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残念王子の名に偽りなし
しおりを挟む「……っ」
ツキン、と下腹部に軽い痛みが走る。気のせいかと思って、パソコンに向かう千花だったが、時間の経過とともにギュウッと締め付けられるような痛みに変わる。
まさか?と思ったが、鞄の中から朝直哉から受け取ったお気に入りの赤いポーチを取り出し千花は慌ててトイレに向かった。
……本当に当たるし。
直哉の予想した月一の憂鬱デイは、見事に言い当てられた。ザーッと電子の流水音にもかき消すことのできない溜息が千花の口から漏れる。締め付けるような腹痛は、自覚とともにますます酷くなって行く。
「……あぁ、最悪」
手を洗いながら漏れた言葉は、広いトイレに吸い込まれた。何とも言えない身体の重だるさ、急転直下な仕事へのやる気、そして……。
顔を上げれば、洗面台の鏡に映る自分と目が合う。眉は下がり、何処と無く化粧のノリも悪い。仕事のために括られた髪の隙間から、昨日直哉から送られたピアスが薄暗い海を主張するかのようにゆらゆらと揺れている。
「……なんで」
昨日、感じた直哉への猜疑心。ほんの小さな……些細な事だったが、一度表に出てきてしまったら、もう隠すことはできなかった。
確かな約束がないままの、曖昧な直哉と自分と……。
「だめだ。仕事しよう」
考え始めると無限ループに入り込みそうだと感じた千花は、流水によって冷えた手で、頬を二回叩く。血色の悪い顔が少し引き締まったのを感じ、憂鬱な気持ちを振り払うようにに柔らかい髪を靡かせ、千花はその場を後にした。
「塚本さん、人事の橋本さんからお電話が」
「はい。三番回してください。……はい、お電話変わりました……」
トイレに立った時に痛み止めを飲んでおくべきだった。
自身のデスクにかかってきた電話を取りながら千花はそんな事を考えていた。ズキズキと痛む腹部に千花は手を当てる。そんな事をしても痛みはちっとも良くならないが、何もしないよりはマシだった。
電話対応や雑務に追われ、そして悪い事に、痛みと貧血も相まって、パソコンの画面すらもチラついて見える。
「はい。わかりました。……今日の十五時からでよろしいですか?はい、はい。よろしくお願い致します」
相手が受話器を下ろす音を聞いて、千花は自分の持っていた受話器をゆっくりと下ろす。無意識に、ふ、と小さな溜息が漏れる。それを隣で聞いていた後輩が千花のデスクに身体を寄せて声をかけてきた。
「千花さん、大丈夫ですか?二十日の締日近いのに……。それに渡辺さんの尻拭いまで」
「うん。私今回ほとんど纏めてあったし。定時で帰るよ~!ありがとう、透子ちゃん」
「それならいいんですが……。それにしても昨日の甲斐性なしの件、笑っちゃいましたー!」
「でしょー?我ながらよくやったと思うの」
ふふふ、と笑う千花にいつもの覇気がないことに透子は気がついていた。そんな千花の顔を覗き込むように透子が更に身体を寄せてきた。
「何?何よ?」
「顔色、悪いですよ」
「……やっぱり?」
冷たい刺激だけでは足りなかったか。そんな事を思いながら千花は自身の頬に手を当てる。先程から存在を存分に主張する腹痛さえ良くなれば少しはマシかもしれない。そんな風に思った千花は、身体を丸めて、自身の鞄の中からポーチを取り出そうとした。
「つかもとー」
よっこらしょの掛け声と共に屈んだ千花の背中に、聞きたくもない声がかけられる。
透子の「げっ」という呟きを耳にして、後ろにいる相手が件の渡辺である事を千花は確信した。相手に聞こえないように小さく息を吐いて、千花は身体を起こした。取り出そうとした赤いポーチは、結局取れずじまいだった。
「……なんでしょう」
「ちょっと聞きたいんだけど、営業から頼まれてた物品の依頼リスト……知らない?」
何の悪びれもなくそう言った渡辺に、千花だけでなく、隣にいた透子まで口をあんぐりと開けて固まってしまった。渡辺の代わりに人事の橋本は説明をしたのはその為では無かったのではないか?あの忙しそうな昨日の電話はなんだったのか。千花の頭の中に様々な疑問が一気に湧き出てくる。
自身一人での判断は困難として、千花はぐるりと周りを見渡す。
今日に限って課長は有給、係長(女性)は、子供が発熱のため早退していた。そして主任は、ハローワークやら、印刷所などの外回り。恐らくそのタイミングを狙って渡辺は千花に声をかけてきたのであろう。自身のミスを隠すために。
