【五感侵食】記憶の花

渋谷千立

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記憶の花

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私は植物が好きだ。花も木も好きだ。将来は植物に関わる仕事がしたくて、必死に勉強し、Ⅿ大学の園芸学部に入った。
勉強も実技も大変だが、充実した毎日を送っている。
しかし、一つ不可解なことがある。大学構内の温室が、ずっと使われていないのだ。

夜になると、その温室の前を通るのが少しだけ怖い。古びたガラス窓は曇り、外灯の光も届かず、いつも薄暗く沈んでいる。
風もないのに、時折かすかに何かが揺れる音が聞こえるような気がして、足がすくむ。

それとなく先輩や教授に尋ねてみたが、「だいぶ前からそうだ」とだけ言われ、詳しい理由は教えてもらえなかった。
最初はずっと気になっていたが、大学生活の忙しさにかまけて、いつの間にか温室のことは忘れてしまっていた。

その後は、講義や実習、友人とのキャンパスライフに忙殺され、温室のことなど頭の片隅から薄れていった。
毎日が新しい発見の連続で、植物の成長を見守る楽しさに夢中になっていた。

週末には学部の植物園で友人と植物の世話をしたり、研究発表の準備に追われたり。そんな日々の中で、温室の影は次第に遠い記憶の彼方へと消え去っていった。

ある日、温室の利用が再開されるという話を耳にした。
新任の学長が「せっかくの立派な温室をそのままにしておくのはもったいない」と言い、長年閉ざされていた温室の扉がついに開かれることになったのだ。

このニュースを聞いて、私は胸の奥に小さな期待と、ほんの少しの不安を感じた。

早速、私は温室へ向かった。
中に入ると、驚くほど緑があふれていた。
利用はされていなかったはずなのに、設備はしっかりと機能していたらしく、植物たちはそこでけなげに息づいていたのだ。

温室をゆっくり見て回ると、不思議なことに気づいた。
そこには、一輪の花も咲いていなかった。
あれもこれも、すべてがつぼみのまま静かに佇み、まるで時間が凍りついたかのように動かない。

柔らかな緑の葉影に包まれて、薄暗い温室の中は、夢の中のようにぼんやりと揺れていた。
まるで、咲くことを許されない花たちが、じっと何かを待っているかのように――。

温室の奥へ進むほど、空気はひんやりと冷たくなり、光もより一層淡くなっていった。
すると、ひときわ鮮やかな色彩が目に飛び込んできた。
そこには、他のどの植物とも違う、妖艶な光を放つ花が一輪だけ咲いていた。

その花は、深紅とも紫ともつかない微妙な色合いで、まるで闇の中で静かに燃えているようだった。
鼻先をくすぐったのは、熟れすぎた果実の甘やかな匂い──だが、それに続いて、鉄錆にも似た、生臭い香りが鼻腔を刺す。

透き通るような花びらの奥に、不思議な模様が浮かび上がり、じっと見つめると視線を奪われてしまう。

近づくと、なぜか胸の奥がざわつき、遠くの記憶がふっと霞んでいくのを感じた。
私はその花の正体を知りたくて、足を止められなかった。

その花をじっと見入っていると、ふいに頭の中がぼんやりと霞み、視界が揺らいだ。
次の瞬間、私の意識は薄れ、目の前の花の姿がまるで夢の中の幻のように消えてしまった。

確かにあの花を見たはずなのに、その形も色も香りも、どうしても思い出せない。
まるで、私の記憶からその存在だけが抜け落ちてしまったかのようだった。

私は戸惑いながらも、不自然な空白を埋めようと温室を何度も訪れた。
しかし、花の場所にはもう何も咲いていなかった。

なぜ、あの花の記憶だけが消えてしまったのか。
その謎を解くことが、私の新たな使命となった。

あの花の記憶が曖昧なまま、私は大学の資料室へ足を運んだ。
園芸学部の古い記録や論文を読み漁り、温室に関する過去の記録を探した。

資料の中には、何十年も前から温室が閉鎖されていたという記述があった。
しかも、その閉鎖理由は詳しく書かれておらず、「不明」とされている部分が多かった。

さらに読み進めると、「咲かない花」についての奇妙なメモが一枚見つかった。
そこには、温室の植物がなぜか花を咲かせず、異様な雰囲気が漂っていること、そして「ある種の花が禁忌とされている」と書かれていた。

