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第207回 モスクワ精神研究所「神対話装置」
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都市伝説レポート 第207回
「モスクワ精神研究所「神対話装置」」
取材・文: 野々宮圭介
筆者がこの奇怪な実験について初めて耳にしたのは、民俗学者である乙羽教授からの一本の電話だった。教授は旧ソ連の機密文書について調査していたところ、興味深い実験記録の断片を発見したという。
「野々宮くん、これは君の専門分野かもしれない」
教授の声には普段の穏やかさと異なる、何かに憑かれたような興奮が含まれていた。
「モスクワにあった精神研究所で、神との対話を試みた実験があったらしいんだ。ただし、記録のほとんどが失われている」
筆者は翌日、教授の研究室を訪れた。古い書棚に囲まれた薄暗い部屋で、教授は複数のコピーされた文書を机上に広げていた。ロシア語で書かれたその文書は、確かに「モスクワ精神医学研究所」の印が押されている。
教授の説明によると、この研究所は1960年代から80年代にかけて、旧ソ連政府の後援で心理学・精神医学の極秘研究を行っていた機関だという。公式記録では「社会復帰のための精神治療研究」となっているが、実際には軍事目的の心理兵器開発や、人間の意識の限界を探る実験が行われていたとされる。
ソ連崩壊後、多くの機密文書が散逸し、現在では研究所の存在自体を疑問視する声もある。しかし、元研究員の証言や断片的な記録から、その実在性を支持する研究者も少なくない。
教授が入手した文書によると、1978年から1982年にかけて、同研究所では「Project Диалог」(プロジェクト・ディアローグ)と呼ばれる実験が行われていた。この実験の目的は、被験者を人工的に「神秘体験」状態に導き、絶対的権威との対話を実現することだったという。
実験装置は「神対話装置」(Бог Диалог Аппарат)と命名されており、被験者を完全に外界から遮断する感覚遮断室と、特殊な電磁波発生装置、そして幻覚作用のある薬物を組み合わせたシステムだった。被験者には事前にLSDの原型となる薬物が投与され、意識が変容した状態で装置内に収容される。
装置内では、被験者は完全な暗闇と静寂の中で、微細な電磁波による脳への刺激を受ける。この状態が2時間から8時間続けられた。
最も注目すべきは、実験に参加した被験者たちの証言の一致性である。文書によると、43名の被験者のうち31名が、実験中に「同一の存在」との接触を体験したと報告している。
被験者たちが口を揃えて語ったのは、自らを「観測者」(Наблюдатель)と名乗る存在との対話だった。この存在は被験者に対し、決まって次のような内容を伝えたという。
「お前たちは記録されている。お前たちの行動、思考、感情のすべてが記録されている。これは実験ではない。これは確認作業である」
さらに興味深いことに、被験者の多くが「観測者」の外見について類似した描写を残している。それは「無数の目を持つ球体」であり、「光でできているが影を持つ」存在だったという。被験者たちはこの存在を見た時、畏怖と同時に奇妙な安堵感を覚えたと証言している。
1982年、実験は突然中断された。公式な理由は「予算削減」とされているが、実際には実験に参加した被験者の一部に深刻な精神的後遺症が現れたためと推測される。
被験者の一人であったアレクサンドル・K(仮名)は、実験後に「常に見られている感覚」に悩まされ、最終的に自ら命を絶った。別の被験者は実験後、「観測者が現実世界にも現れる」と主張し、精神病院に収容されている。
さらに奇怪なことに、1985年頃から実験に関する記録が次々と消失し始めた。研究所の閉鎖時には、Project Диалогに関する文書の大部分が既に失われていたという。現在教授が所有する文書も、元研究員が密かに持ち出したものの複写であり、原本の所在は不明である。
筆者は教授の紹介で、元研究員の一人であるドミトリ・レベデフ氏(仮名)にコンタクトを取ることができた。現在は西欧で心理学者として活動している彼は、電話越しに慎重な口調で当時の状況を語った。
「あの実験は最初から異常でした。被験者たちの証言があまりにも一致しすぎていた。通常、薬物による幻覚は個人の体験や記憶に基づくもので、これほど詳細な共通点を持つことは考えられません」
レベデフ氏によると、実験チームの中でも「観測者」の正体について活発な議論が交わされたという。ある研究員は「集合無意識の具現化」と主張し、別の研究員は「未知の知的生命体との接触」の可能性を示唆した。
