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⑰(マスター視点)

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 昨晩磨いたサイフォンのセットを終え、ふう、と息を吐く。

 アルコールランプの炎のゆらめき。火をつけるマッチの燻った臭い。
 炎をまとったランプはこうこう、と小さな音と共にフラスコの水を温めていく。
 仁はこの一連の動作がたまらなく好きだった。
 数年前に置かれていた状況とは真逆の世界は、仁に安らぎを与えていた。
 温まった湯を、注いでいくと、ふわ、と立ち上がる香ばしい香り。

 ――今日もいい一日になりそうだ。

 最初の一杯を飲みに来る人は誰だろう。願わくば彼女であれ、と想像しながら仁の一日は始まる。
 表に置いていた板を『OPEN』にする。そして、コーヒーカップを温めていると、カランと来客を知らせるベルが鳴った。

「仁!」
健琉たける。珍しいな」

 今日の一杯目は健琉のものになりそうだと少し気を落として、仁は久方ぶりの旧友を迎え入れた。

「仕事で。外回りだよ」
「そう。コーヒー?食事は?」
「もちろん、コーヒー!あと、飯はガッツリ食いたいな」
「わかったよ。ハンバーグにしようか」

 今日初めの一杯をカップに注ぐ。香りは完璧だった。少し名残惜しいが、健琉に差し出す。そして、仁は調理にかかる。予め下ごしらえをしていたハンバーグのタネを常温に戻す間に、付け合せのポテトサラダとレタスを皿に盛る。

「……今日はどうだ?」
「……そうだな。ショーガイ製薬会社が、地方のある工場の株を少しだが買っている」
「……それで?」
「その工場では、他物質の影響をうけにくい、かつ浸透率の低いプラスチックを作っている」

 健琉が慌ててスマートフォンを弄りだした。恐らく市場を確認しているのだろう。
 常温に戻ったタネを、熱したフライパンに載せる。じゅ、と煙があがり、肉のやける香りが店内に広がった。

「他物質との混合が問題視されていたガン治療薬がもうすぐ承認になる」
「ってことは……」
「おそらく、ショーガイ製薬会社はそのプラスチックを使用して新薬専用の……」

 そこまで仁が伝えると、健琉は慌ててどこかに電話をかけだした。それを横目で見送る。そして、いい焦げ目がついているであろうハンバーグをひっくり返した。火を少し弱めて、蓋をする。オーブンに入れたいところだが、今日はまだ温まっていない。そのままじっくり蒸し焼きにするため、キッチンタイマーをセットした。

「相変わらずよく市場を見ているなぁ」
「……暮らすに困らない程度にね」
「とかいって、相当稼いでるんだろ?」

 健琉のからかいに対して、仁は無言を貫く。その無言が健琉のからかいが本物である証拠だった。
 古い作りのこの喫茶店の維持費は相当なものだ。店の売上だけでは到底間に合わない。
 昔の経験を生かして、所謂、個人投資を行っていた。

「……なぁ、戻ってこないのか」

 健琉の言葉に、仁はトマトを切っていた手を止めた。

「戻る……?」
「お前には、トレーダーとしての才能があるだろう?こんなしみったれた喫茶店にしがみつく意味があるのか」

 しみったれた。その言葉を聞いた瞬間、仁の頭に血が昇る。

 ……ぐしゃ。

 静かな喫茶店に似合わない音が響く。
 まな板の上に転がっていたトマトが、見るも無残に潰れていた。


「僕はね」
「……っ仁」
「才能とか、そんなものはもう必要ない。ここで過ごす時間が、僕に安らぎを与えてくれている」
「でも、仁……」

 引かない健琉に、仁は小さくため息をつく。
 証券会社で同期として共に働いていた仁と健琉だったが、もう別の道を歩んでいる。

 あることをきっかけに、仁は前職から身を引いた。偶然であったこの店の前マスターがそろそろ引退するというのを聞いて、思わず名乗り出たのが、七年前だった。

「今はお前があそこのトップだ。僕の情報なんてなくても、問題ないだろう?」
「……っそれでも!更科さらしなひとし !今でもこの名刺を欲しがる客は沢山いるんだぞ!?あんな事で名声を捨てるなんて……!」
「健琉」

 なおも引かない健琉に、仁は地を這うような低い声で牽制する。それ以上言うなと目を細めて健琉を睨む。

「ここではね、みんな僕のことをジンってよぶんだ。その名前は……もう、捨てたも同然なんだよ」

 視線がかち合う。しばらく見つめあった後、先に折れたのは健琉の方だった。

「……わかった。俺が悪かった」
「そう。それならいいんだ」

 トマトを載せるつもりだったが、つぶれてしまった。これは後ほどトマトソースにしようと決める。ピピ、とタイミングよくタイマーが鳴り響く。蓋を開けると、ふんわり膨らんだハンバーグ。それを付け合せを載せた皿に盛る。

「お待たせしました。ハンバーグセットです」
「……これ、大根おろしのソース?」
「何か問題でも?」
「……いや、何も無い」

 健琉が大根が苦手なのは、一緒に働いていた頃から知っていた。仁はそれを知っていて、態と健琉のハンバーグに載せた。この位の仕返しは可愛いものだと心の中で呟く。けれども、健琉はゆっくりハンバーグを口にしたあと、小さな声で「うまい」と呟いた。

「美味いだろう?」
「美味い」
「それはよかった」
「……なぁ」
「なんだ?」
「……また来ていいか?」

 もう来なくていいのに、と仁は心の中で呟く。

「いつでも。今度はゆっくり話そう」
「っ、そうだな!」

 それでも、健琉を自分は迎え入れてしまうのだろう。旧友に会うのは思いの外、楽しい事を仁はもう知っていた。

「ごちそうさま。本当に美味かった」
「おそまつさま」
「……また、来るな」
「はい。お待ちしています」

 スーツをきっちり着込んだ健琉の背中を見送る。お節介で、暑苦しい、優しい男だと仁はひとりごちる。

 片付けを始めると、油のはねたシャツが目に入る。住む世界が変わってしまったことをほんの少しだけ嘆く。けれども、ソースまで綺麗に食べ終えている皿を見ると、今の自分がいる場所は間違いではない。と、自信をもって言えた。
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