タトゥーの甘い檻

マリ・シンジュ

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朱(あけ)の予感 ―― 侵食の前夜

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​秋も半ばを過ぎ、夜の空気には物悲しい冷たさが混じり始めていた。
​大学教授の新城は、リビングの照明を落とした室内で、一日の終わりのわずかな空白を埋めるようにベランダへ出た。

テーブルランプが投げかける淡い琥珀色の光が、家具の角を曖昧に溶かしている。それは平穏な日常の風景のようでいて、明日に控えた本格的なタトゥー施術を前に、ひどく不安定な熱を孕んでいた。


​身に纏った白いワイシャツの襟元を少しだけ緩め、アルミのサッシを滑らせる。一歩外へ踏み出すと、微風が薄い生地を透かし、新城の肌を撫でた。
​背後、ソファに身体を預けていた羽生が、視線を本に向けたまま、静かに声をかけてくる。

​「……また吸うの? 先生、さっきから落ち着きなさすぎ。らしくないよ」

​咎めるというよりは、相手の僅かな揺らぎを指先でなぞるような、底の見えない響き。
若く端正な顔立ちの裏に、いつ壊れるともしれない狂気を秘めた青年。新城は振り返ることなくシルバーのケースから一本を取り出した。

​「明日は長丁場になる。……今のうちに、少し落ち着かせておきたいだけだ」

​カチ、とライターが小さな火花を散らす。
新城は吸い口を深く噛み、肺の奥まで煙を沈めた。手すりを掴む指先に、冷えた金属の感触が伝わってくる。新城は吐き出した煙が夜闇に溶けるのを見つめながら、スラックスに包まれた内腿の、あの「黒」が刻まれた場所を意識した。

​あの日、彫師のMariが刻んだのは、まだ輪郭だけだ。
直接触れずとも、神経を研ぎ澄ませれば、あの日刻まれた線の震えが肌の裏側から蘇るようだった。

​新城にとって、この行為は悦楽ではない。
これは、己を「特別」だと信じ込ませなければ理性を保てない、この「怪物」を制御するための対価だ。自分の肌を差し出し、生涯消えない印を共有することで、羽生の孤独を繋ぎ止める――それは一種の重い責任感に近いものだった。

​しかし、その「黒」を自覚するほどに、意識はそこへ流し込まれるはずの「赤」へと引きずられていった。

​明日の施術はシェーディング。針を叩き込み、面を埋める作業。輪郭を引くのとはわけが違う。記憶の中の針は、同じ場所を何度も往復し、逃げ場のない熱を肌の深層へと注ぎ込んでいく。

​骨組みに肉が付き、血が通うように、「赤」が虚白を侵食していく。リボンと孔雀の羽根。線に過ぎなかった図様が、完成の全容を捉えた実体へと一気に引き上げられるのだ。ただの「印」が、圧倒的な質量を持つ「鎖」へと変貌する秒読みが始まる。

​その劇的な変化を予感するだけで、スラックスの奥で内腿が重く疼いた。新城はそれを、施術に伴う生理的な緊張だと自分に言い聞かせ、肺に溜まった熱い煙を深く飲み込んだ。
​タバコの先端が、強く吸い込むたびに赤く爆ぜる。その小さな、鮮烈な光。

​(……この火種のような色が、明日、俺の肌の下で一生消えない熱になる。そうなれば、俺は二度と、あいつを知らなかった頃の自分には戻れない)

​戻れない。それこそが、羽生を安らぎの中に留める唯一の方法なのだ。
​背後で羽生が立ち上がる気配はない。しかし、開いたガラス戸から届く羽生の意識が、目に見えない指先のように新城の項や、ワイシャツ越しに背中へと静かに絡みついてくる。

​「……そんなに真剣な顔してると、僕まで変な気分になっちゃうな。ねえ、本当は楽しみなんでしょ?」

​新城の内心を試すような、甘く毒のある言葉。新城は小さく鼻で笑い、灰皿の縁でタバコを叩いた。

​「……勝手なことを言うな。決めるのはMariさんだ」

​言葉とは裏腹に、喉仏が何かを飲み込むように小さく上下した。逃げ道など、あの日からとうに潰えている。
​最後の一服を押し付けると、火種が消えた。その刹那の消滅が、明日から始まる「赤」への渇望――あるいは、この責任を果たし終えることへの期待を、いっそう鮮烈に際立たせた。

​新城は冷えた指先を手すりから離し、ゆっくりと室内を振り返った。
​薄闇のリビング。ランプの光に縁取られた羽生が、ただ静かに、けれど確信に満ちた瞳で自分を見つめていた。羽生は笑わなかった。

ただ、その瞳の奥には、明日、新城の肌に自分の領土を広げるのを心待ちにしているような、ひどく純粋で深い熱が灯っている。

​「……羽生。ほどほどにしろよ」

「ん。……先生が僕だけを見るまで、ずっと見てるから。逃げようなんて、思わないでね」

​羽生の返答は、どこまでも穏やかで、同時に逃げ場を完全に塞ぐものだった。
​新城は静かに扉を閉める。密閉された室内の暖気が、冷え切った肌を優しく包み込んだ。
ベランダに残してきたのは、紫煙の残り香。
部屋の中に満ちていたのは――これから自分を染め上げる、「赤」への予感だけだった。
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