朝顔ノ君

夏鬼

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朝顔ノ君

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 ーカラン、コン
  カラン、コン

下駄の音が歩く度に軽やかに響いているのを一体どれ程の人が耳にしていたと言うのだろうか。

 ーザア、ザザア
  ザア、ザザア

この降りしきる大雨の中で一体どれ程の人が彼女の独特の魅力に魅了されていたというのだろうか。
 ふんわりとしたショートボブの黒髪にぱっちりとした二つの黒真珠。幼さの拭いきれていない童顔な顔立ちがより一層あどけなく感じさせる。今のこの時期じゃ珍しく思えるような紫や淡いピンクの朝顔が所々に繊細に描かれた白がベースの浴衣に身を包み、赤い鼻緒の下駄を履いている。そして、赤い番傘をクルクルと回しながらスイスイと人混みの中を進んでいくその彼女の周りだけは何処か別の世界のようにも映しているこの濁った目は遂にイカレたのかと嘲笑する。だというのに彼女の姿を追ってしまうのは何処かが焼き切れているからなんだろう。そうして俺は何故だかそんな彼女に惚れ薬でも嗅がされたかのように惹かれるまま吸い込まれるようにふらふらと後を追っていく。よくよく考えれば犯罪にも近しいこんな愚かな行為を取ったのかは、俺自身でも解らなかった。
 彼女は下駄であるというのにも関わらず器用にステップを踏みながら何の歌かもわからない鼻歌をテンポよく歌いながら人通りの少ない、かつては活気のあったであろう商店街の中を我が物顔で進み続ける。俺はこの場所をよく知っていた。幼い頃によく来ていたはずなのに成長するにつれてだんだんその頻度は減って、いつしかここには来なくなっていたんだ。朧げな記憶の中にあるその場所と違い、ベージュの塗装は剥がれかけ、雨を凌ぐ為のドームは色褪せてしまい曇ったままのようになってしまっている。それでも尚彼女は番傘をクルクルと回している。この降りしきる雨の音を聞いているのか、それがとても嬉しくて仕方がないのだと言わんばかりの隠しきれていない微笑みすらも愛らしく思える。しかし、そんな表情とは真逆の、彼女自身のその周りに他の誰かを寄せ付けてなるものかと言うように凛々しい雰囲気をその小柄な身に帯び、堂々と進んでいく。
 暫く行くと彼女は、一つの花壇の前でしゃがみ込んで、眺め始めた。ここら辺は確か、季節によって違う花が植えられたりすることでも有名だったはずなのに、最近では手を入れないのか、色々な植物が好き放題に伸びてきている。彼女の今しゃがんでいるその場所には紫陽花の可愛らしい小さな花たちが咲き誇っている。そこをただじぃっと眺めている。青や濃い紫に赤みのかかったものまで様々だ。遠目からではあるけれど、それでも十分にその色彩を楽しむことができる。しかし、彼女の視線は楽しむ、というよりもまじまじと何かを探すように忙しなく動かされている。その視線がはた、と赤色の紫陽花を捉える。するとどういう事か彼女の目からほろり、ほろりと涙の小さな川が肌を流れる。その姿に俺は不覚にもドキリと胸が鳴った。溶けてしまいそうな程にその黒真珠を涙の層で濡らし、その口元には先までの喜ばしい無邪気な笑みとはまた違う幸せそうな、今の俺じゃあ形容し難い幸福そうな微笑みが浮かべられている。その様を表現するとなれば、桜の淡く儚い花弁があらゆる事を祝福するように舞い散っているような、そんな感じがした。彼女は涙もそのままに愛おしそうにその赤く小さな花弁達を散らしてしまわぬようにそっと撫で、まるでその側に語りかけるように静かな声で呟いた。
「嗚呼ーー。父様、母様。兄様方に姉様方も。此方におられていたのですね。本当、本当にご無事でよかった…! もう、今度は私一人だけを残しておいて行かないでくださいね?」
 神品と思えるほど綺麗なその朝顔の浴衣へと袖を通していた少女は失くしたものを見つけることができたように心底嬉しそうに笑むと泣きながら消えていった。それに慌てた青年は少女の立っていたその場所へと一目散に駆け寄ってみればそこにあったのは、閉じられることの無かった赤い番傘と赤い紫陽花。そして、その根本に寄り添うようにしてそっと身を寄せたまま息絶えている一匹の小さな雨蛙だけだった。
 心なしか、それとも俺の目の錯覚か果ては幻なのか、先程までいたあの彼女のように微笑みながら泣いているようにも見えた。

 ーーあぁ、今日はなんだか
   少しだけ肌寒いなぁ。

目頭がじわりと熱を帯びたような気がした。

 ー花言葉ー
朝顔/儚い恋、固い絆、愛情
赤い紫陽花/元気な女性、強い愛情
桜/精神の美、優美な女性
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