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神婚 編
神婚編 第2話 第2幕「夢見唄」
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1
背後で衣ずれの音が近づいてきた。
我はその気配に現実へと引き戻されてはたと眼を開き、明かり差す戸口の方を振り返った。
「実亮(じつりょう)よ。」
いつも変わらぬ、慈愛に満ちた暖かい声。
その主は仗杪和尚(じょうびょうわじょう)だった。
「実亮よ、話がある。ちょいと一緒に講堂まで来なされ。」
「はい。和尚。」
講堂に着くと、我と和尚は向かい合って座した。
我には和尚のいつにも増した真剣な面差しが非常に気に掛かっていた。
和尚は静かにおっしゃった。
「実亮、尊公はまだ若い。その上、才気も同世代の者よりも抜きん出て優れている。世にでておれば間違いなくその名を馳せるだけの可能性を秘めているのではないかとわしは思うのじゃが。」
「和尚?」
和尚らしくない語りに、我は訝しげに首を傾げた。
「このままわしの身勝手でこの御山に閉じ込め、その才気を朽ち果てさせておくのは忍びない。実亮、還俗し京に上る気はないか?もし尊公にその気があるのなら都の良人を紹介してやってもよいのじゃが。」
暫し我は和尚の意表を突く言葉に絶句していた。そして昏迷とした意識を必死と立て直しながら姿勢を正し、和尚に言(こと)した。
「わけあって孤児となってしまった私を和尚は今日の日まで大切にお育て下さいました。ですから私めは今まで実の親のように和尚をお慕い申してまいりました。私は和尚に対する恩義を一日たりとて忘れたことはありませぬ。ですがもし、私が和尚に何か不愉快なことをしており、そのために御山から出てゆけと申されておるのならば私はどのような罰も受ける覚悟はあります。ですが私は、和尚のもとに居とうございます。私の意思で御仏の教えにこの身を捧げたのでございます。」
和尚は我の言葉を聞くと、うっすらと涙を浮かべられ、済まなそうに瞳を伏せられた。
「世を知らぬまま大事な時をこの山に埋もれて過ごしてゆく実亮をみているとわしは不憫でならぬのだ。もしあの時、お前を拾ったのがわしではなく、何処ぞの良人に拾われておったなら、それは世の荒波にぶつかることもあろうが、今頃は妻子を持ち、家族とともに幸せな生活を楽しんでいたのではないかと思うと心中の傷が疼いてならぬのじゃ。」
「和尚、どうかそのような自分を貶めるようなことをおっしゃらないで下さい。もし、あのときに和尚が私を救って下さらなかったのなら、幼く、世の中での生き方を知らぬ私は野垂れ死にしておりましたところでしょう。和尚との此処での暮らしは、それは厳しいこともありましたが、十分に楽しく、良き友にも恵まれ幸福に満ちたものでありました。」
「わしもな、ある武家の三男坊として生まれ、跡目争いを避けるためにと三つの頃からこの御山の奉公に出されたのじゃ。そのため外の世界をほとんど知らずに生きてきた。だからお主には外の世界というものが必要なのではないかと思ったのじゃ。まだあどけなく可愛い幼子の時分からここでずっと過ごして来たお主じゃ。わしとて、手放したくはない気持ちもある。」
我は頭をたれて、時分の膝元をじぃっと見つめた。
「だが、お主の本当の気持ちが手に取るほど判るのじゃ。わしとて、今の尊公と同じ年頃・・・人一倍多感で好奇心の強かった十代の頃があったのじゃ。たく鉢の行の折、きらびやかな都を垣間見るごとに、こんな山寺を飛び出して、都に出てもっと世の中というものを知り、自由に生きてみたいと幾度思ったことか。だから実亮には自由に思うままに生きさせてやりたいのじゃ。」
「しかし、和尚」
「わしには子供がない。」
「・・・」
「親孝行したいと思うのなら、どうか還俗してくれよ。」
我はまっすぐ和尚を見、綽然として云った。
「和尚、私は還俗する気は全くございません。これは強がりでも何でもありませぬ。厳しい仏法の世界の中で私はどれだけの苦境を乗り越え、悟りの境地に近づけるのかを試みてゆきたいのでございます。我が儘なのは重々承知の上での事、どうか和尚、私めの願い、篤とお聞き入れ下さい。」
ーーーそれに、私は幼き頃、畏き神に対し、取り返しのつかぬ過ちを犯した身。もはや世に出ることは許されぬこと。兄ともそう契りを交わしたのじゃ。
これは過ちを犯した自分自身への戒め。
2
和尚は我の話に聞き入るように沈黙してから、じっと全てを見透かすような眼で我の顔を見つめ、小さく頷いて立ち上がった。
「そうか、判った。実亮が真にその気ならば、わしはもう何も云うまい。」
そして簀子に立ち、初夏の淡い翆に輝き始める木々を見上げた。どこからか大瑠璃のさえずりが軽やかに唄い奏でられて講堂の中へ舞い込んできた。
「和尚、実は前々から、暫くの間、諸国遍歴の修行の旅に出たいと考えておりました。」
「うむ、旅か。」
「庶民の人々の暮らしぶりはまだまだ貧しく、苦しいものだと云われております。そのことを私はこの目でしかと見つめて来とうございます。そしてどうしたら衆生を迷いや苦しみから救えるのか、私なりに考えてゆきたいのです。」
和尚は小さく頷いた。
「もう日が天頂に来ておるぞ。まったく、時がたつのは早いものだ。」
優しく午後を香る風が颯々と起こり風鐸を微かにゆらしながら講堂の中へ彷徨い込む。
「和尚、そろそろ午斉の支度が整った頃でしょうから庫裡院へ取りに行って来ます。」