「しかし最も不気味だったのは、実験を重ねるうちに、我々研究員の間でも『観測されている』という感覚が広がったことです。誰かが常に我々の行動を記録し、監視しているような感覚でした」
この実験が事実だとすれば、「観測者」とは何だったのだろうか。考えられる仮説はいくつかある。
第一に、薬物と感覚遮断、電磁波刺激の組み合わせが、人間の脳に特定の幻覚パターンを生み出した可能性がある。脳科学の研究では、特定の刺激によって宗教的・神秘的体験を人工的に誘発できることが知られている。
第二に、実験そのものが被験者に与えた心理的暗示の効果である可能性も否定できない。「神との対話」という実験の性質上、被験者たちは無意識のうちに宗教的・神秘的な体験を期待し、それが幻覚の内容に影響を与えた可能性がある。
しかし、これらの合理的説明では説明しきれない謎も残る。なぜ被験者たちの証言がこれほど詳細に一致したのか。なぜ実験記録が組織的に消失したのか。そして、なぜ研究員たちまでもが「観測されている」感覚を覚えたのか。
興味深いことに、近年のインターネット文化においても「観測者」に類似した概念が散見される。監視社会に対する不安、SNSでの「見られている」感覚、AI による行動予測など、現代人の多くが何らかの形で「記録され、観測されている」状況に置かれている。
モスクワ精神研究所の実験が事実だとすれば、それは現代社会の先駆的な実験だったのかもしれない。あるいは、人間の意識の奥底に普遍的に存在する「観測されている」という感覚を、特殊な条件下で増幅させただけなのかもしれない。
筆者がこの調査を通じて感じたのは、真実と虚構の境界の曖昧さである。モスクワ精神研究所の存在、実験の詳細、そして「観測者」との対話──これらのすべてが事実なのか、それとも巧妙に構築された都市伝説なのか、現時点では断定することはできない。
しかし、この物語が持つ現代的な意味合いは否定できない。我々は常に誰かに観測され、記録されている時代に生きている。その「誰か」が政府なのか、企業なのか、それとも我々の理解を超えた存在なのか──それは読者の判断に委ねたい。
教授は筆者との最後の会話で、こう呟いた。
「真実かどうかは重要ではないのかもしれません。大切なのは、我々がこの物語を信じたくなる理由です」
筆者もまた、この調査の間中、常に「見られている」感覚を覚えていたことを、最後に付け加えておく。
(了)
*本誌では読者の皆様からの都市伝説情報を募集しています。身近な不思議体験がありましたら、編集部までお寄せください。
「モスクワ精神研究所「神対話装置」」
取材・文: 野々宮圭介
筆者がこの奇怪な実験について初めて耳にしたのは、民俗学者である乙羽教授からの一本の電話だった。教授は旧ソ連の機密文書について調査していたところ、興味深い実験記録の断片を発見したという。
「野々宮くん、これは君の専門分野かもしれない」
教授の声には普段の穏やかさと異なる、何かに憑かれたような興奮が含まれていた。
「モスクワにあった精神研究所で、神との対話を試みた実験があったらしいんだ。ただし、記録のほとんどが失われている」
筆者は翌日、教授の研究室を訪れた。古い書棚に囲まれた薄暗い部屋で、教授は複数のコピーされた文書を机上に広げていた。ロシア語で書かれたその文書は、確かに「モスクワ精神医学研究所」の印が押されている。
教授の説明によると、この研究所は1960年代から80年代にかけて、旧ソ連政府の後援で心理学・精神医学の極秘研究を行っていた機関だという。公式記録では「社会復帰のための精神治療研究」となっているが、実際には軍事目的の心理兵器開発や、人間の意識の限界を探る実験が行われていたとされる。
ソ連崩壊後、多くの機密文書が散逸し、現在では研究所の存在自体を疑問視する声もある。しかし、元研究員の証言や断片的な記録から、その実在性を支持する研究者も少なくない。
教授が入手した文書によると、1978年から1982年にかけて、同研究所では「Project Диалог」(プロジェクト・ディアローグ)と呼ばれる実験が行われていた。この実験の目的は、被験者を人工的に「神秘体験」状態に導き、絶対的権威との対話を実現することだったという。
実験装置は「神対話装置」(Бог Диалог Аппарат)と命名されており、被験者を完全に外界から遮断する感覚遮断室と、特殊な電磁波発生装置、そして幻覚作用のある薬物を組み合わせたシステムだった。被験者には事前にLSDの原型となる薬物が投与され、意識が変容した状態で装置内に収容される。
装置内では、被験者は完全な暗闇と静寂の中で、微細な電磁波による脳への刺激を受ける。この状態が2時間から8時間続けられた。