「……知りません」
「じゃぁ、営業に連絡して聞いてもらってもいい?」
その言葉に千花のイライラ値が上昇する。同期という気安い仲でありつつも、千花は千花なりに渡辺に仕事の面では丁寧に接してきたつもりだった。(多少の毒舌はあれども)
「それって私に罪をかぶれって事ですか?」
「いや、そういう訳じゃ。俺が探している間に誰かが聞いた方が効率がいいかなーって」
如何にもな理由を述べているようだが、千花の言ったことが全てだと周りの誰もが思っていた。
「渡辺、塚本に押し付けるな。今日の代理は主任だから。連絡するから待ってろ」
「え、でも……」
「期限はいつだ。確か来週の伝達会と展示会で使う物品だろ?今日はもう木曜だ。今日明日で集められるのか?」
二人のやりとりを聞いていたのだろう。千花と同じデスクの二つ年上の男性社員が受話器を持ち上げ、そう口にする。自分が思っていたよりも大事になったのか、渡辺が目に見えて慌て出す。それを見て、助けてやるべきだったかとも一瞬仏心を出しそうになったが、一度それを許してしまうと今後も同じような事に巻き込まれるかもしれないと考え、千花はぐっと堪えた。
「マジかよ~」
ぽつり、と呟いた間延びした渡辺の声に、千花のイライラ値と腹痛は頂点に達した。
「まじ、ウザい」
ぽそり、と呟いた言葉は毒舌でも正論何もない、ただの悪態。恐らく渡辺には聞こえていないだろうが、何かが聞こえたのだろうか、渡辺が千花の方に振り返る。
「ん?あ!塚本もけちぃよなー!素直にいいよって言ってくれればいいのに!そんな風に堅物だと、甲斐性なし男ですら逃げちゃうぞー!」
千花の両肩にぽん、と手を置かれて、タダでさえ月一のもので寒気のする千花の身体にぞぞぞ、と悪寒が走る。思わず乗せられた手を振りほどこうとした所で、渡辺は先程の男性社員に呼ばれて、すぐに手は離された。
「ほんと、何なんですかね……気持ち悪い」
透子が大丈夫ですか?と声をかけつつ、千花の肩に手を乗せる。渡辺に乗せられた時とは違い、透子の手は暖かかった。
「ん、ありがとう……」
「こんな日は早く帰って、大好きな彼氏さんにあっためてもらいましょ?」
そう言って透子なりの気遣いを浮かべた笑みに、千花は弱々しく笑みを返した。
「うん……そうだね」
何と無く直哉の事を思い出したくなかったが、透子の優しさを無下にするわけにもいかず、千花は透子の話に相槌を打つ。
「でも、千花さん長いお付き合いですよねー?六年?七年でしたっけ?長くなるとマンネリ化して、『好き』とかの言葉、無くなったりしませんか?」
「あぁ、うちは……」
あんまりそういうのは無いな……。と返答しようとした時、千花はふと何かに気がつく。
「あれ?」
「どうしました?」
千花ちゃん、千花ちゃん。
かわいいね。
チョコレート色の瞳を細めて笑い、そう言う直哉の姿を思い出し、千花は六年間の出来事一つ一つをゆっくりと思い返す。
「千花さん?ちかさーーーん?」
私、『好き』って言われた事、無い。
衝撃の事実に、千花の身体から血の気が抜けていく。椅子に座っていなければ、そのまま倒れていたかもしれない。背もたれに身体を預け、荒くなりそうな息を必死で整える。記憶を遡って思い出してみるが、直哉からその言葉が出てきたことは、一度だって無かった。
あの直哉が、好意もない人間と六年も一緒にいるとは思えない。けれども、言葉が何もない事に千花は思いの外ショックを受けていた。少し伸びた前髪を搔きあげ、ふぅ、と長く息を吐く。落ち着け、と自分に必死に言い聞かせながら。
「千花さん?千花さん?」
どこか遠くで聞こえていた透子の声で千花は我に返る。慌てて声の方向に身体を向ける。
「あ、ごめんね」
「ホントに大丈夫ですか?顔、真っ青ですよ」
「うん、今生理で。薬飲むから」
無理しちゃダメですよ、と透子の心配に、千花はありがとうと言葉を返す。そう言ってカバンから赤いポーチを取り出し、中から即効性の鎮痛剤を一錠取り出し、素早く口に入れた。
「早く効くといいですね」
「うん。ありがとう」
用の済んだ赤いポーチを鞄にしまった後も、千花の視線はしばらくそこに注がれていた。直哉の気遣いと優しさが、何だか偽物のようにすら思えてきてしまい、腹部なのか心なのかよく分からない所がズキズキと疼いて痛んだ。
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