私は胸が高鳴るのを感じた。
このメモこそ、私が見た花と何か関係があるに違いない。

資料室での調査だけでは物足りなくなり、私は直接、温室のことをよく知るという先輩に話を聞きに行くことにした。
キャンパスの片隅にある古ぼけた研究室のドアをノックすると、先輩は不思議そうな目で私を見た。

「温室のこと?あそこは昔から何かあるって噂だよ。誰も近づきたがらない。」
先輩の声は低く、どこか怯えが混じっていた。

「具体的には?」と私は食い下がる。

先輩はしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
「ずっと花が咲かないんだ。ただの温室じゃない。昔、ある花が咲いてから、変なことが起き始めたって話だ。記憶がなくなるとか、頭がおかしくなるとか…」

私は息を飲んだ。まさに、私が感じたことそのものだった。

その後、教授にも話を聞いた。教授は資料室の古い記録に詳しく、重い口調で話し始めた。

「その温室は、かつて禁忌の花を育てていた。だが、花は異常な力を持っていたため、研究は中止された。温室は封印されたのだよ。」

先輩は少し躊躇しながらも、口を開いた。

「温室の奥に入った人がいるらしいんだ。でも、あまり公にはされていなくて……みんな何かしら変わってしまうって話だよ。」

「変わるって、どういうことです?」と聞くと、先輩は言葉を選ぶように続けた。

「記憶が曖昧になったり、大事なことを忘れたり……何かが抜け落ちてしまうみたいなんだ。詳しいことは誰も話したがらないけどね。」

教授も、そんな話を否定しなかった。

「温室の奥は、誰も近づかない方がいい場所だ。あそこに何があるのか、知らない方が身のためだろう。」

言葉を濁す教授の態度に、私はかえって好奇心を掻き立てられた。

知られざる「何か」が、確かにそこにはあるのだ。

あの日、私はまた温室の奥へ足を踏み入れた。
そこは薄暗く、湿った空気が漂っている。
奥の棚の隅に、淡く輝く花が静かに咲いていた。
まるで時間の流れから切り離されたかのように、花はそこで静かに揺れていた。

その瞬間から、何かが私の中で狂い始めた。
翌朝、起きても昨日の授業の内容が頭に浮かばず、ノートのページが白紙のように思えた。
友人と話しても、その会話の意味をすぐに忘れてしまい、何度も同じ質問を繰り返してしまった。

「そんなこと、前も言ったよ」
友人の困惑した表情が胸に刺さる。

記憶が抜け落ちていく恐怖は日に日に増し、私は自分の名前さえも曖昧に感じるようになった。
ある晩、鏡の前で自分の顔を見つめながら、
「私は誰だっけ?」と呟いた。

ノートやスケジュール帳を何度も確認するが、何も頭に入ってこない。
スマホの写真を見ても、その場面の記憶は霧のようにかすみ、手探りで答えを探している気分だった。

温室の花は、ただ美しいだけじゃない。
それは私の記憶を少しずつ吸い取って、何か別のものに変えてしまうのだと、確信し始めていた。

私は必死に記憶を留めようと、メモを書き残し、録音も始めた。
けれども、その努力も虚しく、どこか遠くで自分が崩れていくのを感じていた。

「このままじゃ、完全に消えてしまう」
胸の底から湧き上がる焦燥と絶望の中で、私はまだ知らない“禁忌の秘密”を探し続けることを決めた。


調査を進めるうちに、私は思いもよらぬ記述を見つけた。

図書館の地下資料室――普段は施錠され、教授ですら滅多に出入りしない場所。埃の積もった木箱の中に、一冊の古い報告書が紛れていた。表紙に記されたのは、英字と大学の旧ロゴ。そして、消えかけたインクでこう記されていた。

「《非公開・極秘研究:外来種子群体の成長記録》」

震える指でページをめくると、そこには驚くべき事実が記されていた。

十数年前、Ⅿ大学はある隕石の破片を国際研究機関から譲り受けていた。破片には微細な胞子状の物質が付着しており、大学は独自にその“種子”の培養実験を開始したという。

最初の発芽は温室内。研究は順調だった……はずだった。

だが、ページを追うごとに、記録は断片的に乱れ始める。
調査に携わった研究員の名前が消されていたり、報告が途中で途切れていたり。
それどころか、同一人物の記録が何度も上書きされており、まるで「存在そのものが塗り替えられている」ようだった。

