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みちのく・王子綺譚③ 一弾の夢
Ⅳ
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【晩香廬変死体事件】
警察の隠語で戒名と呼ばれる事件名が付けられ、滝野川警察署に捜査体制が敷
かれた。
死因は頸髄離断による即死だったが、首の骨で守られている頸髄は日常生活で
は傷つかない。
人為的な強い衝撃や交通事故でもない限り、折れたりする部位ではなかった。
司法解剖の結果、争った痕跡が判明した。
変死体の爪から微量の皮膚が検出されたのだ。
抵抗した際、相手に引っ掻き傷を残していて、そのDNAも採取され、現場に
落ちていたマスクに付着していた体液と一致した。
鑑識による容疑者の指紋は取る事ができず、建物を見張る防犯カメラも断線さ
れていて、被害者の死亡時刻における晩香廬での出入りは確認できなかった。
死体から拳銃の硝煙反応が検出され、前科者履歴から身元が割れた。
その日、宿直当番だった刑事は、被害者が暴力団構成員だったのでそのまま捜
査を引き継いだ。
死んだ橋本は、池袋をシマにする広域指定暴力団組織の貸元頭だった。
ヤクザの組織は完全なタテ社会だ。上から、総長―貸元―代貸―組長というピ
ラミッド型コンツェルンの組織形態である。
一般の大企業に例えると、トップである親会社のオーナーが[総長]、子会社
の社長が[貸元]、孫会社の社長が[代貸]、そして[組長]というのは、フラ
ンチャイズの事業主的な地位なのだが、ヤクザ映画等の影響からか総長と混同さ
れている。
総長は、貸元に一つの地域を与え、その貸元がその中の地区を代貸達に任せ、
さらに細かい区域を組長達が担当する仕組みになっている。
それぞれの下部団体から全ての権限を持つ総長に、上納金が吸い上げられてい
く。
広域暴力団になると、貸元だけでも十数人いて、それらの長が貸元頭というわ
けである。
企業組織で言えば、幹部クラスの取締役である貸元頭が死んだのだ。ただ事で
はない。
殺されたのであれば、なおさらである。
敵対する暴力団同士による抗争劇に発展する可能性があった。
警察は、橋本が変死したので、事故を装った殺人事件であると疑った。
橋本が所持していた携帯電話のメモリーから、その相手が特定された。
過去に賭博場での逮捕歴のある藤原は、大学を退学になった自称ピアニストと
して犯罪者履歴に載っていた。
寝泊りしていたネットカフェでのクレジットカードの使用記録から居場所が捕
捉された。
刑事に任意同行を求められると、身の潔白を証明するため、藤原は彼女以外に
ついての知っている事を話した。
密室殺人事件と、マスコミが興味本位に報じている頃、各捜査陣によって洗い
出された容疑者達は三種類に分けられた。
賭場にいた客、それに胴元とそれを手伝った者達である。
Nシステムと呼ばれる幹線道路上に張り巡らせた監視カメラの映像から事件当
夜、現場付近にいた車両を割り出し、芋づる式に容疑者達がリストアップされた。
ナンバープレートから所有者を突き止め、アリバイを振るいにかけると一人の
中年女性が網にかかった。
銀座の一等地で保険適用外のレーシックという近視手術の開業医をしていた医
師を夫に持つセレブなマダムである。
医師である夫は、経費削減のため器具を消毒せずに使い回した末、多数の患者
に病原菌を蔓延させて失明者まで出した。
夫の逮捕により収入が途絶えても、マダムはセレブ生活の維持費を借金で賄っ
た。
抵当に取られた家を取り戻そうと、闇カジノに手を出したのだった。取調べの
際、身分証明書類の提示を求められたマダムは、運転免許証を差し出した。
交通課に照会した結果、違反点数が多く免許停止中である事が分かり、道交法
違反で拘束した。
セレブマダムは、汚い牢獄に繋がれるという恐怖心から、賭場が開かれていた
事を洗いざらい告白した。
捜査線上に、19名が浮かんできた。
当日セレブマダムと共に現場にいた客を、参考人として事情聴取の名目で任意
同行を求めた。
警察は別件での拘留期間を稼ぐために、徹底的に余罪を洗った。
