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二章 金貨の女王は冷たく笑む
麗しき九尾狐
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四日目の夜、閉店時間三十分前。ラストオーダーを終え、カウンターで一息ついていた時、ドアベルの音と共に美しい声が聞こえてきた。
「なるほど、この娘か」
絹みたいに滑らかな、でもどこか威圧感のある声だった。背筋にわずかに寒気が走る。洗い物をしていた蓮司くんも、帳簿を書いていた壮華くんも、手を止めて早歩きでカウンターを出てきた。五人ほどいたお客さんも、ドアへ向けて一斉に頭を下げる。
「え、あの……」
「妾がわからぬか。なるほど確かに、そなたは人の子よの」
同じ声がしたのと同時に、ドアの前あたりの空間が淡く輝いた。青白い光がどこからか湧いてきて、人型に固まる。
びっくりするほど綺麗な、着物の女の人が現れた。切れ長の目、高い鼻筋、鮮血のように赤い唇。手に持っている透かし彫りの何かは、扇だろうか。一糸の乱れもない長い銀髪の上には、鈍く艶めく純白の獣耳が一対、つんと誇らしく尖っている。薄紫色が基調の着物には、ところどころに黄色と赤の差し色が入っていて、質感は重々しいのに霞のような軽やかさも感じる。見ただけで、地面にひれ伏したくなる威厳だった。
そして背後には、耳と同じく純白の尾が九本、ふさふさと立派な被毛をたくわえている。触ったらとても気持ちよさそうだ。でも、「高貴」の概念がそのまま人型になったようなこの女性に、尻尾を触らせてくれなんて言える誰かが、この世にいるとは思えなかった。
店内を圧する存在感に、指先と足先が震えだす。何もできずに固まっていると、女性は金色の瞳をぎろりと動かし、私を見た。
「そなた、名をなんという」
少しにらまれただけで、身体がすくみ上がる。蛇ににらまれた蛙……いや、狐ににらまれた小動物ってこんな感じなんだろうか。
怖い、けど訊かれて黙っているのはそれ以上に恐ろしい。震える声で、名乗る。
「ふじもり、なのはです。あの……」
訊いてしまって、失礼にあたらないか迷う。けど、一度言葉を発したせいか、少し気が大きくなった。
「番紅花……さま、ですか」
番紅花、つまり蓮司くんと壮華くんのお母様は、このあたりの妖怪たちを束ねる九尾の狐だと聞いている。もしこの方だったら、挨拶は必要なんじゃないかと思う。きっと。
女性は扇を開いて、口を隠しながらほっほっと笑った。透明感がある上品な声なのに、聞いているとやっぱり、背筋の辺りがぞわりと冷える。
「娘、どこで妾の名を知った」
「息子さんたちから……いつも大変、よくしていただいています」
「母上、ご機嫌麗しゅう」
蓮司くんのかしこまった口調を、初めて聞く。扇で口を隠したまま、番紅花さんは、また小さく笑い声をあげた。
「蓮司よ。真名でないとはいえ、あやかしの名をみだりに人の子に明かすでない」
蓮司くんと壮華くんが、下げたままの頭をぴくりと震わせた。
「……申し訳ございません」
「母上、この者に名を伝えたのは僕です。罰を下されるなら僕を」
「構わぬ、ちょっとした戯れよ。それより今宵は、おぬしらに大事な話がある」
番紅花さんの声色が低くなった。蓮司くんと壮華くんは頭を下げたままだ。
「承知いたしました……人払いいたします」
壮華くんが上体を起こし、足を踏み出そうとすると、番紅花さんの扇が差し出されて行く手を阻む。壮華くんが、目を見開いて固まった。
「不要じゃ。……二日前から、ここで珍味が供されておると小耳にはさんでのう」
店内を包む重苦しい空気が、一気に消し飛んだ。店のあちこちから、安堵の溜息が聞こえてくる。
「まったく、薄情ではないか! 蓮司よ、壮華よ! そなたたち、また独り占めしたのか!」
「ひ、独り占めといいますか、作っているのは僕ですので……」
「言い訳は聞かぬ! 母にも知らせずそのような美味を……下男下女どもが噂する佳肴を、妾だけが知らぬ寂しさよ! さあ、早く供せ!」
緊張感が和らいだのはいいけど、油揚げとネギのカリカリ焼きはもう完売してる。ラストオーダーの時間が過ぎてるのはともかく、品切れした料理はいまさら出せない。怖いけど仕方ない。
「すみません番紅花様。ご希望のお料理、本日分はもう――」
言いかけた私の声を、壮華くんがすごい勢いで遮った。
「少々お待ちください! お作りいたしますので!!」
壮華くんは、私に向けて激しくまばたきをした。間を持たせてくれ、って言いたいんだろうか。