さらに恐ろしいのは、文末に鉛筆で走り書きされたメモだった。

    「我々は種子に触れすぎた。誰かが言っていた。
    “あれは記録を喰う。記憶を喰う。やがては存在そのものを。”
    名前が消えていく。写真から人が抜け落ちる。気づけば、自分の声も聞こえない。
    この記録を誰が読んでいるのか、それすら今はわからない──」

私は息を呑み、手を止めた。

確かに、あの花には、人を「消す」力がある。そして、その現象は今に始まったことではなかった。
むしろ、私は“最初の犠牲者”ですらなかったのだ。

では、かつて花を見た者たちは、どこへ消えたのか?
その名前を、誰が覚えているのか?
そもそも、私がこの記録を見つけたことすら、誰かの記憶に残るのだろうか?

薄闇の中、私は静かに震えていた。
自分の「存在」が、紙の上から、世界から、少しずつ剥がれていくのを、はっきりと感じながら。

それでも私は調査をやめなかった。
怖かった。確かに。けれど、それ以上に、引き返せないほど花のことが頭から離れなかった。

気づけば、日々の記憶が穴だらけになっていた。朝起きたはずなのに、どうやって服を着たのか思い出せない。研究室に来たのに、誰とも会話した覚えがない。ノートに残された自分の筆跡すら、どこか他人のように感じる。

夜、眠ると決まって夢を見る。
あの温室。月の光に濡れる葉。閉ざされたガラスの奥で咲く、一輪の花。

私は夢の中で、それを何度も見つめる。けれど、見るたびに花の形が少しずつ違う。色も、匂いも、声も変わる。
そう、声だ――その花は、私に話しかけるように、そっと囁く。

「あなたは誰……?」

目覚めるたびに、自分の輪郭が滲んでいる気がした。
ふとした瞬間に、指が透けて見えるような錯覚。影が、ほんの少し遅れて動く違和感。
鏡を見ても、自分の目がどこかぼやけていて、焦点が合わない。

「私って……こんな顔だったっけ?」

考えるたびに、答えが遠ざかっていく。

ノートの余白に、自分の名前を何度も書いて確かめる。
けれど文字はすぐに薄れ、消えてしまう。誰かが消しゴムでこすったかのように。いや、最初から書いていなかったのかもしれない。

何が現実で、何が夢なのか。
何を知っていて、何を知らなかったのか。
自分は確かに「ここにいる」と思っていたのに、周囲の空気が私の存在をすり抜けていく。

まるで、世界の裏側に立ってしまったような感覚。
生者でもなく、死者でもなく、ただ“ここにいない”誰かになっていく。

でも、それでも私は止められなかった。
あの花を、もう一度、見なければならなかった。
そうしなければ、自分が本当にここにいたということさえ、証明できない気がして。

私は足を引きずるようにして、温室の奥へと進んでいた。
もはや、どうやってここまで来たのかも覚えていない。ただ、その花が“私を呼んでいる”ことだけが確かだった。

──その花は、深紅とも紫ともつかない、曖昧な色をしていた。

夜に溶けた血のようでもあり、見てはいけない夢の色でもあり。
それはただそこに在るだけで、周囲の空気をゆっくりと歪ませていた。まるで花の周囲だけ、時間の流れが異なっているようだった。

私はゆっくりと近づく。呼吸が浅くなり、足元がふらつく。

鼻先をくすぐったのは、熟れすぎた果実の甘やかな匂い──だが、それに続いて、鉄錆にも似た、生臭い香りが鼻腔を刺す。
それはまるで、誰かの記憶の腐臭。
花が誰かの“思い出”を食べている気配を、私は確かに感じた。

それでも目が離せなかった。
見つめてはいけない。わかっているのに、まぶたが閉じられない。
気づけば、私は花の前に膝をつき、顔を近づけていた。

──あなたは誰?

その声は、私の内側から聞こえてきた。頭の奥で響いているのに、意味がうまく掴めない。
何度も聞かれている気がする。同じ問いを、私は夢の中で、何度繰り返されてきた?

私は……誰?