日経新聞や四季報も見ずに、その日の成り行きで売買するネット投資家には脱
税容疑をかけて、そのモバイルパソコンをバカラ賭博の証拠品として押収した。
認められていない職種に大量の就労者を派遣し、そのピンハネした財力でIT
企業の買収をしていた社長は、労働者派遣法違反を適用して拘留した。
オドオドしながらも個人年金を直接預かる振りを装って、詐取した納付金で遊
興三昧をしていたという、腐敗した地方公務員も詐欺罪で逮捕した。
不況によりうまみを失った不動産ブローカー、いわゆる地上げ屋は、立ち退き
させる手段に悪質なイヤガラセを行なったとして、恐喝容疑で身柄を押さえた。
橋本が仕切っていたアングラ・カジノの従業員も当然、洗われた。
ディーラーやバーテンダーやコンシェルジュといった職種で働いていたが、い
ずれも軽犯罪の前科があり、執行猶予中であった。
不況で仕事を失い、ヤミ金融から運転資金を借金していた電気修理業・内装業
・食材卸業などの零細事業主達は、建造物不法侵入で検挙された。
アングラ・カジノの従業員や作業員の供述により、晩香廬で博打が行なわれて
いた裏は取れたが、賭博行為で逮捕されるのを怖れた客のほうは皆、カネが奪わ
れた事を認めようとしなかった。
証拠である賭け金が存在しない以上、賭博での立件はできなかった。別件逮捕
での客とスタッフの供述を繋ぎ合わせると、奇妙な事に倒れたのは橋本ではなく
警官だというのだ。
事件当夜、警察にそのような出動記録はなく、おそらくはニセ警官なのだろう
と結論付けられた。
それと、和装のウエイトレスの存在は他の任意同行者によって確認されたが、
消息不明だった。
動機が重要な手掛かりだった。橋本に恨みを持つ者、あるいは橋本がいなくな
れば利益を得る者に的が絞られた。
怨恨の線には、多額の借金を背負った者が該当した。
何らかのトラブルにより容疑者ともみ合った末に、事故で死んだ可能性も捨て
切れない。
その場合、殺人罪ではなく過失致死になるが、いずれにしても容疑者を確保す
れば説明が付くはずである。
多額の売上金が紛失しているとすれば、計画的と考えざるを得ない。強盗の線
が浮かんできた。
橋本からカネを奪ったのが、犯人である。
滝野川警察は、橋本の部下である運転手と橋本に撃たれたというニセ警官に容
疑者を絞り込んだ。
用意周到に完全犯罪を目論んだ橋本が、逆に殺された事に刑事は合点がいかな
かった。
組織犯罪処罰法違反で、池袋周辺の組事務所が強制捜査された。
家宅捜索の結果、橋本の運転手を務めていた男の自宅から違法にコピーされた
晩香廬のICカードキーが見つかった。
ボクサーなどの格闘術の体得者は、それを練習や試合以外で他人に行使すると
凶器と見なされる。
自称ピアニストの証言から元プロボクサーで腕に引っ掻き傷を負っている運転
手が容疑者として指名手配された。
携帯電話会社の通話記録やJT(日本たばこ産業株式会社)発行のタスポと呼
ばれるタバコ購入用成人識別ICカードの使用記録が照会されて、その位置情報
を元にして運転手が逮捕された。
事件は越年し、滝野川警察署の出入口の門松も取り払われた。
御用始めの連日の厳しい取調べにもかかわらず、運転手は容疑を頑なに否認し
た。
証拠の切り札に、橋本の爪に残された皮脂のDNA鑑定が照合されたが、運転
手のモノと一致しなかった。
DNAは、他の重要参考人達とも合致しなかったので、犯人は別にいる事が判
明した。
体面を気にした警察の上層部は、運転手の指図によるニセ警官を含めた複数犯
の犯行に切り換えて物証も無いまま、状況証拠のみでの強引な立件を主張した。
始まったばかりの陪審員制度への兼ね合いもあり、疑わしきは罰せずという推
定無罪の原則から、検察は不起訴処分にした。
結局、犯人不明のまま事故死と断定され、捜査は終結した。
死んだ橋本は逆に、賭博場開帳図利罪と拳銃不法所持及び発砲罪の被疑者とし
て書類送検された。
通常勤務に戻った刑事が、目深に制帽をかぶりマスクをしていた交番勤務の巡
査とすれ違った。
同じ滝野川署所属だが、勤務する部署が異なるので、あいさつ程度しか言葉を
交わす事が無かった。
巡査は何か後ろめたい気持ちがあるのか、刑事の視線を避けるようにして去っ
