刻印のノッカー

アキハル

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2話

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 ある時代において6つの大陸があった。

 無数の国家が乱立し、剣を以て覇権を争っていたその大陸はある日、形を大きく変えることになった。

 巨大な物体が大陸に落下してきたのである。

 眉唾な一説によると某方なにがしかはカミなる存在であるという。

 カミはまさに宇宙という単位の生命体であり、全体を包括するための存在だったそれが骨肉を帯びながら低次元に落下してきたのだと。

 そして堕ちたカミは絶命していた。

 躯となって尚、宇宙を身に宿すその生命体は、大陸全土を跨ぐ巨体を大地に打ち付けると世界そのものを撒き散らした。

 大陸はまさに融解され。東方の端にあった国が西海岸に移動し、氷に覆われた南極が大陸の中央に飛んだりもした。また、この宇宙のどこか全く未知の次元に繋がってしまった地域もある。そして、遺体の撒き散らす成分は生き物の姿をも変えてしまった。





 俗に言う大陸融解である。

 そして生まれたのは超大陸と呼ばれる世界で最も大きな陸塊だった。

 しかし、人間が滅びたわけではない。

 無害な地域へ国土が飛ばされただけで済んだ国家は幾つかあった。

 また超大陸に取り込まれなかった小さな大陸や島は大陸融解の影響が少なかった。

 人間たちは新天地を拒絶し、慣れ親しんだ世界で変わらず営みを送ることを望んだ。





 大きく変わってしまった世界で過ぎること丁度60年。

 人が住める土地ではなくなってしまった超大陸の一角、四月半島。

 そのさらに一地域に堺町と呼ばれる共同体があった。





 朝日が水平線に顔を出し始めた頃。

 既に陽光が海に反射して境町を赤く染め上げていた。

 早朝までに課題を終えることが出来てよかったと互いを讃えながら、イグナートとナサニエルは戦利品を背負って中央通りを歩いていた。

 早朝の中央通りは商人たちが露店の準備に勤しんでいた。昨日の内に用意していた魚の干物や獣の干し肉がそこかしこに吊り下がり、周辺諸島の国々から輸入してきた調度品が路面に並べられている。

 今頃、漁港では漁で獲ってきた魚が捌かれて卸売市場に運び込まれていることだろう。

 時間はあるし寄ってみてもいいかもしれない。

「あのビスマスシャケまた買ってみるか」と話題を振ってみると、

「冗談じゃないよ。あんなの捌いたら包丁が全部ダメになる」

 不満そうにナサニエルは言った。残念だ。外見はさておき、ただの肉に変えてしまえば新大陸の異形も既存の生物もさほど違いはないというのに。

 するとナサニエルに気付いた行商人たちが一斉に手を振ってくる。

「おお、ナサニエル。なんだぁ? 今日は大漁かぁ?」と声をかけられると、

「この通り、徹夜で頑張ったんだよ」

 自信満々にイグナートの背負っているリュックを指差す。

 イグナートはそんな学友を尻目に仏頂面のままズカズカと歩いていった。

「ほら笑顔、笑顔」

 友人の囁きにイグナートの反応はない。





 水平線の朝日に照らされて眩く煌めく海を眺めながら大通りを進む。

 これで何度目かという体験だったがイグナートもナサニエルもこの光景は好きだった。

 広場を抜けて左手の大きな鐘楼のある塔を目指す。塔の下の学院に二人は小走りで入っていった。

 急ぎ、研究室に採集した結晶石と体液を置いていかなければならない。でなければ、朝の一限目に遅れてしまう。

 一階の通路では学徒たちが分厚い教科書を抱えて教室に向かっていた。

 廊下ですれ違う学徒はみな漆黒のローブを身に纏い、一様に育ちの良さを感じさせる気品と余裕を持っていた。

「おはよう、ナサニエル。随分疲れた顔だな。大丈夫かい」

「ああ、おはよう。大丈夫だよ。はりきりすぎちゃってね」

 軽く挨拶を交わした学徒はナサニエルに笑顔を送ると、イグナートを一瞥する。

「よう貧民」

 先ほどとは打って変わって汚物を見るような視線を送って学徒は去っていった。

 イグナートは何も応えない。

「気にすることないよ」とナサニエルが小声で言うも、

「何が? 俺は別に気にしてなんかいない」と苛立ちを取り繕うように無愛想に返した。

 先程の彼だけが特別なのではない。

 廊下ですれ違う者たちは皆似たような反応をイグナートに送った。ある者は突き刺すような冷たい視線を、ある者は剥き出しの敵意を、ある者は歪んだ笑みで嘲笑していた。

「あいつらにしてみれば森の探索なぞ小間使いの仕事。ズタボロになるまで痛めた服を纏い、全身傷だらけの人間なんてのは異界の住人なんだろうな」

「しょうがないよ。四月半島の住民としては彼らが一番変わり種なんだけど、学院の中だと不思議なことに僕らが圧倒的な少数派で彼らが多数派なんだ」

「学院の制度がおかしいんだよ。拝金主義に迎合してる」

「実際その通りだからねぇ……彼らは本物の貴族様なんだから。持てる者は上等な教育を受ける権利がある」

 故に貧民のイグナートやナサニエルなどは格好の的になるのだ。

 顔が良く愛想の良いナサニエルはそれでも人気があったがイグナートのほうは無愛想かつ不気味なので本気で誰からも嫌われていた。

 イグナートは不愉快ではあったがなるべく気にしないようにしていた。彼の人生において全く関わりのない人種であった貴族子女は興味の対象ではなかったので彼らから好かれたいと思ったことはなく、どれだけ嫌われようがどうでもよかった。ただ悪意にさらされている現状は疎ましく思っていた。