その瞬間、花びらがひとひら、ゆっくりとほどけた。
まるで私の答えを待っていたかのように。
その動きに合わせて、胸の奥にあった“何か”が、静かに抜け落ちていく感覚がした。

ああ、これはたぶん、
私の名前だ。

このままでは、私が私でいられなくなる。
私という輪郭が、じわじわと滲んでいく。
名前も、記憶も、肌の感触さえも、闇の中に溶けていくようだった。

それは恐ろしい感覚だった。けれど、それ以上に──安らかだった。
まるで、母胎に還るような安堵。
時間も、痛みも、言葉も存在しない、柔らかな静けさ。

このまま、ここにいたい。
このまま、この花の中に溶けてしまいたい。
私であることをやめてしまえば、きっと、すべてが楽になる。

そう思った瞬間──私は走り出していた。

自分の意志だったのか、身体の本能だったのかはわからない。
ただ、ひたすらに温室から逃げ出した。
ガラス戸にぶつかりそうになり、鉢を倒し、足元のホースに足を取られて転びかける。
でも、それすらどうでもよかった。

ただ、逃げなければいけなかった。
花の影から。あの色から。あの囁きから。

夜の風が、肌をひりつかせる。
その痛みが、私がまだ「ここにいる」ことを教えてくれた。

私はまだ、私でいられる。

そう思った瞬間、ようやく涙があふれた。
安心ではなく、絶望に近い涙だった。

──私は、私のまま、いなければならないのだ。

私は、それからしばらく温室には近づかなかった。
夜ごとに夢に咲く、あの色のない深紅の花。
目覚めるたび、名前のわからない誰かの記憶がふと脳裏をかすめる。けれど、それもすぐに霧のように消えてしまう。

授業に出て、友人と他愛のない話をして、実験室で土に触れる。
指先に残る土の匂いが、まだ私が“こちら側”にいることを教えてくれた。
最初は誰かと話すことも億劫だったけれど、日が経つにつれて、少しずつ笑えるようになっていった。

私は、少しずつ、私を取り戻している。

それでも、何かが欠けたままだ。
人の名前をど忘れしたり、鍵をどこに置いたか思い出せなかったり──そんな些細なことでも、ふと「花」が脳裏をよぎる。

あの花は今も、あの場所で静かに咲いているのだろうか。
誰かの記憶を食べながら。あるいは、今も誰かを呼んでいるのだろうか。

時々、思い出す。
あの、深紅とも紫ともつかない色。あの甘い匂い。あの問いかけ。

──あなたは、誰?

私は、ちゃんと答えられるだろうか。
いや、それでもいい。
今はただ、目の前の小さな花に水をやる。確かなものに触れながら、生きていこう。

それが、きっと「私」を取り戻す唯一の方法だから。

あの夜以来、私はもう一度も温室にはまだ足を踏み入れていない。
それでも、朝の光が差し込むたび、私はそっと窓の外を見る癖がついた。
向こうの並木道を越えた先に、あの温室のガラスの屋根がかすかに見える。
風が吹くと、その屋根がきらりと光る──まるで何かが「ここにいる」と告げているように。

講義に集中できる日もあれば、ぼんやりと誰かの名前を忘れてしまう日もあった。
ノートに書いたはずの文章が、翌日には読めないほど崩れていたり、
レポートの締切を一日勘違いしていたり。
そんな自分に戸惑いながらも、「これくらい誰にでもあることだ」と心の中で呟いてやりすごす。

研究室では、植物たちは何も言わず、いつも通りに葉を伸ばしていた。
それが、何よりの慰めだった。
特に、白いカスミソウ。
私が世話をしている鉢のひとつが、ある朝、小さなつぼみをつけていた。

「咲くかな……?」

つぶやいた声が、自分のものとは思えなかった。
どこか遠くの誰かが言ったような──あるいは、花自身が呟いたような、そんな感覚。

花が咲く。それは本来、よろこびのはずだった。
でも、私は怖かった。
もし、白い花びらの中に、あの闇のような色を見つけてしまったら。

──私の中にはまだ、あの花が残っている。
そう感じる瞬間が、ときおりある。
背中をひと撫でされたような悪寒。
誰かに名前を呼ばれた気がして振り返っても、誰もいない。

「大丈夫。私は私。」

そう口にすることで、なんとか自分を保つ。
自分を繋ぎとめる。

それでも夢を見る。
あの温室に戻っていく夢。
そして、あの問いが繰り返される。

──あなたは、誰?