て行った。
デカとしての勘だった。
漠然と、犯罪者特有の匂いを感じた。
だが、その時は連日の捜査での疲労もあって、気のせいかもしれないと思い直
した。
始業前の刑事部屋のテレビに、昨年の重大ニュースが放送されていた。
深刻な自然災害、芸能界に蔓延する覚醒剤問題、暴力団事務所の篭城事件など
の次に、スポーツ界の話題に移っていた。
角界の不祥事、そして、試合中にバックドロップの技をかけられて亡くなった
プロレスラーがランクインされていた。
そのニュースの場面で、刑事の脳裏にピンと来るモノが感じられた。
ボクシングは、互いに距離を計って、基本的に体を直接組み合わせない格闘技
だ。
テーブルの角を狙い済ましたように正確無比に、相手の首を打ちつけるには、
相手を組み伏せる必要がある。
相手の体を自在に放り投げる格闘技は、レスリングの他にもある。
首投げなどができる柔道なら可能だ。
先ほどすれ違った巡査は確か、柔道が特技だったはず。灯台下暗し。
だが、同じ警察官を疑うには慎重を期さなければならない。
刑事は、彼の持ち場である飛鳥山交番に向かった。
巡回パトロールらしく外出中だった。
新設されたモノレール付近で、自転車を押しながらガッシリとした体格の制服
警官が坂を登って来た。
刑事の姿を見ると、若い巡査は狼狽しながらも観念したような表情をした。
二人は、高台にあるベンチに腰を下ろした。
隣接する高架橋から、新幹線の走行音が聞こえていた。
ゆっくりと、諭すように刑事は巡査に言葉を促した。
地方から上京して警察に就職した動機から始まり、都会での生活に馴染めず孤
独であった事等、巡査は堰を切ったように心情を吐露した。
そして、巡査がマスクを外した。
頬には、引っ掻かれたような生傷があった。
彼女がいない寂しさからキャバクラに通うにつれ、その金策に追われるように
なった経緯を語った。
多額の債権を握られているヤクザとの癒着関係が、今後の勤務に影響するであ
ろう事も予想できた。
いずれ、暴力団は自分達との関係を盾に、ガサ入れの事前情報などのリークを
要求してくるだろう。
将来に禍根を残さないために橋本を殺害したという巡査の自供に、刑事は何か
まだ引っ掛かる点を感じた。
巡査を凶行に追い込ませたのは、果たしてこれだけであろうか。
密室で橋本が一人になる僅かな間隙に、柔術を用いて事故死を装い、犯行後の
逃走時間を稼ぐ手際の良さは、まるで誰かに橋本の行動予定を聞いていたかのよ
うである。
純情で一途だが、気弱な巡査の性格を考えると、犯行を実行させる後押しがあ
ったように思えた。
共犯者の影を感じた刑事は、さらに深く巡査の聴取を続けた。
懇意にしてくれたキャバ嬢が、ヤミ金を営む貸元頭である橋本に借金で縛られ
ている事情に同情した巡査は、彼女を解放する事を決意したのだった。
刑事は、ある仮定を考えた。
そのキャバ嬢が、一本気な人となりの巡査を手玉に取ってそそのかしたのだと
したら?
自身が利用されたとは巡査は露にも勘繰ってはいなかった。
むしろ、不遇なキャバ嬢を不憫に思っていた風であった。
橋本を殺すように仕向けられた覚えは無いと言い張った。
また、殺人依頼に伴なって具体的な金銭の授受は無論の事、それに対する報酬
も存在しないとの事だった。
巡査当人に騙されている意識もなく、物的証拠が無い以上、殺人教唆での立件
は難しい。
あの夜、晩香廬で見かけた以後のキャバ嬢の行方は、巡査にも分からないと言
う。
巡査の供述通り、交番のロッカーから橋本の拳銃が発見され、DNAも一致し
て巡査は逮捕された。
その後も執念深く刑事が捜し当てた時、彼女は病院の霊安室に寝ていた。
人生をやり直そうと、身辺整理を終えた彼女は、別の見えないマスクをかぶっ
て逃亡途中に路上で不慮の交通事故に遭った。
運転中に、突然のパニック障害で意識を失ったドライバーによって、轢かれて
しまったのだった。
手術の甲斐も無く、搬送先の救急病院で彼女の死亡が確認された。
身元不明者という連絡を受けた警察は、その歯型に残る虫歯の治療痕を歯科医
に照会し、カルテから当人を特定した。
両親の面通しから本人確認が取れると、借金問題を聴取している内に働かされ
