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私だけの、先生
しおりを挟む「あ、先生。私、来月の十八日、結婚式なのでおやすみをください」
新色のリップを既存のものと入れ替えている時、何気なしに言った言葉。この一言で私達の関係はかわってしまった。
□□
美羽がこの業界に憧れたのは、ある一人のアーティストのステージを見たからだ。百貨店の特別ステージで、新進気鋭のアーティスト『シン』が行ったメイクアップショー。
その時の興奮を美羽は五年経った今も忘れられずにいた。
ショーの内容は、観客の中からランダムに選んだ一般の女の人を変身させるという如何にも在り来りの物だった。一度見てみたらいいという恩師の勧めもあったが、どうせ代わり映えのしないものだろうと思っていた。
しかし、美羽の考えは一瞬にして覆された。
選ばれた女性は、一瞬にして、艶やかで、けれども清潔感もある、美しい人に変貌した。女性の形の良い瞳を際立たせ、かつやり過ぎない。流行りをおうだけでなく、その人個人に何が似合うかが計算され尽くした絶妙の仕上がりだった。
たかがメイク。されど、メイク。
美しく変わった女の人は、隣の男性と照れくさそうに笑っていた。その笑顔は隣の男性だけではなく、女の美羽でも見惚れてしまうものだった。
シンのメイクには力があった。
「美羽、リップCの970番」
「はい!」
そして美羽は、様々な縁もあり、現在シンの下でアシスタントをしている。シンは言わずもがな超有名メイクアップアーティスト。どの業界からも引っ張りだこだ。しかし、今はここ『AGEプロダクション』のお抱えに近い。それは、シンの手癖の悪さにも関係していた。
「美羽、シャドウ。210番」
「はい!」
ごつごつとした大きな先生の手のひらに、指定された番号のシャドウを乗せる。間違えると投げ返されたが、今はそんな事もほぼ無くなった。
化粧品の品番とモノを一致させることに最初は苦労していた。けれども、美羽の血のにじむような努力とシンの根気強い指導で、美羽は誰もが認めるアシスタントとして成長した。
「洋子さん、今日も綺麗だよ」
「ありがとう、やっぱり私の好きなブランドは発色がいいわ」
(それ、安価ブランドなんだけどね)
最初に指定された口紅の『C』は、有名ブランドではない。もっと安価でドラッグストアにも売っているものだ。三国洋子が口にしたブランドの化粧品は『CH』と指定される。
今シンが担当している女優の三国洋子は、大のブランド好き。何から何までハイブランドのものを指定する。がしかし、シンはそれを知っていながら、違うものを美羽に指定する。その方が三国洋子に似合うと判断したからだ。
CとCHは美羽とシンの……二人だけの合言葉だった。
満足そうに鏡を覗く三国洋子に、美羽は胸をなで下ろした。分かってはいたが、この瞬間はいつだって美羽の胸を嫌な意味で高鳴らせた。
「ねえ、シン。いつもの、お願い」
「はい。洋子さん」
その瞬間を見たくなくて、美羽は目を逸らす。狭いメイク室の中、白いライトに照らされたシンと、三国洋子。
美羽の存在など、空気を漂う塵のようだ。誰も、気にしない。在ることすら知られていない。
美羽の気持ちなど知らない二人は、ゆっくりと唇を重ねた。
「シン、それだけなの?」
「洋子さんのファンに叱られます。これは、キスじゃない……洋子さんをより良く美しく、より魅力的に仕上げる僕のテクニックです」
「……ほんと、ひどいおとこね」
ドラマのような濃厚なキスではない。軽く触れる程度のものだ。しかし美魔女と呼ばれる大女優と、男の人にしては線が細く色の白い中性的なシンが唇を合わせるだけで、ひどく倒錯的なものに見えた。
シンと三国洋子の世界に、美羽が入ることは出来ない。静かに見守る黒子に徹するのみ。現在のシンは、AGEプロ所属の三国洋子のお抱えメイクだ。この「塗りすぎたリップを拭う技術」も、三国洋子のみに発揮されていた。
「いつか、シンの本気のキスを味わってみたいわ」
「……洋子さん、もう一度言います。これは、キスではありません。僕の技術ですよ」
遠回しに拒否をするシンは、女優顔負けの美しい笑みを浮かべていた。三国洋子も、美羽もそれに見惚れる。
「わかった。あまりしつこくしてキスしてもらえなくなったら、私も困るわ」
そのタイミングで、テレビ局スタッフが「時間です」と、三国洋子を呼びに来た。またよろしくと言って立ち上がる三国洋子は、妖艶で匂い立つ色気を携えていた。これとひとえにシンの技術のお陰なのかもしれない。
「では、また……洋子さん……」
後ろ姿しか見えないが、シンは泣いている。いつも美羽はそう思っていた。
のし上がる為なら何でもするとシンが以前言っていたことを美羽は思い出した。理由は教えてもらえなかったが、その時のシンの表情は言葉で言い尽くせないほどの辛さを抱えているよう見えた。
「もっと、もっと有名になるんだ」
それがシンの口癖だ。
重なる唇も、そのためなんだと。
様々な化粧品やその荒れた手で唇を拭ったシンに、美羽の想いは師弟愛を超えた。
「先生、ウエットティッシュ使いますか?」
「ああ。美羽、悪いな」
最初は心を痛めたシンのキスシーンも時の経過と共に慣れてしまった。二人きりになった瞬間、美羽はウエットティッシュを一枚渡す。なれた手つきで先生は唇を拭った。
一刻も早く三国洋子を落としてほしい。
親切でも何も無い。このウエットティッシュは、美羽の小さな抵抗だった。