朝、目覚めるたび、私は鏡を見る。
そして、少しほっとする。
顔は変わっていない。
でも、その目の奥に、誰かが潜んでいないとも限らない。

私は今、「私」を取り戻している最中なのだ。
だけど、完全には戻れていない。
いや、戻れる日は来るのだろうか?

そんな問いが、日常の隙間に入り込む。
私はただ、今日もまた小さな鉢に水をやる。
水のしずくが、葉の表面を転がり落ちるのを、静かに見守りながら。

昼休み、構内のベンチに座ってパンをかじっていたときだった。
誰かがすれ違いざまにふと、香水のような匂いを残していった。
甘く、熟れすぎた果実のような、それでいてどこか鉄のような匂い。

──あの匂いだ。

息が止まりそうになった。
思わずパンを握りつぶしてしまいそうになる。
辺りを見回しても、見知った顔ばかり。
けれど誰の背中を見ても、そのうちの一人が今にもこちらを振り返って、
あの花の名を囁いてくるような気がしてならなかった。

それからというもの、日常のなかに“あの気配”を探してしまう。
スーパーで並ぶ果物の山。
赤と紫が入り混じった熟したプラムを見て、立ち尽くす。
通りすがりの公園で見かけた、誰も世話していない鉢植え。
そのつぼみに目を奪われ、「咲く前に摘まなきゃ」と思ってしまう自分がいる。

夜。
眠る前に目を閉じると、すぐにあの温室の静けさが訪れる。
ガラスの壁。土の匂い。
そして、奥の暗がりの中に、じっとこちらを見つめるあの色の塊。
そのとき、耳の奥で、声がする。

──まだ、ここにいるよ。

私は目を開け、ベッドの縁を掴んだ。
鼓動が早い。
何かを引きずるように息をする。
部屋には何もいないのに、どこかに“気配”が残っている。

私は、まだ抜け出していないのだ。
忘れたはずのあの花の匂いも、色も、問いも。
全部、私の中に根を張っている。

そして時々、自分に問いかける。
「私は誰?」
その答えが、以前と同じであるという保証は、もうどこにもなかった。

気づけば私は、足を向けていた。
講義が終わったあと、特に目的もなく歩き出した先が、あの並木道だった。
いつもなら自転車を引いて通り過ぎるだけの道。
でも今日は、なぜかその奥へと、引かれるように。

夕方の風が冷たい。
葉がこすれ合う音が、どこか耳にひっかかる。
“カサ、カサ……”
まるで誰かが後ろをついてきているような、あるいは自分の足音とは別に何かがあるような。

──行ってはダメ。
頭ではそう思っていた。
でも、身体が言うことを聞かない。
あのガラスのドームが見えたとき、私は立ち止まることさえできなかった。

温室の扉は開いていた。
誰かが最近、開けたのだろう。
軋む金属の音。空気の湿り気。
一歩踏み出したとたん、胸の奥が苦しくなった。懐かしさに似た、焦げつくような疼き。
それでも、私は進む。

あの奥に──彼女がいる。

“彼女”? 誰のことだろう。
そう思ったはずなのに、その疑問は霧のように溶けて消えた。

通路を歩く。
葉が触れるたび、肌がざわめく。
遠くで、ポタリ、と水が落ちる音がした。
その音の方へ導かれるように、私は歩いた。

そして、再び、そこにたどり着いた。

あの場所。
あの匂い。
あの、花。

以前見たときよりも大きく、艶やかに咲いていた。
深紅とも紫ともつかない、不定形の色彩。
その中心が、こちらを見つめている気がした。

私は近づく。
なぜ逃げたのかも、思い出せない。
だって──こんなに美しいのに。

花の前で、私は足を止める。
心が静かだ。
まるで、水の底に沈んでいくような、落ち着いた感覚。

それでも、どこかで誰かが叫んでいた。
「行かないで」「戻って」
それは昔の私だ。
私の声だ。

でも今の私は、その声を聞いても、もう動こうとはしなかった。

──だって、ここが私の居場所だもの。

それからというもの、私は毎日のように、あの花のもとへ通った。
講義が終わると、誰に声をかけられるでもなく、私は温室へと足を向ける。
ガラスの扉を開けた瞬間、胸の奥が温かくなる。
空気が違う。音が違う。時間の流れさえ違っているように感じる。