ていたキャバクラが分かり、それが彼女だと判明した。
天網恢恢、疎にして漏らさず。
警察の隠語で戒名と呼ばれる事件名が付けられ、滝野川警察署に捜査体制が敷
かれた。
死因は頸髄離断による即死だったが、首の骨で守られている頸髄は日常生活で
は傷つかない。
人為的な強い衝撃や交通事故でもない限り、折れたりする部位ではなかった。
司法解剖の結果、争った痕跡が判明した。
変死体の爪から微量の皮膚が検出されたのだ。
抵抗した際、相手に引っ掻き傷を残していて、そのDNAも採取され、現場に
落ちていたマスクに付着していた体液と一致した。
鑑識による容疑者の指紋は取る事ができず、建物を見張る防犯カメラも断線さ
れていて、被害者の死亡時刻における晩香廬での出入りは確認できなかった。
死体から拳銃の硝煙反応が検出され、前科者履歴から身元が割れた。
その日、宿直当番だった刑事は、被害者が暴力団構成員だったのでそのまま捜
査を引き継いだ。
死んだ橋本は、池袋をシマにする広域指定暴力団組織の貸元頭だった。
ヤクザの組織は完全なタテ社会だ。上から、総長―貸元―代貸―組長というピ
ラミッド型コンツェルンの組織形態である。
一般の大企業に例えると、トップである親会社のオーナーが[総長]、子会社
の社長が[貸元]、孫会社の社長が[代貸]、そして[組長]というのは、フラ
ンチャイズの事業主的な地位なのだが、ヤクザ映画等の影響からか総長と混同さ
れている。
総長は、貸元に一つの地域を与え、その貸元がその中の地区を代貸達に任せ、
さらに細かい区域を組長達が担当する仕組みになっている。
それぞれの下部団体から全ての権限を持つ総長に、上納金が吸い上げられてい
く。
広域暴力団になると、貸元だけでも十数人いて、それらの長が貸元頭というわ
けである。
企業組織で言えば、幹部クラスの取締役である貸元頭が死んだのだ。ただ事で
はない。
殺されたのであれば、なおさらである。
敵対する暴力団同士による抗争劇に発展する可能性があった。
警察は、橋本が変死したので、事故を装った殺人事件であると疑った。
橋本が所持していた携帯電話のメモリーから、その相手が特定された。
過去に賭博場での逮捕歴のある藤原は、大学を退学になった自称ピアニストと
して犯罪者履歴に載っていた。
寝泊りしていたネットカフェでのクレジットカードの使用記録から居場所が捕
捉された。
刑事に任意同行を求められると、身の潔白を証明するため、藤原は彼女以外に
ついての知っている事を話した。
密室殺人事件と、マスコミが興味本位に報じている頃、各捜査陣によって洗い
出された容疑者達は三種類に分けられた。
賭場にいた客、それに胴元とそれを手伝った者達である。
Nシステムと呼ばれる幹線道路上に張り巡らせた監視カメラの映像から事件当
夜、現場付近にいた車両を割り出し、芋づる式に容疑者達がリストアップされた。
ナンバープレートから所有者を突き止め、アリバイを振るいにかけると一人の
中年女性が網にかかった。
銀座の一等地で保険適用外のレーシックという近視手術の開業医をしていた医
師を夫に持つセレブなマダムである。
医師である夫は、経費削減のため器具を消毒せずに使い回した末、多数の患者
に病原菌を蔓延させて失明者まで出した。
夫の逮捕により収入が途絶えても、マダムはセレブ生活の維持費を借金で賄っ
た。
抵当に取られた家を取り戻そうと、闇カジノに手を出したのだった。取調べの
際、身分証明書類の提示を求められたマダムは、運転免許証を差し出した。
交通課に照会した結果、違反点数が多く免許停止中である事が分かり、道交法
違反で拘束した。
セレブマダムは、汚い牢獄に繋がれるという恐怖心から、賭場が開かれていた
事を洗いざらい告白した。
捜査線上に、19名が浮かんできた。
当日セレブマダムと共に現場にいた客を、参考人として事情聴取の名目で任意
同行を求めた。
警察は別件での拘留期間を稼ぐために、徹底的に余罪を洗った。
日経新聞や四季報も見ずに、その日の成り行きで売買するネット投資家には脱
税容疑をかけて、そのモバイルパソコンをバカラ賭博の証拠品として押収した。
認められていない職種に大量の就労者を派遣し、そのピンハネした財力でIT