「そっとしておいてほしい。ああいう手合は何故煽りたがるんだ?」

「君の仏頂面を崩したいんだよ」

 ナサニエルは微笑みながら言った。事実なのだろうがはた迷惑な事実だと思った。

 だから廊下ですれ違う際もイグナートは平静を努めていた。そうしないと相手の思う壺ではないかと考えたのだ。ナサニエルは変わらぬ微笑みで愛想良く挨拶を躱していった。





 廊下の一角で一際薄暗さのある扉を前にする。彼らの所属するサンジェルマンの研究室だった。引き戸になっていてそのまま戸を開けるとなんてことのない埃がかった物置があるのみだが、ナサニエルは戸に手を掛けるとしばし瞑目した。

 特殊な顔料で描かれた数奇な文様に対して強力な集中を行う。

 それは世の理を歪める方程式のようなものだった。

 文様は思考を通すための経絡であり、万物を意のままに動かすための鍵だった。

 集中を終えて引き戸を開けるとそこは町外れの田園風景だった。

「先生の術式はいつ通してみても芸術的だねぇ」

 その正面に鎮座する一軒家こそサンジェルマンの研究室、否研究棟だった。

 扉を開けると居間、奥に台所があった。

 師の不在を気配から悟るとイグナートは採集品を居間の大きな机の上に置いた。

 一限目の準備をしなければならない。講義に用いる器具がないと話にならないが、金欠のイグナートにそんな用意はできなかった。

 一限目の内容を思い出し、舌打ちしながら台所の品々を物色し始める。

 適切な器具がないのでイグナートはあるものを持ち出した。

「嘘。まさかそこの鍋を使うつもりかい?」

「そうだ。文句あるか」

「いやそれは……ただの鍋じゃないか」

 様々な試薬を混入させて混合液を作り出す鍋は、専用の厚底鍋であることが望ましい。

 とにかく新大陸の物質というのは常識外れで、こちらの世界で所謂『酸性』と呼ばれるようなものは鐘楼の如き鍋であっても紙のように溶かしてしまう。

 安全上の問題においても十分な鍋を用意する必要があるのだ。

「そうだ。ただの鍋だ。文句あるか」と堂々とイグナートは開き直った。

「ああいや、うん……まぁしょうがないよね」

 他の学徒にとっては容易に準備できる品々であっても、貧民出身者にとっては縁遠い贅沢品だ。ナサニエルにしても同様の台所事情があるはずだがそこは世渡り上手。どこからか立派な鍋を用意していた。イグナートはどうせ女生徒を誑かし他に違いないと踏んでいたが真相はわからない。柔らかい物腰だが空恐ろしい強かさも兼ね備えた男がナサニエルだと理解していた。

 二人揃って勉強道具を詰め込んだ鍋を抱えるとまた戸口の前に立つ。

 ニ限目三限目を見越して大量の書物を鍋にぶち込んだイグナートはしかしその重さをなんら苦としていなかった。ナサニエルの分を抱えても。

「君を見ていると自分が貧弱に思えて来るよ」

「鍛え方が違うということだ」

 ナサニエルもまた貧しい生まれであったため自分はそれなりに逞しい人種だという自負があったがイグナートの前では頭が下がった。

「学友として、君に遅れを取るわけにはいかないね」とナサニエルは懐からロープを取り出した。

 ローブに隠して腰に巻いていたヒモを力強く掴むと、息を軽く吸い込み念じた。

 するとヒモはひとりでに動き出し、鍋を十字結びにすると提灯のようにぶら下げて這って進み始めた。これがナサニエルの秘術だった。

 あらかじめ刻印を記したヒモに思考の勁を通すことであたかも生物のように自在に操る。

 ヒモはナサニエルの意のままに動き、伸縮自在。ねじり巻いたヒモは蛇のような柔軟かつ強靭な筋肉の機能を有しており、結びを操ることで四足獣や二本足の人形すら模してしまう。

 蛇が鍋を咥えているかのような格好だったがぐるぐると結びを変えることで藁人形のような形を取ると軽快に手を挙げてイグナートに挨拶をした。

「こいつらに運んでもらおう。他の連中は下人を使って教室まで運び込んでるんだ。僕らもそれに習うべきだと思うね」

「……ふん」

 友人の前でみっともないが歯軋りしてしまった。

 正直に言うとは苛立ちを隠せなかった。これが天才の業なのである。

 単純に物体を動かしす念動は初歩の初歩である。

 イグナートも刻印を刻んだ石を割ったり浮かしたりといった芸当は造作もない。しかし、ナサニエルはヒモという細長い物体に命を吹き込むが如く変幻自在に操るため巧拙の差でいえば天と地の差。

 そんな技術を超えた曲芸を自信満々に披露してくるのだから、厭味ったらしい。

「ほら、先に行こうよ」とこっちの気も知らないで急かしてくるのだから、実際に性格が悪いのではないかと疑いたくなってくる。

 あまり考えたくないことに思い至ったのでイグナートはナサニエルを差し置いて歩を進めた。今度は苛立ちを隠そうともしない。ともすれば嘲笑ってきた学徒よりも才能を見せつけてくる同僚の方がよほど厭味ったらしく疎ましい。

「おいおい、ちょっと待ってくれよ」

 自分の紐にイグナートの分まで荷物を持たせるつもりだったナサニエルは予想外の反応に困惑していた。しかし、イグナートの足が止まることはない。

「君は強情だなぁ」

そういってナサニエルは微笑むとイグナートを追いかけた。

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