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第六章 楊麗華と幼妻

第六章 楊麗華と幼妻 七

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 指定日になるとよう家の正門には、次々と軒車けんしゃが寄せられた。
 軒車とは貴族や富裕層が乗る馬車である。装飾をほどこした屋根に加え、周囲に覆いもつけられていて美しい。

 従者たちが、軒車から降りる奥方の姿を庶人にさらさぬように、傘をさしかけつつ絹布で壁を作る。
 その絹壁に守られつつ、全ての夫人が裳裾を揺らして邸内へと入っていった。

 揚家の正妻――太子妃の母でもある伽羅に招き入れられたご婦人方の表情は期待に満ちていた。
 この頃には伽羅の博識は宮中でも知れ渡っていた。
 皇太后が、あちらこちらで伽羅のことを誉めそやしたせいだろう。

 また、夫の爵位、権力、皇帝からの信頼も十分である。
 先頭に立って悪太子を懲らしめるために動いてくれると信じて疑わぬのだ。

「皆様、本日はようこそ揚家にいらして下さいました」

 伽羅は館の女主人として、訪れたご夫人方と挨拶を交わした。
 型通りの挨拶が済むと、早速ご夫人方は熾繁の窮状を訴え始めた。
 この頃、定着していた儒教に照らし合わせても、太子の暴挙は腹に据えかねるものなのだ。

 伽羅はそれを黙って聞くことにした。
 いや、聞くことしか出来なかったのだ。
 ならばせめて、こころゆくまで話させるしかない。
 半刻ほどたって皆の気も収まった頃、伽羅はおもむろに切り出した。

「私も娘を持つ母でございます。ですから、皆様の気持ちは痛いほどわかりまする」

 その言葉に皆は顔を輝かせて次の言葉を待った。
 神々しいほどに美しい伽羅の口から、きっと良い案がこぼれ出してくると期待したのである。

「ですが、陛下に上言することは出来ませぬ。
 また、皆様にも控えていただきたく思っておりまする」

 場が、静まり返った。
 それでも我に返った夫人が一人、伽羅の前に進み出た。

「し、しかし、それではあまりにも酷うございます。
 陛下のお心を戦中に煩わせてはならぬこと、わたくしどもとて、よぉくわかっておりまする。
 ですが、陛下は公正で誠実なお方。
 このような不祥事であれば、お知らせしても私どもに対してお怒りを向けることはございますまい」

「そうでございます。すぐに太子殿下を叱って下さることでしょう」

「わたくしも、そのように思いまする」

「むしろ『知らせたこと』に対して『お褒めの言葉』すらいただけるに違いありませんわ」

 他の夫人たちも口々に賛同する。

「その通りでございます。確かに陛下はそのようなお方。
 なれど、戦は一瞬の判断が命取りとなるのです。
 太子殿下がそのような愚行を行っていると知れば、必ずや陛下のお心はかき乱されることでございましょう。
 また、太子殿下を抑えられるだけの心身共に優れたる重臣を戦場から即刻、戻さねばなりますまい。
 作戦の変更を大きく迫られます」

「それは……しかし、その程度で戦況が大きく変わるものでございましょうか」

 伽羅は、そう言い募る夫人の瞳をじっと見た。

「変わるのでございます。
 夫からのふみを読み解けば、此度こたびの戦いは決して楽観できるものではございません。
 陛下は度々、歩兵を励まして一緒に歩かれることすらあるのだとか。
 しかも、ことはそれだけでは済みませぬ。
 秘密とは漏れ易いもの。
 まして宮殿ではなく、陛下ですら野営の天幕で過す中、この秘密が漏れればあっというまに広がりましょう。
 必ずや尉遅氏の縁者や夫に知らせる者が現れます」

 その言葉に、おそれながら、と一人の夫人が口を開いた。

「それは当然のことでございましょう。
 わたくしとて、せめて縁者に知らせるぐらいはしてあげとうございます。
 あなたさまは……それでは、尉遅氏の縁者にも夫君にも、此度こたびのことは知らせる必要は無いと、そう、おっしゃるのでございましょうか」

「その通りでございます」

 また場が、ざわりと揺れた。

「尉遅氏のご祖父様は天下に聞こえた猛将・尉遅柱国大将軍でございます。
 そして、尉遅氏の嫁ぎ先は陛下の縁戚。多大な影響力を持つ皇族でございます。」

「ですから――――」

 伽羅の言葉を切るように、また一人の夫人が口を開いた。

「その方々にも訴えて、助力を願えばよろしいかと思っているのでございます。
 太子殿下に屈せず、お可哀想な尉遅氏を助けてくださいましょう」

「助力を……で、ございますか。
 残念ながら、助力ではなく離反の可能性が高うございます。
 国のために命がけで遠征をしている最中に、その国の太子が自分の息女、孫娘、妻を寝取る。
 これで国のために忠誠を尽くせましょうか。
 家の面目も丸つぶれです。
 他の将兵たちも同じでしょう。
 我が妻が、娘が、孫が、今にも奪略されて辱められるかもしれぬのです。
 これでは戦に集中などできませぬ。
 散々に打ち負かされて、敗退する可能性も高いのでございます」

 その言葉を聞いて、一堂は静まり返った。
 義憤にかられて揚家にやってきたものの、そこまでは考えが及んでいなかったのだ。

「皆様に問いまする。
 我が国が敗戦国になった場合、国民たち――そして、貴女方の娘様や尉遅氏がどうなるか、ご存知でしょうか」

「それは……」

 夫人たちが口ごもる。

「国民は、財を取り上げられて『奴婢ぬひ』として連行されまする。
 陛下の後宮はもとより、東宮後宮、貴族の館も襲撃されて、女性たちは残らず敵将に分配されることでございましょう」

 ざわり、と、場の空気が揺れる。

 そうなのだ。この時代、敗者の後宮はそっくり勝者のものになる。
 戦勝国の後宮に、無傷で収められて帝寵をたまわるなら、まだマシな方である。戦で成り上がった蛮人の玩具として弄ばれることも、襲撃の際に兵士どもによって蹂躙されることも稀ではないのである。

「どちらかを選ばねばならないのであれば、わたくしは、戦が終わって陛下がお帰りなるのを待ちたいと思いまする」

 その言葉に、ご夫人方はうつむいて頷いた。
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