企業の買収をしていた社長は、労働者派遣法違反を適用して拘留した。
オドオドしながらも個人年金を直接預かる振りを装って、詐取した納付金で遊
興三昧をしていたという、腐敗した地方公務員も詐欺罪で逮捕した。
不況によりうまみを失った不動産ブローカー、いわゆる地上げ屋は、立ち退き
させる手段に悪質なイヤガラセを行なったとして、恐喝容疑で身柄を押さえた。
橋本が仕切っていたアングラ・カジノの従業員も当然、洗われた。
ディーラーやバーテンダーやコンシェルジュといった職種で働いていたが、い
ずれも軽犯罪の前科があり、執行猶予中であった。
不況で仕事を失い、ヤミ金融から運転資金を借金していた電気修理業・内装業
・食材卸業などの零細事業主達は、建造物不法侵入で検挙された。
アングラ・カジノの従業員や作業員の供述により、晩香廬で博打が行なわれて
いた裏は取れたが、賭博行為で逮捕されるのを怖れた客のほうは皆、カネが奪わ
れた事を認めようとしなかった。
証拠である賭け金が存在しない以上、賭博での立件はできなかった。別件逮捕
での客とスタッフの供述を繋ぎ合わせると、奇妙な事に倒れたのは橋本ではなく
警官だというのだ。
事件当夜、警察にそのような出動記録はなく、おそらくはニセ警官なのだろう
と結論付けられた。
それと、和装のウエイトレスの存在は他の任意同行者によって確認されたが、
消息不明だった。
動機が重要な手掛かりだった。橋本に恨みを持つ者、あるいは橋本がいなくな
れば利益を得る者に的が絞られた。
怨恨の線には、多額の借金を背負った者が該当した。
何らかのトラブルにより容疑者ともみ合った末に、事故で死んだ可能性も捨て
切れない。
その場合、殺人罪ではなく過失致死になるが、いずれにしても容疑者を確保す
れば説明が付くはずである。
多額の売上金が紛失しているとすれば、計画的と考えざるを得ない。強盗の線
が浮かんできた。
橋本からカネを奪ったのが、犯人である。
滝野川警察は、橋本の部下である運転手と橋本に撃たれたというニセ警官に容
疑者を絞り込んだ。
用意周到に完全犯罪を目論んだ橋本が、逆に殺された事に刑事は合点がいかな
かった。
組織犯罪処罰法違反で、池袋周辺の組事務所が強制捜査された。
家宅捜索の結果、橋本の運転手を務めていた男の自宅から違法にコピーされた
晩香廬のICカードキーが見つかった。
ボクサーなどの格闘術の体得者は、それを練習や試合以外で他人に行使すると
凶器と見なされる。
自称ピアニストの証言から元プロボクサーで腕に引っ掻き傷を負っている運転
手が容疑者として指名手配された。
携帯電話会社の通話記録やJT(日本たばこ産業株式会社)発行のタスポと呼
ばれるタバコ購入用成人識別ICカードの使用記録が照会されて、その位置情報
を元にして運転手が逮捕された。
事件は越年し、滝野川警察署の出入口の門松も取り払われた。
御用始めの連日の厳しい取調べにもかかわらず、運転手は容疑を頑なに否認し
た。
証拠の切り札に、橋本の爪に残された皮脂のDNA鑑定が照合されたが、運転
手のモノと一致しなかった。
DNAは、他の重要参考人達とも合致しなかったので、犯人は別にいる事が判
明した。
体面を気にした警察の上層部は、運転手の指図によるニセ警官を含めた複数犯
の犯行に切り換えて物証も無いまま、状況証拠のみでの強引な立件を主張した。
始まったばかりの陪審員制度への兼ね合いもあり、疑わしきは罰せずという推
定無罪の原則から、検察は不起訴処分にした。
結局、犯人不明のまま事故死と断定され、捜査は終結した。
死んだ橋本は逆に、賭博場開帳図利罪と拳銃不法所持及び発砲罪の被疑者とし
て書類送検された。
通常勤務に戻った刑事が、目深に制帽をかぶりマスクをしていた交番勤務の巡
査とすれ違った。
同じ滝野川署所属だが、勤務する部署が異なるので、あいさつ程度しか言葉を
交わす事が無かった。
巡査は何か後ろめたい気持ちがあるのか、刑事の視線を避けるようにして去っ
て行った。
デカとしての勘だった。
漠然と、犯罪者特有の匂いを感じた。
だが、その時は連日の捜査での疲労もあって、気のせいかもしれないと思い直
した。
