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アンドロイド編

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{菖蒲ヶ原雪子個人日誌}

 私はもうすぐ六十五歳になろうとしている。朧が亡くなってから数年経つが、寂しさが今なおまとわりついて離れない。慎二はよく働いてくれる。こうして、新鮮な野草や魚や鳥を食べられるのも孝行息子のおかげだ。ただ気候の変動がひどくて、食べられない日も多くなってきた。あの子は有機物であれば何でもエネルギー源にしてしまうので、食べ物の心配はない。私がいなかったら、もっと自由に行動できたのにと申し訳なく思う。最近は夢を見てばかりで こっちの世界に興味がないように思えるのは気のせいかしら。あの子がどこかに行ってしまうのではないかと、私は不安でたまらない。 
   

「ただいま、菖蒲ヶ原さん」
「今日も遅かったわね」
「まあね」
「また、夢を見ていたんでしょう」
「そうだけど、違うんだ」
「違うって、どういうこと」
「目覚めたんだ。とっても長い夢を見ていたけど、さっき終わったよ。あるべき場所に帰るようにと、雄別朝子に言われたような気がするんだ」
「朧に。ええーと、また浸透膜ダイブの時の夢を見ていたのかしら」
「菖蒲ヶ原さん、雄別昼子を知ってるか」
「うう~ん、知っているけど」       」
「さっきまで運転手をしてたよ」 
「ああ、そういうこともあったわね」
「腕のいいドライバーだった」


{菖蒲ヶ原雪子個人日誌}

 日誌を書くのも、これで最後だと思う。人類の終りに私は一生懸命に生きたけれど、その証はどれほど残されているのだろう。私は、ほんとうにここに生まれてきたのだろうか。私の一生は誰かの夢の中の出来事ではないか。私の存在はフェイクなのではないか。朧がいなくなってから、確かなものを感じられない。 
 

