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第十一章 独孤皇后と二人の乞食女
第十一章 独孤皇后と二人の乞食女 十一
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皇帝堅を追ったのは、禁門近くで皇帝と出くわした重臣の高熲と、その護衛たちであった。
「陛下、お待ちを!
共も引き連れずに、いずこへ行かれるというのでしょうか」
高熲を先頭に、騎馬隊が慌てて追いかける。
皇帝が単騎で駆け去るなどまずないことであったし、はたから見てもその取り乱しようは尋常ではなかったのだ。
山中にてようやく追いつき、高熲がその前方に回り込むと、皇帝堅は観念したのか馬を止めた。
高熲はいったん馬を降りた。そして刺激せぬように気を付けながら、呆然とたたずむ皇帝賢の馬のくつわをとった。
「陛下、余程の事がおありだったのでございましょう。
ですが、間もなく日が暮れてまいります。
このような場所であれば、獣も出て危のうございます」
高熲が声色柔らかく語り掛けるが、皇帝は首を横に振るばかりだ。
「陛下、そうは仰られても慌てて追いかけましたので、臣は火を起こす道具を持ち合わせてはおりません。
それでも戻らぬとおっしゃるのでしたら、せめてわけをお聞かせいただけないでしょうか」
皇帝はしばらく黙り込んでいたが、とつとつと仔細を語り始めた。
その目には涙が浮かんでいた。
「なるほど、確かに皇后さまのなされようはいかがなものかと思いまするが、とにかく一度宮殿にお戻り下さいませ。
きっと今頃、皇后さまも行き過ぎを反省し、陛下の身を案じておられることでしょう」
楊堅は、高熲の言葉もあまり耳に入って無いようで、ただただ、ため息をついて肩を落とした。
「朕は国内で最も尊い身分であるのに、泣き濡れる娘を慰める自由すらないとはどういうことなのだろう。
いっそ、このまま出家して、若くして命を落としたあの女人を自らの手で弔ってやろうかと思う」
と、呟いた。
どうやら楊堅は、彼なりに尉遅熾繁を愛し、慈しんでいたつもりのようであった。
彼女の涙を見て『誰が』彼女の一族を殺したかも知らず、寵愛して慰めようと思ったらしい。
それがかなわぬのなら、せめて出家してその霊を慰めようというのか。
先の武帝(宇文邕)は、仏教の大弾圧にいそしんでいたが、ひるがえって皇帝賢の時代には、仏教を手厚く保護していた。
元々、楊堅が産声を上げたのも仏寺なら、乳母も仏尼である。
楊堅自身は取り立て仏教に傾倒していたわけではなかったが、爆発的に広がっていったのを見てもわかるように、過度に傾倒しさえしなければ、仏教は素晴らしい教えなのだ。
また、為政者としての視点から見ても、仏教は都合が良かった。
多民族をまとめ上げるには大変な力量がいるが、質の良い宗教を使って民の心を一つにするのは有効な方法の一つである。
それがために三男が仏教に傾倒しすぎたのは計算違いであったが、楊堅の、仏教を重視した政策は上手く機能し『仏教治国策』とまで称せられていた。
しかし楊堅ほどの人物であっても、国策としてではなく、なりふり構わず御仏に縋りたくなることもあるようだ。
ここが宗教の恐ろしいところである。
「御仏の教えに従えば、俗事から解放され、心やすらかな日々を送れるという。
譲位して太子に国を任せたいと思う」
そう言うのだ。
帝位を捨ててまで出家を望む皇帝に、高熲は申し述べた。
「恐れながら太子殿下はまだお若く、陛下に比類する仁徳を備えるには、それなりの『時』が必要かと存じまする。
また、たかが『一人の婦人』を亡くしたために『天より与えられた使命』を軽々しく捨て去っては後世の識者たちがどのように陛下のことを書き立てまするか。
それを想像しますと、臣の胸は痛み、悲しみにたえないのございます。
どうか頼りなき人民をお見捨てなきよう、伏してお願いつかまつります」
楊堅はそれを聞いてしばらく考え込んだ。
そうして大切に握っていた一筋の髪を脇に置くと、おもむろに石で土を掘り始めた。
高熲もそれを止めることは無かった。
ややあった後、楊堅は名残惜し気にその髪を見つめた。
そして土中に髪を埋めて石を据え、手を合わせた。
「許せよ。朕にはまだやるべきことがある。
今の勇にはまだ皇帝は務まらぬ。朕が治めねば国は荒れるであろう。
そして皇后は……あのようなことをしでかしたとしても、やはり特別な存在なのだ」
楊堅は長い祈りをささげた。その間にどんどん冷静になっていった。
長子である楊勇は、才はあるものの放蕩で礼を失している。まだまだ目を光らせておかねばならぬ。
さもなければ、皇后を五人も同時に立てた悪皇帝のようなふるまいに及ぶやもしれぬ。
到底任せられる器ではない。
それに史書を好む楊堅である。
『禅譲を受けたにもかかわらず、一婦人のために、天より与えられた使命を投げ捨てた皇帝』
と、後世の笑いものになることについても流石にためらわれたようだ。
高熲が言ったその『一婦人』とは、殺された愛妾・尉遅氏のことを差していたのだが、この言は後に、違う意味合いで皇后のもとに『讒言』として伝えられることとなる。
「陛下、お待ちを!
