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第189回 夜泣き香
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都市伝説レポート 第189回
「夜泣き香」
取材・文: 野々宮圭介
筆者のもとに一通の手紙が届いたのは、桜の散り始めた四月の午後のことだった。差出人は「高台寺参道の骨董商」とだけ記されており、住所も名前も明記されていない。便箋に達筆な文字で綴られていたのは、こんな内容だった。
「貴殿の記事を愛読しております。この度、興味深い品物を扱うことになりましたので、お時間のある時にお越しください。『夜泣き香』と呼ばれる線香でございます。ただし、あまり表立って宣伝できるものではありませんので、ご了承ください」
筆者は十年間の編集者生活で培った直感に従い、翌日には京都へ向かった。
高台寺の石段を上がり、観光客で賑わう参道を抜けると、ひっそりと佇む古道具屋があった。「古雅堂」という看板を掲げた店は、間口二間ほどの小さな建物で、格子戸の向こうに古い家具や陶器が並んでいるのが見える。
店主の原田氏(仮名・60代)は、筆者の訪問を待っていたかのように奥から現れた。小柄で物静かな印象の男性だったが、その眼光には何かを見抜くような鋭さがあった。
「お忙しい中をありがとうございます。実は、この『夜泣き香』というものは、うちの店でも年に一度、あるかないかの珍しい品でして」
原田氏は筆者を店の奥の座敷に案内し、古い桐の箱から一束の線香を取り出した。見た目は普通の線香と変わらないが、近づくと微かに甘い香りが漂ってくる。
「これは江戸時代から続く特殊な製法で作られた線香です。正確な作り方は分かりませんが、京都の古い寺院で使われていたものの系譜を引くと聞いています」
原田氏の説明によると、この線香は不眠に悩む人々の間で密かに重宝されてきたという。
「焚くと必ず子どもの夜泣きのような声が聞こえます。最初は驚かれるお客様も多いのですが、その後に訪れる眠りは格別だと皆さんおっしゃいます。二時間程度の短い睡眠でも、一晩ぐっすり眠ったような疲労回復効果があるそうです」
しかし、原田氏の表情は次第に厳しくなった。
「ただし、使い過ぎは禁物です。香りに慣れ親しんだ方の中には、時として異常な衝動に駆られる場合があります。それは言葉にするのも憚られるような...」
筆者が詳細を尋ねると、原田氏は少し躊躇した後、こう語った。
「昨年の秋のことです。この線香を愛用されていた四十代の女性のお客様が、突然『何かを産みたい』という衝動に駆られたと相談に来られました。その方は独身で、医学的にも妊娠している状況ではなかったのですが...」
原田氏の証言は続いた。
「その女性は、深夜に自宅で包丁を手に取り、自分の腹部を...。幸い、近所の方が異常な叫び声に気づいて通報し、一命は取り留めましたが、当然のことながら何も出てくることはありませんでした。病院では『一時的な精神錯乱』と診断されたそうです」
筆者は地元の病院や警察に問い合わせを試みたが、個人情報保護の観点から詳細な情報は得られなかった。ただし、昨年秋頃に「自傷行為による腹部裂傷」で搬送された女性患者がいたことは、関係者の証言から確認できた。
民俗学に詳しい乙羽教授に相談したところ、興味深い見解を得ることができた。
「江戸時代の文献には、寺院で使われていた特殊な薫香についての記述が散見されます。特に子どもの夜泣きや不眠を鎮める効果のある香として重宝されていたようですが、同時に『過度な使用は心神耗弱を招く』という警告も記されています」
また、高台寺の住職に確認したところ、「確かに昔から特殊な線香を使った祈祷があった」という証言は得られたものの、現在は使用していないとのことだった。
筆者は原田氏の許可を得て、実際に「夜泣き香」を一本だけ試させてもらった。
深夜2時頃、ホテルの部屋で線香に火をつけると、確かに甘い香りが部屋に満ちた。そして数分後、どこからともなく幼い子どもの泣き声のような音が聞こえてきた。最初は隣の部屋からの音かと思ったが、耳を澄ませると明らかに部屋の中から発せられている。
不思議なことに、この泣き声は不快感を与えるものではなく、むしろ子守唄のような安らぎをもたらした。気がつくと深い眠りに落ちており、翌朝は驚くほど頭がすっきりしていた。睡眠時間は三時間程度だったにもかかわらず、である。
「夜泣き香」が実際に存在することは確認できた。その効果についても、筆者自身が体験した範囲では原田氏の証言と一致している。
しかし、過度な使用による危険性については、一件の事例のみであり、因果関係を断定することはできない。それでも、人間の深層心理に働きかける何らかの成分が含まれている可能性は否定できないだろう。
現在、この線香は原田氏の店でのみ入手可能だが、氏は「購入者には必ず注意事項を説明し、月に一度以上の使用は控えるよう指導している」と語っている。
都市伝説の多くは、人々の心の奥底にある根源的な欲求や恐怖を反映したものだ。「夜泣き香」もまた、現代人の不眠や疲労という切実な問題と、母性本能という原始的な衝動を巧みに結び付けた、現代の都市伝説として語り継がれているのかもしれない。
(了)