「菖蒲ヶ原さん、いまから注射を打つよ。これで痛みはなくなるはずだから」
「ああ、ううーん」
 癌細胞の浸潤による耐えがたい苦痛に、老女は身をよじっていた。意識が混濁して、すでに一週間以上が経過している。体力は限界に達し、慎二の献身的な看病だけでなんとか生を繋いでいる状態だった。
「ちょっとチクッとするけど、我慢して」
 研究所のラボで、彼は以前より薬の調合をしていた。麻薬成分を含んだ野草や薬草を育ててその成分を抽出し、医療用の鎮痛薬として精製したのだ。
「ああ~、ふう」
 特別調合の鎮痛剤は驚くほど速く、そして良く効いた。
「効いたみたいだね、間に合って良かった。これでもう痛みに苦しむことはないよ、菖蒲ヶ原さん」
 久方ぶりの平穏に、雪子の意識がはっきりとする。 
「私、夢を見ていたわ」
「どんな夢を」
「高校生になっていたの。恋人ができて、その男の子とマラソンをして、踊って、お立ち台の上でキスをした。一緒にデートして、イチャイチャして。そういえば、あなたに似ていたわ。とってもイケメンで、ちょっとシニカルで、どこか憂い気で」
「まるで菖蒲ヶ原さんみたいだね」
「私は美人かもしれないけれど、イケメンではないわ」
 鎮痛薬に続いて、体力をほんの少し元気づける点滴が打たれた。栄養が体中に浸透していく心地良さに、雪子は目をつむって浴している。五分ほど、そうしていた。  
「慎二」
「なに、菖蒲ヶ原さん」
 いまは、しっかりと目を開けて見ていた。
「私は、あとどれくらいなの」
 我ながら辛辣な質問だと、雪子は自嘲気味に思った。それに対する慎二の答えはシンプルすぎて、ある意味、彼女の予想を超えていた。
「もうすぐだよ」
「そう。そうなのね」
 落胆するということでもなかった。雪子は、自分のことをよくわかっていた。かえって、はっきりと言ってくれたことに感謝していた。
「慎二」
「はい」
「朧は、どうしてあなたを創ったの。私たちが何故あなたの中に入ったのか、それがわかる」
 唐突な問いに即答できなかった。雪子は仰臥したまま首を少し傾げて、生気のない目で見つめた。ややしばらく考えてから、慎二は答えた。
「俺は、この星で最後の生き残りとなるだろう。人類の記録を管理させるために、朧が俺を造ったんだ」
「いいえ、違う。ぜんぜん違うよ」
 乾いた声だった。小さくなった身体がもそもそと動く。慎二にできるだけ近づこうとしていた。
「あなたをね、ただの機械的なアーカイブにするためじゃない。あなたに心をもってほしかったのよ。柔らかくてしなやかで、それでいて強靭な精神をね。朧はあなたにセルフを見つけさせようとしていた」
「セルフとは」
「あなたの中心となるものよ。あなた自身であり、真のあなた。その中には私も朧も、赤川君やご両親やピーちゃんもいる。あなたであり、わたしであり、すべてなの」
 形而上の課題を出されているような気がしていた。慎二はある言葉を得て、それを差しだした。
「魂、ということなのかな」
 雪子は答えないが、うっすらとほほ笑んだ。
「伝えて」
「なにを」
「あなたが生きた世界のことを。あなたが出会った人や経験したこと、好きになった人や友だちのこと、そして家族のことを。あなたが生きている世界はこんなにも素晴らしくて、愛に満ちていて、尊いものだと」
 まるで自分が見て、それらの幸運を経験してきたかのように瞳が潤んでいた。
「うん、わかったよ」
「きっとよ」
 雪子はとても穏やかで、いつになくいい笑顔を見せた。しゃべるだけしゃべったので、相当に疲れたようだ。くうくうと、その歳にしては可愛げな寝息を立てて眠ってしまった。
 菖蒲ヶ原雪子は、その日の深夜に息を引き取った。
 夜が明けるのを待って、慎二は一人で葬儀を執り行う。弔辞はなかった。彼の中では雪子は生き続けている。夢の中での出来事は、記憶に劣化のない慎二にとってはリアルと変わらない。その限りなく大きなセルフに、しっかりと刻み込まれているのだ。
 研究所脇の敷地に、ありったけの木材が集められた。高く積まれたその中心には、雪子の遺体が置かれている。彼女の人生を偲ぶように、炎は高く勢いよく燃えた。遺骨を拾い終えた慎二は、まだ熱く火照っているすべてを容器に収めた。
「菖蒲ヶ原さん、朧のそばに置くよ」
 雪子は、朧の遺骨と一緒に安置された。
「さようなら。でも、俺たちはいつまでも一緒なんだ」
 その短い言葉には、永遠の時が共有されていた。 