微かな葉ずれ衣ずれの音とともに我は暖かな木漏れ日の乱れる講堂を後にした。
背後で衣ずれの音が近づいてきた。
我はその気配に現実へと引き戻されてはたと眼を開き、明かり差す戸口の方を振り返った。
「実亮(じつりょう)よ。」
いつも変わらぬ、慈愛に満ちた暖かい声。
その主は仗杪和尚(じょうびょうわじょう)だった。
「実亮よ、話がある。ちょいと一緒に講堂まで来なされ。」
「はい。和尚。」
講堂に着くと、我と和尚は向かい合って座した。
我には和尚のいつにも増した真剣な面差しが非常に気に掛かっていた。
和尚は静かにおっしゃった。
「実亮、尊公はまだ若い。その上、才気も同世代の者よりも抜きん出て優れている。世にでておれば間違いなくその名を馳せるだけの可能性を秘めているのではないかとわしは思うのじゃが。」
「和尚?」
和尚らしくない語りに、我は訝しげに首を傾げた。
「このままわしの身勝手でこの御山に閉じ込め、その才気を朽ち果てさせておくのは忍びない。実亮、還俗し京に上る気はないか?もし尊公にその気があるのなら都の良人を紹介してやってもよいのじゃが。」
暫し我は和尚の意表を突く言葉に絶句していた。そして昏迷とした意識を必死と立て直しながら姿勢を正し、和尚に言(こと)した。
「わけあって孤児となってしまった私を和尚は今日の日まで大切にお育て下さいました。ですから私めは今まで実の親のように和尚をお慕い申してまいりました。私は和尚に対する恩義を一日たりとて忘れたことはありませぬ。ですがもし、私が和尚に何か不愉快なことをしており、そのために御山から出てゆけと申されておるのならば私はどのような罰も受ける覚悟はあります。ですが私は、和尚のもとに居とうございます。私の意思で御仏の教えにこの身を捧げたのでございます。」
和尚は我の言葉を聞くと、うっすらと涙を浮かべられ、済まなそうに瞳を伏せられた。
「世を知らぬまま大事な時をこの山に埋もれて過ごしてゆく実亮をみているとわしは不憫でならぬのだ。もしあの時、お前を拾ったのがわしではなく、何処ぞの良人に拾われておったなら、それは世の荒波にぶつかることもあろうが、今頃は妻子を持ち、家族とともに幸せな生活を楽しんでいたのではないかと思うと心中の傷が疼いてならぬのじゃ。」
「和尚、どうかそのような自分を貶めるようなことをおっしゃらないで下さい。もし、あのときに和尚が私を救って下さらなかったのなら、幼く、世の中での生き方を知らぬ私は野垂れ死にしておりましたところでしょう。和尚との此処での暮らしは、それは厳しいこともありましたが、十分に楽しく、良き友にも恵まれ幸福に満ちたものでありました。」
「わしもな、ある武家の三男坊として生まれ、跡目争いを避けるためにと三つの頃からこの御山の奉公に出されたのじゃ。そのため外の世界をほとんど知らずに生きてきた。だからお主には外の世界というものが必要なのではないかと思ったのじゃ。まだあどけなく可愛い幼子の時分からここでずっと過ごして来たお主じゃ。わしとて、手放したくはない気持ちもある。」
我は頭をたれて、時分の膝元をじぃっと見つめた。
「だが、お主の本当の気持ちが手に取るほど判るのじゃ。わしとて、今の尊公と同じ年頃・・・人一倍多感で好奇心の強かった十代の頃があったのじゃ。たく鉢の行の折、きらびやかな都を垣間見るごとに、こんな山寺を飛び出して、都に出てもっと世の中というものを知り、自由に生きてみたいと幾度思ったことか。だから実亮には自由に思うままに生きさせてやりたいのじゃ。」
「しかし、和尚」
「わしには子供がない。」
「・・・」
「親孝行したいと思うのなら、どうか還俗してくれよ。」
我はまっすぐ和尚を見、綽然として云った。
「和尚、私は還俗する気は全くございません。これは強がりでも何でもありませぬ。厳しい仏法の世界の中で私はどれだけの苦境を乗り越え、悟りの境地に近づけるのかを試みてゆきたいのでございます。我が儘なのは重々承知の上での事、どうか和尚、私めの願い、篤とお聞き入れ下さい。」
ーーーそれに、私は幼き頃、畏き神に対し、取り返しのつかぬ過ちを犯した身。もはや世に出ることは許されぬこと。兄ともそう契りを交わしたのじゃ。
これは過ちを犯した自分自身への戒め。
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和尚は我の話に聞き入るように沈黙してから、じっと全てを見透かすような眼で我の顔を見つめ、小さく頷いて立ち上がった。
「そうか、判った。実亮が真にその気ならば、わしはもう何も云うまい。」
そして簀子に立ち、初夏の淡い翆に輝き始める木々を見上げた。どこからか大瑠璃のさえずりが軽やかに唄い奏でられて講堂の中へ舞い込んできた。
「和尚、実は前々から、暫くの間、諸国遍歴の修行の旅に出たいと考えておりました。」
「うむ、旅か。」
「庶民の人々の暮らしぶりはまだまだ貧しく、苦しいものだと云われております。そのことを私はこの目でしかと見つめて来とうございます。そしてどうしたら衆生を迷いや苦しみから救えるのか、私なりに考えてゆきたいのです。」
和尚は小さく頷いた。
「もう日が天頂に来ておるぞ。まったく、時がたつのは早いものだ。」
優しく午後を香る風が颯々と起こり風鐸を微かにゆらしながら講堂の中へ彷徨い込む。
「和尚、そろそろ午斉の支度が整った頃でしょうから庫裡院へ取りに行って来ます。」
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