*本誌では読者の皆様からの都市伝説情報を募集しています。身近な不思議体験がありましたら、編集部までお寄せください。
「夜泣き香」
取材・文: 野々宮圭介
筆者のもとに一通の手紙が届いたのは、桜の散り始めた四月の午後のことだった。差出人は「高台寺参道の骨董商」とだけ記されており、住所も名前も明記されていない。便箋に達筆な文字で綴られていたのは、こんな内容だった。
「貴殿の記事を愛読しております。この度、興味深い品物を扱うことになりましたので、お時間のある時にお越しください。『夜泣き香』と呼ばれる線香でございます。ただし、あまり表立って宣伝できるものではありませんので、ご了承ください」
筆者は十年間の編集者生活で培った直感に従い、翌日には京都へ向かった。
高台寺の石段を上がり、観光客で賑わう参道を抜けると、ひっそりと佇む古道具屋があった。「古雅堂」という看板を掲げた店は、間口二間ほどの小さな建物で、格子戸の向こうに古い家具や陶器が並んでいるのが見える。
店主の原田氏(仮名・60代)は、筆者の訪問を待っていたかのように奥から現れた。小柄で物静かな印象の男性だったが、その眼光には何かを見抜くような鋭さがあった。
「お忙しい中をありがとうございます。実は、この『夜泣き香』というものは、うちの店でも年に一度、あるかないかの珍しい品でして」
原田氏は筆者を店の奥の座敷に案内し、古い桐の箱から一束の線香を取り出した。見た目は普通の線香と変わらないが、近づくと微かに甘い香りが漂ってくる。
「これは江戸時代から続く特殊な製法で作られた線香です。正確な作り方は分かりませんが、京都の古い寺院で使われていたものの系譜を引くと聞いています」
原田氏の説明によると、この線香は不眠に悩む人々の間で密かに重宝されてきたという。
「焚くと必ず子どもの夜泣きのような声が聞こえます。最初は驚かれるお客様も多いのですが、その後に訪れる眠りは格別だと皆さんおっしゃいます。二時間程度の短い睡眠でも、一晩ぐっすり眠ったような疲労回復効果があるそうです」
しかし、原田氏の表情は次第に厳しくなった。
「ただし、使い過ぎは禁物です。香りに慣れ親しんだ方の中には、時として異常な衝動に駆られる場合があります。それは言葉にするのも憚られるような...」
筆者が詳細を尋ねると、原田氏は少し躊躇した後、こう語った。
「昨年の秋のことです。この線香を愛用されていた四十代の女性のお客様が、突然『何かを産みたい』という衝動に駆られたと相談に来られました。その方は独身で、医学的にも妊娠している状況ではなかったのですが...」
原田氏の証言は続いた。
「その女性は、深夜に自宅で包丁を手に取り、自分の腹部を...。幸い、近所の方が異常な叫び声に気づいて通報し、一命は取り留めましたが、当然のことながら何も出てくることはありませんでした。病院では『一時的な精神錯乱』と診断されたそうです」
筆者は地元の病院や警察に問い合わせを試みたが、個人情報保護の観点から詳細な情報は得られなかった。ただし、昨年秋頃に「自傷行為による腹部裂傷」で搬送された女性患者がいたことは、関係者の証言から確認できた。
民俗学に詳しい乙羽教授に相談したところ、興味深い見解を得ることができた。
「江戸時代の文献には、寺院で使われていた特殊な薫香についての記述が散見されます。特に子どもの夜泣きや不眠を鎮める効果のある香として重宝されていたようですが、同時に『過度な使用は心神耗弱を招く』という警告も記されています」
また、高台寺の住職に確認したところ、「確かに昔から特殊な線香を使った祈祷があった」という証言は得られたものの、現在は使用していないとのことだった。
筆者は原田氏の許可を得て、実際に「夜泣き香」を一本だけ試させてもらった。
深夜2時頃、ホテルの部屋で線香に火をつけると、確かに甘い香りが部屋に満ちた。そして数分後、どこからともなく幼い子どもの泣き声のような音が聞こえてきた。最初は隣の部屋からの音かと思ったが、耳を澄ませると明らかに部屋の中から発せられている。
不思議なことに、この泣き声は不快感を与えるものではなく、むしろ子守唄のような安らぎをもたらした。気がつくと深い眠りに落ちており、翌朝は驚くほど頭がすっきりしていた。睡眠時間は三時間程度だったにもかかわらず、である。
「夜泣き香」が実際に存在することは確認できた。その効果についても、筆者自身が体験した範囲では原田氏の証言と一致している。
しかし、過度な使用による危険性については、一件の事例のみであり、因果関係を断定することはできない。それでも、人間の深層心理に働きかける何らかの成分が含まれている可能性は否定できないだろう。
現在、この線香は原田氏の店でのみ入手可能だが、氏は「購入者には必ず注意事項を説明し、月に一度以上の使用は控えるよう指導している」と語っている。
都市伝説の多くは、人々の心の奥底にある根源的な欲求や恐怖を反映したものだ。「夜泣き香」もまた、現代人の不眠や疲労という切実な問題と、母性本能という原始的な衝動を巧みに結び付けた、現代の都市伝説として語り継がれているのかもしれない。
(了)
*本誌では読者の皆様からの都市伝説情報を募集しています。身近な不思議体験がありましたら、編集部までお寄せください。
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