最も注目すべきは、実験に参加した被験者たちの証言の一致性である。文書によると、43名の被験者のうち31名が、実験中に「同一の存在」との接触を体験したと報告している。
被験者たちが口を揃えて語ったのは、自らを「観測者」(Наблюдатель)と名乗る存在との対話だった。この存在は被験者に対し、決まって次のような内容を伝えたという。
「お前たちは記録されている。お前たちの行動、思考、感情のすべてが記録されている。これは実験ではない。これは確認作業である」
さらに興味深いことに、被験者の多くが「観測者」の外見について類似した描写を残している。それは「無数の目を持つ球体」であり、「光でできているが影を持つ」存在だったという。被験者たちはこの存在を見た時、畏怖と同時に奇妙な安堵感を覚えたと証言している。
1982年、実験は突然中断された。公式な理由は「予算削減」とされているが、実際には実験に参加した被験者の一部に深刻な精神的後遺症が現れたためと推測される。
被験者の一人であったアレクサンドル・K(仮名)は、実験後に「常に見られている感覚」に悩まされ、最終的に自ら命を絶った。別の被験者は実験後、「観測者が現実世界にも現れる」と主張し、精神病院に収容されている。
さらに奇怪なことに、1985年頃から実験に関する記録が次々と消失し始めた。研究所の閉鎖時には、Project Диалогに関する文書の大部分が既に失われていたという。現在教授が所有する文書も、元研究員が密かに持ち出したものの複写であり、原本の所在は不明である。
筆者は教授の紹介で、元研究員の一人であるドミトリ・レベデフ氏(仮名)にコンタクトを取ることができた。現在は西欧で心理学者として活動している彼は、電話越しに慎重な口調で当時の状況を語った。
「あの実験は最初から異常でした。被験者たちの証言があまりにも一致しすぎていた。通常、薬物による幻覚は個人の体験や記憶に基づくもので、これほど詳細な共通点を持つことは考えられません」
レベデフ氏によると、実験チームの中でも「観測者」の正体について活発な議論が交わされたという。ある研究員は「集合無意識の具現化」と主張し、別の研究員は「未知の知的生命体との接触」の可能性を示唆した。
「しかし最も不気味だったのは、実験を重ねるうちに、我々研究員の間でも『観測されている』という感覚が広がったことです。誰かが常に我々の行動を記録し、監視しているような感覚でした」
この実験が事実だとすれば、「観測者」とは何だったのだろうか。考えられる仮説はいくつかある。
第一に、薬物と感覚遮断、電磁波刺激の組み合わせが、人間の脳に特定の幻覚パターンを生み出した可能性がある。脳科学の研究では、特定の刺激によって宗教的・神秘的体験を人工的に誘発できることが知られている。
第二に、実験そのものが被験者に与えた心理的暗示の効果である可能性も否定できない。「神との対話」という実験の性質上、被験者たちは無意識のうちに宗教的・神秘的な体験を期待し、それが幻覚の内容に影響を与えた可能性がある。
しかし、これらの合理的説明では説明しきれない謎も残る。なぜ被験者たちの証言がこれほど詳細に一致したのか。なぜ実験記録が組織的に消失したのか。そして、なぜ研究員たちまでもが「観測されている」感覚を覚えたのか。
興味深いことに、近年のインターネット文化においても「観測者」に類似した概念が散見される。監視社会に対する不安、SNSでの「見られている」感覚、AI による行動予測など、現代人の多くが何らかの形で「記録され、観測されている」状況に置かれている。
モスクワ精神研究所の実験が事実だとすれば、それは現代社会の先駆的な実験だったのかもしれない。あるいは、人間の意識の奥底に普遍的に存在する「観測されている」という感覚を、特殊な条件下で増幅させただけなのかもしれない。
筆者がこの調査を通じて感じたのは、真実と虚構の境界の曖昧さである。モスクワ精神研究所の存在、実験の詳細、そして「観測者」との対話──これらのすべてが事実なのか、それとも巧妙に構築された都市伝説なのか、現時点では断定することはできない。
しかし、この物語が持つ現代的な意味合いは否定できない。我々は常に誰かに観測され、記録されている時代に生きている。その「誰か」が政府なのか、企業なのか、それとも我々の理解を超えた存在なのか──それは読者の判断に委ねたい。
教授は筆者との最後の会話で、こう呟いた。
「真実かどうかは重要ではないのかもしれません。大切なのは、我々がこの物語を信じたくなる理由です」
筆者もまた、この調査の間中、常に「見られている」感覚を覚えていたことを、最後に付け加えておく。
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