始業前の刑事部屋のテレビに、昨年の重大ニュースが放送されていた。
深刻な自然災害、芸能界に蔓延する覚醒剤問題、暴力団事務所の篭城事件など
の次に、スポーツ界の話題に移っていた。
角界の不祥事、そして、試合中にバックドロップの技をかけられて亡くなった
プロレスラーがランクインされていた。
そのニュースの場面で、刑事の脳裏にピンと来るモノが感じられた。
ボクシングは、互いに距離を計って、基本的に体を直接組み合わせない格闘技
だ。
テーブルの角を狙い済ましたように正確無比に、相手の首を打ちつけるには、
相手を組み伏せる必要がある。
相手の体を自在に放り投げる格闘技は、レスリングの他にもある。
首投げなどができる柔道なら可能だ。
先ほどすれ違った巡査は確か、柔道が特技だったはず。灯台下暗し。
だが、同じ警察官を疑うには慎重を期さなければならない。
刑事は、彼の持ち場である飛鳥山交番に向かった。
巡回パトロールらしく外出中だった。
新設されたモノレール付近で、自転車を押しながらガッシリとした体格の制服
警官が坂を登って来た。
刑事の姿を見ると、若い巡査は狼狽しながらも観念したような表情をした。
二人は、高台にあるベンチに腰を下ろした。
隣接する高架橋から、新幹線の走行音が聞こえていた。
ゆっくりと、諭すように刑事は巡査に言葉を促した。
地方から上京して警察に就職した動機から始まり、都会での生活に馴染めず孤
独であった事等、巡査は堰を切ったように心情を吐露した。
そして、巡査がマスクを外した。
頬には、引っ掻かれたような生傷があった。
彼女がいない寂しさからキャバクラに通うにつれ、その金策に追われるように
なった経緯を語った。
多額の債権を握られているヤクザとの癒着関係が、今後の勤務に影響するであ
ろう事も予想できた。
いずれ、暴力団は自分達との関係を盾に、ガサ入れの事前情報などのリークを
要求してくるだろう。
将来に禍根を残さないために橋本を殺害したという巡査の自供に、刑事は何か
まだ引っ掛かる点を感じた。
巡査を凶行に追い込ませたのは、果たしてこれだけであろうか。
密室で橋本が一人になる僅かな間隙に、柔術を用いて事故死を装い、犯行後の
逃走時間を稼ぐ手際の良さは、まるで誰かに橋本の行動予定を聞いていたかのよ
うである。
純情で一途だが、気弱な巡査の性格を考えると、犯行を実行させる後押しがあ
ったように思えた。
共犯者の影を感じた刑事は、さらに深く巡査の聴取を続けた。
懇意にしてくれたキャバ嬢が、ヤミ金を営む貸元頭である橋本に借金で縛られ
ている事情に同情した巡査は、彼女を解放する事を決意したのだった。
刑事は、ある仮定を考えた。
そのキャバ嬢が、一本気な人となりの巡査を手玉に取ってそそのかしたのだと
したら?
自身が利用されたとは巡査は露にも勘繰ってはいなかった。
むしろ、不遇なキャバ嬢を不憫に思っていた風であった。
橋本を殺すように仕向けられた覚えは無いと言い張った。
また、殺人依頼に伴なって具体的な金銭の授受は無論の事、それに対する報酬
も存在しないとの事だった。
巡査当人に騙されている意識もなく、物的証拠が無い以上、殺人教唆での立件
は難しい。
あの夜、晩香廬で見かけた以後のキャバ嬢の行方は、巡査にも分からないと言
う。
巡査の供述通り、交番のロッカーから橋本の拳銃が発見され、DNAも一致し
て巡査は逮捕された。
その後も執念深く刑事が捜し当てた時、彼女は病院の霊安室に寝ていた。
人生をやり直そうと、身辺整理を終えた彼女は、別の見えないマスクをかぶっ
て逃亡途中に路上で不慮の交通事故に遭った。
運転中に、突然のパニック障害で意識を失ったドライバーによって、轢かれて
しまったのだった。
手術の甲斐も無く、搬送先の救急病院で彼女の死亡が確認された。
身元不明者という連絡を受けた警察は、その歯型に残る虫歯の治療痕を歯科医
に照会し、カルテから当人を特定した。
両親の面通しから本人確認が取れると、借金問題を聴取している内に働かされ
ていたキャバクラが分かり、それが彼女だと判明した。
天網恢恢、疎にして漏らさず。
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