共も引き連れずに、いずこへ行かれるというのでしょうか」
高熲を先頭に、騎馬隊が慌てて追いかける。
皇帝が単騎で駆け去るなどまずないことであったし、はたから見てもその取り乱しようは尋常ではなかったのだ。
山中にてようやく追いつき、高熲がその前方に回り込むと、皇帝堅は観念したのか馬を止めた。
高熲はいったん馬を降りた。そして刺激せぬように気を付けながら、呆然とたたずむ皇帝賢の馬のくつわをとった。
「陛下、余程の事がおありだったのでございましょう。
ですが、間もなく日が暮れてまいります。
このような場所であれば、獣も出て危のうございます」
高熲が声色柔らかく語り掛けるが、皇帝は首を横に振るばかりだ。
「陛下、そうは仰られても慌てて追いかけましたので、臣は火を起こす道具を持ち合わせてはおりません。
それでも戻らぬとおっしゃるのでしたら、せめてわけをお聞かせいただけないでしょうか」
皇帝はしばらく黙り込んでいたが、とつとつと仔細を語り始めた。
その目には涙が浮かんでいた。
「なるほど、確かに皇后さまのなされようはいかがなものかと思いまするが、とにかく一度宮殿にお戻り下さいませ。
きっと今頃、皇后さまも行き過ぎを反省し、陛下の身を案じておられることでしょう」
楊堅は、高熲の言葉もあまり耳に入って無いようで、ただただ、ため息をついて肩を落とした。
「朕は国内で最も尊い身分であるのに、泣き濡れる娘を慰める自由すらないとはどういうことなのだろう。
いっそ、このまま出家して、若くして命を落としたあの女人を自らの手で弔ってやろうかと思う」
と、呟いた。
どうやら楊堅は、彼なりに尉遅熾繁を愛し、慈しんでいたつもりのようであった。
彼女の涙を見て『誰が』彼女の一族を殺したかも知らず、寵愛して慰めようと思ったらしい。
それがかなわぬのなら、せめて出家してその霊を慰めようというのか。
先の武帝(宇文邕)は、仏教の大弾圧にいそしんでいたが、ひるがえって皇帝賢の時代には、仏教を手厚く保護していた。
元々、楊堅が産声を上げたのも仏寺なら、乳母も仏尼である。
楊堅自身は取り立て仏教に傾倒していたわけではなかったが、爆発的に広がっていったのを見てもわかるように、過度に傾倒しさえしなければ、仏教は素晴らしい教えなのだ。
また、為政者としての視点から見ても、仏教は都合が良かった。
多民族をまとめ上げるには大変な力量がいるが、質の良い宗教を使って民の心を一つにするのは有効な方法の一つである。
それがために三男が仏教に傾倒しすぎたのは計算違いであったが、楊堅の、仏教を重視した政策は上手く機能し『仏教治国策』とまで称せられていた。
しかし楊堅ほどの人物であっても、国策としてではなく、なりふり構わず御仏に縋りたくなることもあるようだ。
ここが宗教の恐ろしいところである。
「御仏の教えに従えば、俗事から解放され、心やすらかな日々を送れるという。
譲位して太子に国を任せたいと思う」
そう言うのだ。
帝位を捨ててまで出家を望む皇帝に、高熲は申し述べた。
「恐れながら太子殿下はまだお若く、陛下に比類する仁徳を備えるには、それなりの『時』が必要かと存じまする。
また、たかが『一人の婦人』を亡くしたために『天より与えられた使命』を軽々しく捨て去っては後世の識者たちがどのように陛下のことを書き立てまするか。
それを想像しますと、臣の胸は痛み、悲しみにたえないのございます。
どうか頼りなき人民をお見捨てなきよう、伏してお願いつかまつります」
楊堅はそれを聞いてしばらく考え込んだ。
そうして大切に握っていた一筋の髪を脇に置くと、おもむろに石で土を掘り始めた。
高熲もそれを止めることは無かった。
ややあった後、楊堅は名残惜し気にその髪を見つめた。
そして土中に髪を埋めて石を据え、手を合わせた。
「許せよ。朕にはまだやるべきことがある。
今の勇にはまだ皇帝は務まらぬ。朕が治めねば国は荒れるであろう。
そして皇后は……あのようなことをしでかしたとしても、やはり特別な存在なのだ」
楊堅は長い祈りをささげた。その間にどんどん冷静になっていった。
長子である楊勇は、才はあるものの放蕩で礼を失している。まだまだ目を光らせておかねばならぬ。
さもなければ、皇后を五人も同時に立てた悪皇帝のようなふるまいに及ぶやもしれぬ。
到底任せられる器ではない。
それに史書を好む楊堅である。
『禅譲を受けたにもかかわらず、一婦人のために、天より与えられた使命を投げ捨てた皇帝』
と、後世の笑いものになることについても流石にためらわれたようだ。
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