私が声をかける前に、壮華くんはすごい勢いで自分のショルダーバッグを掴んだ。デニムのバッグを肩に掛けると、そのまま、白い背中は暗い外へ飛び出していく。乾いたドアベルの音だけが、奇妙に後を引いて響いていた。
「なるほど、この娘か」
絹みたいに滑らかな、でもどこか威圧感のある声だった。背筋にわずかに寒気が走る。洗い物をしていた蓮司くんも、帳簿を書いていた壮華くんも、手を止めて早歩きでカウンターを出てきた。五人ほどいたお客さんも、ドアへ向けて一斉に頭を下げる。
「え、あの……」
「妾がわからぬか。なるほど確かに、そなたは人の子よの」
同じ声がしたのと同時に、ドアの前あたりの空間が淡く輝いた。青白い光がどこからか湧いてきて、人型に固まる。
びっくりするほど綺麗な、着物の女の人が現れた。切れ長の目、高い鼻筋、鮮血のように赤い唇。手に持っている透かし彫りの何かは、扇だろうか。一糸の乱れもない長い銀髪の上には、鈍く艶めく純白の獣耳が一対、つんと誇らしく尖っている。薄紫色が基調の着物には、ところどころに黄色と赤の差し色が入っていて、質感は重々しいのに霞のような軽やかさも感じる。見ただけで、地面にひれ伏したくなる威厳だった。
そして背後には、耳と同じく純白の尾が九本、ふさふさと立派な被毛をたくわえている。触ったらとても気持ちよさそうだ。でも、「高貴」の概念がそのまま人型になったようなこの女性に、尻尾を触らせてくれなんて言える誰かが、この世にいるとは思えなかった。
店内を圧する存在感に、指先と足先が震えだす。何もできずに固まっていると、女性は金色の瞳をぎろりと動かし、私を見た。
「そなた、名をなんという」
少しにらまれただけで、身体がすくみ上がる。蛇ににらまれた蛙……いや、狐ににらまれた小動物ってこんな感じなんだろうか。
怖い、けど訊かれて黙っているのはそれ以上に恐ろしい。震える声で、名乗る。
「ふじもり、なのはです。あの……」
訊いてしまって、失礼にあたらないか迷う。けど、一度言葉を発したせいか、少し気が大きくなった。
「番紅花……さま、ですか」
番紅花、つまり蓮司くんと壮華くんのお母様は、このあたりの妖怪たちを束ねる九尾の狐だと聞いている。もしこの方だったら、挨拶は必要なんじゃないかと思う。きっと。
女性は扇を開いて、口を隠しながらほっほっと笑った。透明感がある上品な声なのに、聞いているとやっぱり、背筋の辺りがぞわりと冷える。
「娘、どこで妾の名を知った」
「息子さんたちから……いつも大変、よくしていただいています」
「母上、ご機嫌麗しゅう」
蓮司くんのかしこまった口調を、初めて聞く。扇で口を隠したまま、番紅花さんは、また小さく笑い声をあげた。
「蓮司よ。真名でないとはいえ、あやかしの名をみだりに人の子に明かすでない」
蓮司くんと壮華くんが、下げたままの頭をぴくりと震わせた。
「……申し訳ございません」
「母上、この者に名を伝えたのは僕です。罰を下されるなら僕を」
「構わぬ、ちょっとした戯れよ。それより今宵は、おぬしらに大事な話がある」
番紅花さんの声色が低くなった。蓮司くんと壮華くんは頭を下げたままだ。
「承知いたしました……人払いいたします」
壮華くんが上体を起こし、足を踏み出そうとすると、番紅花さんの扇が差し出されて行く手を阻む。壮華くんが、目を見開いて固まった。
「不要じゃ。……二日前から、ここで珍味が供されておると小耳にはさんでのう」
店内を包む重苦しい空気が、一気に消し飛んだ。店のあちこちから、安堵の溜息が聞こえてくる。
「まったく、薄情ではないか! 蓮司よ、壮華よ! そなたたち、また独り占めしたのか!」
「ひ、独り占めといいますか、作っているのは僕ですので……」
「言い訳は聞かぬ! 母にも知らせずそのような美味を……下男下女どもが噂する佳肴を、妾だけが知らぬ寂しさよ! さあ、早く供せ!」
緊張感が和らいだのはいいけど、油揚げとネギのカリカリ焼きはもう完売してる。ラストオーダーの時間が過ぎてるのはともかく、品切れした料理はいまさら出せない。怖いけど仕方ない。
「すみません番紅花様。ご希望のお料理、本日分はもう――」
言いかけた私の声を、壮華くんがすごい勢いで遮った。
「少々お待ちください! お作りいたしますので!!」
壮華くんは、私に向けて激しくまばたきをした。間を持たせてくれ、って言いたいんだろうか。
私が声をかける前に、壮華くんはすごい勢いで自分のショルダーバッグを掴んだ。デニムのバッグを肩に掛けると、そのまま、白い背中は暗い外へ飛び出していく。乾いたドアベルの音だけが、奇妙に後を引いて響いていた。
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