女性のアイデンティティそのものでした。髪型によって格が決まり、櫛はその象徴だった。もし本当に超常現象があるとすれば、それは怨念というより、その時代に生きた女性たちの記憶の残響かもしれません」
また、音響学の専門家に相談したところ、古いべっ甲は温度変化によって微細な音を発する可能性があるという。ただし、それが人の声のように聞こえるかどうかは別問題だとのことだった。
筆者は実際にその櫛を手に取らせてもらったが、特別な現象を体験することはなかった。しかし、手にした瞬間に感じた妙な温かさと、どこか切ない気持ちは今でも忘れられない。
「喋る櫛」の正体が何なのか、それは誰にも分からない。科学的な説明もあれば、超常現象として捉える見方もある。ただ一つ確かなのは、この櫛に関わった人々が皆、何らかの「声」を聞いているということだ。
それは果たして、過去に生きた女性たちの魂の叫びなのか。それとも、現代を生きる私たちの心が作り出した幻聴なのか。
真相は永遠に闇の中にあるのかもしれない。だが、もしあなたが古い櫛を手に入れることがあったなら、夜中に耳を澄ませてみてはいかがだろうか。
そこに、何かの声が聞こえるかもしれない。
(了)
*本誌では読者の皆様からの都市伝説情報を募集しています。身近な不思議体験がありましたら、編集部までお寄せください。
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