影武者の天下盗り

井上シオ

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最終章:偽りの果てに咲く

第85話:焚書と秘密の間

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 安土城の奥、ふだん誰も立ち入らぬ文書庫。
 灯された松明の炎が、天井まで積み上がった巻物と帳面の山を照らしている。

 十兵衛――いや、信長として振る舞う男は、ひとりでそこに立っていた。
 

 「すべて焼け、と命じたのは俺だ。だが……本当に、これでよかったのか?」
 

 焚書の命令は、明確だった。

 “信長”の出生、若き日々、桶狭間、比叡山焼き討ち……。
 その全ての記録から、“本物”を追える手がかりを消すため。

 もはや“記録された信長”が生きていては、困る。

 記録の中の信長と、自分とが乖離してしまうからだ。
 

 ――ふと、棚の奥から古い帳面がこぼれ落ちた。

 開くと、そこには子どものような筆跡で書かれた“信長日録”とある。
 

 「これは……?」
 

 手にした瞬間、脳裏に蘇る記憶。

 信長がまだ“吉法師”だったころ、日課として書かされた日誌――。
 

 そこには、武術や学問の記録、家臣への感謝の言葉、そして、母への思慕が、素朴に綴られていた。
 

 「……こんなにも、人間だったのか。あの男は」
 

 十兵衛は言葉を失った。

 自身が作り上げてきた“魔王”信長像とは、まるで違う。
 そこにいたのは、孤独で不器用な少年だった。
 

 彼はそっと帳面を閉じると、棚の奥に戻した。
 ――焼かない。

 焼くには、あまりに“人間”だった。
 

 そのとき、書庫の裏手から音がした。
 抜け道の石壁が、ゆっくりと開く。

 現れたのは――濃姫。
 

 「やっぱり、ここにいたのね」

 「……つけてきたのか?」

 「いいえ。ここは、あの人とよく来た場所。昔から、秘密の書き物はここで燃やしてた」
 

 彼女はすっと歩み寄り、彼の手から帳面を取り上げた。

 「焼くべきだと思う?」
 

 十兵衛は答えなかった。

 濃姫は、優しく微笑んだ。
 

 「あなたが“あの人”じゃないことは、とっくに気づいてる。でもね――私が信じたいのは、“今のあなた”なのよ」
 

 その夜、帳面は焼かれなかった。
 しかし、書庫の他の書物は、ひとつ残らず炎に包まれた。
 

 “信長”とは、記録ではなく、選び取られた記憶である。
 そう、男は自らに言い聞かせる。
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