花は、いつもそこに咲いていた。
深紅とも紫ともつかない、あの色。
見るたびに少しずつ姿が違っているような気もした。
けれど、確かにそれは「彼女」だった。

私は、ただその前に座り込む。
何時間そうしているのか分からない。
花から目が離せない。
視界の隅で、何かがゆらめく。
人影かもしれない。記憶かもしれない。
いや、どちらでもない。もっと深い、もっと昔の何か。

ふと、知らない記憶が頭をよぎる。
小さな女の子の手。
風に揺れる麦畑。
誰かに呼ばれて振り返る瞬間。
それは私のものではない──けれど、心地よかった。
まるで自分の内側が満たされていくような。
空っぽだった器に、誰かの“生”が注がれていくような。

境界が曖昧になっていくのがわかる。
私が私でなくなっていく。
それが、ひどく気持ちいいのだ。

友人からの連絡は途絶えた。
アパートに戻っても、部屋はただの殻のようだった。
机の上には開きかけの教科書。
カップの中の水は数日前から減っていない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
私は花のことしか考えられない。

あの花は恐ろしい。
理屈を超えて、魂を蝕む。
けれど、その恐ろしさにさえ、美しさがある。
その中心へと引き込まれていく感覚は、何にも代えがたい快楽だった。

私は知っている。
これは、正しくない。
でも、それでも──私は通い続けた。
あの花が咲くかぎり。
その呼吸が、私の記憶に根を張っているかぎり。

日に日に、私は変わっていった。

指先に、感覚がなくなる瞬間がある。
自分の声が、自分のものではないように響く日もあった。
ふと鏡を覗くと、知らない目がこちらを見返している。
その目は穏やかで、深く澄んでいて──どこか懐かしかった。

私は、もう昔の“私”ではないのかもしれない。
名前を呼ばれても、反応が遅れる。
誰かと話すと、言葉が宙に浮かんでしまう。
記憶が抜け落ちるように、何かが少しずつ削れていく。

それでも、私は怖くなかった。

むしろ、安らかだった。
自分という小さな器を、誰かの記憶が満たしていくたびに、私は広がっていくような気がした。
子供のころの記憶、恋をしていた誰かの思い出、死の間際に見た光景──
それらは私のものではないけれど、確かに私の中で生きていた。

ある日、私は気づいた。
温室の通路の奥、花の根元に、小さな影が立っているのを。
それは私によく似ていた。
同じ制服、同じ髪型。
でも、その顔には、かつての私が持っていた「迷い」がなかった。

その子は微笑んだ。
私も微笑んだ。
そして、その姿は花の影に溶けて消えた。

私という存在は、今どこにあるのだろう。
この胸の奥にある、静かな脈動。
それが、私の「核」なのか。
あるいは、すでに花の一部になってしまったのか。

誰にもわからない。
私にも、もうわからない。

ただ、毎日花のもとへ通い、目を閉じ、記憶の波に身を沈める。
それだけが私の営みだった。
かつて「人生」と呼ばれていたものが、こんなにも静かに、やさしく溶けていくなんて。

──どうして、あの時、逃げてしまったのだろう。
──もっと早く、この場所に戻ってくればよかった。

そう思った瞬間、私はひとつの答えを知った。

ここは、帰る場所だったのだ。

あの日から、私はますます花のもとへ通った。
境界はとうに消え、私の身体は花の中でゆっくりと溶けていくようだった。

記憶は次第に流れ去り、思考は花の波長に染まった。
自分という意識の輪郭はぼやけ、温室の空気と一体になる感覚。
まるで深い眠りの中で夢を見ているような、静かな安心感。

ある夕暮れ、私は温室の片隅に座り込んだ。
そっと目を閉じる。
風が花の香りを運び、色彩が滲んで広がっていく。

そのとき、ふと感じた。
私の「私」はもうここにはいない。
けれど、その消失は悲しくも苦しくもなかった。

まるで長い旅の終わり、
魂がふたたびひとつの「何か」へ還っていくような、
穏やかな解放感に満たされた。

そして、私の身体は溶けて、花の一部となった。
深紅と紫が溶け合うその中心で、私は静かに咲いている。

誰も気づかないだろう。
私の存在の終わりを。
でもそれでいい。

ここが私の帰る場所。
永遠に咲かないことを誓った温室の、禁忌の花のなかで。
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