シンは所作も美しい。ウェットティッシュで唇を拭う動作すら、隠せない高貴さが滲み出ている。シンが羽織ればファストブランドのシャツもハイブランドに様変わりだ。シンが、のし上がる事を望むのは、この辺りに関係しているのかもしれない。美羽はそう結論づけていた。
シンのことを美羽は慕っている。けれども、美羽はシンが望むものを与えられない。それならばと、辛くても何があってもそばに居ることを美羽は選んだ。色とりどりの化粧品とメイク道具をボックスに片付けながら、美羽はまた自分を戒める。シンの下について、三年。美羽は片時も離れる事なくシンのそばに居た。気に入らないと演者に怒鳴られた時、映画の専門キャストに選ばれた時。
時には現場で大雨に降られ、帰宅することができなかった時もあった。何とか取れたホテルで、泊まったこともある。しかも、ダブルベッド。シンは濡れたTシャツを無造作に脱ぎ捨て、顔に似つかわない逞しい身体を露わにした。そして、一つしかないベッドで二人身体を寄せ合って眠った。緊張のためか美羽はほとんど眠れなかった。
これだけ語ると、二人は身体の繋がりがあるように思えるだろう。しかし、現実は違う。シンがのし上がるために、美羽は必要のない存在だ。そのため、そういった関係は無い。悲しいほど、美羽は対象外だった。
胸板の厚さも、腕の温もりも、寝起きの悪さも、柔らかい髪質であることも、毛穴一つ見当たらない肌であることも。
ただのアシスタントでは知り得ないことを美羽は知っていた。けれども、唯一知らないことが、シンの唇だった。
けれども、欲張ってはいけない。
そばに居ると決めた。
「あ、先生。来月の十八日、結婚式があるのでお休みをください」
「……え? 美羽が……?」
「はい。もだもだしていましたけど、やっとに決まったんです。親と友人だけのささやかな式ですが、当日私も頑張らないといけないんです」
粗方の道具を片付け終え、美羽はシンに声をかけた。忙しい業界である故、休みの申請は早めにしないと色々な人に迷惑を掛けてしまう。シンのアシスタントになってから、美羽は休みの申請をしたことが無かった。しかし、今回は大切な親友の結婚式だ。長く付き合っていたが、何度か離れていた時期もあった。けれども、めでたくゴールインとなったのだ。
新郎も友人ということもあり、ふたりの門出に美羽は浮き足立っていた。美羽がこの業界で働いていることを親友は知っている。そのため、是非にと美羽にメイクを依頼してきたのだ。
「先生、結婚式のメイクっていうと少し派手なほうがいいですよねえ?」
「……美羽が、メイクするの?」
「あ、未熟だって言いたいんですか? 確かにその通りですけど……。でも、私がやりたいんです!」
絶対に!と、美羽は拳を握りしめる。
熱意が伝わったのか、シンは目を見開く。色素の薄い虹彩が、メイク室のライトに照らされてキラキラと光る。瞳すら美しいのかと、美羽は見惚れてしまった。
「……美羽が……そう……分かった。じゃあ、僕が今教えてあげるよ」
「え?」
「二時間位余裕があるから……座って?」
三年そばにいて、シンがメイクを施してくれることは初めてだった。美羽は少し、いや大いに浮き足立っていた。相談してよかった!と、美羽の口元が緩む。
「……ドレス? 着物?」
「あ、ドレスです。白だけだったんですが……私のゴリ押ししてもう一着。アシンメトリードレスで、ブルーとライトグレーの! スタイリストさんのコネ、使っちゃいました! 本物のパールが縫い付けてあるんですよ……!」
一着でいいという二人に、美羽は一肌脱いだ。この業界で働くというコネを最大限使用し、人気の最先端ドレスを格安でレンタルした。二人の門出に少し早いが、プレゼントとして、親友にも既に伝えてある。もちろん着付けも美羽が行う予定だ。
「……そう。知らなかったよ」
「えへへ。内緒だったので。もし先生に言ったら、全面協力してくれるじゃないですか」
それだと意味が無いので。と美羽は言い切った。
ケープをかけられメイクを施される自分の頬は、はしゃいだせいか、チークを塗ってもいないのに赤らんでいる。ここの所、二人の嬉しそうな笑顔を思い出す度に、だらしなく頬が緩んでしまう。そんな美羽を横目に、シンのメイクは静かに進んでいく。珍しく無口なシンに、美羽はどうしたのだろうと思いつつも、話しかけずにはいられなかった。
「やっぱりベースはしっかりとした方がいいですか?」
「チークは……」
「シャドウはゴールドにしようと思うんですが……」
美羽は気になることを都度質問する。しかし、等のシンは、「ああ」だの「そうだね」など……気のない返事のみ。シンの様子に、美羽は自分がなにかしたのかと段々と不安になっていく。いつも笑顔で怒り顕にすることなどないシンが、何の感情も表情に浮かべていない。粛々とメイクが進められていく。美羽は段々と口数が減っていった。
そして、最後にリップを塗る時、シンに顎を持ち上げられる。
「薄く唇を開いて。……そう上手だ」
俯いていた顔を上げられると、シンの顔が思いのほか近くにあった。薄い虹彩に吸い込まれそうな美羽は、耐えきれず目を瞑る。
「青のドレスならば、思い切ってリップの色を濃くするといい。深いボルドー……美羽に良く似合う」
リップブラシが唇の上を滑らかに踊る。時折触れる、シン指先が美羽の心臓を踊らせた。頬をかすめる吐息が、チークで色づいた頬を更に色づかせる。
「……少しつけすぎたね」
気がついた時には、美羽の唇はシンのもので塞がれていた。
美羽の唯一知らない唇だった。
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