 来る日も来る日も、慎二は二人のお墓へ行き、掃除をしては周辺を整えた。生前の雪子が希望していた通りに、花の種を植えた。天候が破滅的となり、荒れ果てた大地は生命の萌芽を嫌い続け、容易に受け入れなかった。だが慎二は諦めず、保管していた種を何度も何度も繰り返し植えた。そうして十数回目の春、ようやく小さな芽吹きを得ることができた。その頃には、あれだけ狂っていた天候も穏当なものとなり、四季を感じられるようになった。人類は絶えてしまったが、この星は新たなる開闢を迎える準備に入っていた。 
 地球上にたった一人となっても、慎二は日々を規則正しく生きていた。朝早くに墓地を清掃し、花々に付いた病害虫の処理や施肥をして午前を過ごすと、少しばかりの有機物を摂取して、午後は周辺の整備にあてた。荒地を耕し、均一にならしてから芝を植えた。ジャーマンアイリスやカキツバタ、ヒオウギアヤメなども植えて、それらは可憐な花を咲かせた。
 クルミやナナカマド、蝦夷山桜、エゾノコリンゴなどの樹木も加えた。山ブドウやサルナシが誘われるように生い茂り、ほとんど見かけなくなっていた小鳥や小動物が戻ってきた。雪子や朧が眠る地に、たくさんの生命が溢れたことに慎二は満足していた。
 ある日の早暁、慎二は雀の卵から雛が孵ったと、二人に昨日の出来事を報告すると、そこへ居座った。その日から、彼が墓所周辺を離れることはなかった。真夏の太陽が灼熱を放射しようとも、どんなに猛烈な雨風が打ちつけようとも、強い寒気で大地が凍てつこうとも、その場にとどまり続けた。   
 百数十年が経過した。
 ひょろひょろとした樹木の数々が大樹となり、風格さえ漂わせていた。墓所周辺は閑静な森となり、桜やコリンゴが見事な花を咲かせた。風が吹くたびに、淡い香りとともに無数の花びらを宙に舞わせていた。慎二は専属庭師となって二人の世話を続けていたが、度重なる年月が、彼の姿を自然へと戻そうとしていた。
 その筐体のかなりの部分が苔生している。表面の合成皮膚はあちこち剥がれ、一部は侵食が激しく骨格がむき出しとなっていた。右目の視界は完全に効かなくなった。左足の膝から先が破損し、とてもスローな歩き方であった。脳の基幹である有機半導体はなんとか劣化せずにすんでいるが、それとて耐用年数の限界に近づいていた。庭師は、近い将来に自分の命が尽きてしまうだろうことを承知している。
 遅めの春が佳境に入り、もうすぐ初夏を迎えようとしていた。墓碑を囲むアヤメ群が深山の冷気に包まれて、うっすらと靄がかかる。藍と白が絶妙なコントラストを見せて、幻想的な風景を創りだしていた。
 ある日のある時、晴れてはいるが薄雲がかかった水色の空から、巨大な物体がいくつも舞い降りてきた。すべてが直立した直方体であり、それぞれの長さは数百メートルから数キロメートルに及んだ。
 それらは銀河間を旅する異星人の探査船であった。かつて地球が英知であふれていた時代に発信された電磁波が、彼らの亜空間通信網に引っかかり、メッセージを受け取ったのだ。ただし到着は大幅に遅れた。ワームホールを人工的に造り出す彼らの技術を要しても、この星まで来るのには百年以上の行程を必要とした。
 探査船の一つがゆっくりと降下してきた。どれほど卓越した機関が作動しているのか、空気の揺れはまったくなかった。静寂の中を、高層ビルほどもある直方体が地上数十センチを保って静止している。慎二が眩しそうに見上げ、彼の森が凛然たる態度で迎えた。
 淡い光を灯した透明タラップから降りてきたのは、二足歩行の異星人たちだ。見かけが物々しくメタリックに見えるのは、生身の身体を保護する防護服を着ているからである。中身はいたって温厚な種族であり、銀河間を旅している目的は、純粋な科学的好奇心と未知の知的生命体とのファーストコンタクトにあった。
 訪問者たちは、地球上に唯一生存している人類の前までやってきた。慎二のほぼすべては、一秒の百分の一ほどの間にスキャンされた。彼らは朧が創造したバイオチップに直接語りかけすることもできたが、この星の慣習にのっとり、あえて空気を振動させる伝達方法を選択した。
 貴殿はアンドロイドとして寿命がつきかけている。我々は深宇宙の旅を続けるが、一緒に来るのなら歓迎する。新たな身体を用意して寿命を半永久的にできる、と礼儀をつくして申し出た。
 慎二は、自分はこの星で生涯を終えると決めているので一緒には行けないけれど、申し出には感謝したいと言った。異星人たちは彼の意志を尊重する。ただ、この星の歴史的な資料として、有機半導体内にある人類のデータのコピーを願い、持ち主は快く承諾した。
 しかしながら、データに強い保護がかかっている領域があり、強硬的にスキャンするには躊躇いがあった。礼儀を重んじる彼らは、どのような情報なのかと問うた。それは、この星で最も尊いものだと慎二は答えた。好奇心旺盛な異星人たちは、是非とも教えてほしいと言った。  
 慎二は快諾し、そして溌溂とした声で話し始めた。
「菖蒲ヶ原さんは女子高生ドラマーで、動画でもすごい人気なんですよ。たまご焼きを作らせたら天下一品で、甘くてさあ、とろけちゃうんだ。ドSで孤高を気取っているけど、ほんとうはすごく優しいんです。朧は中学の後輩なんだけど、高校にいかずに社会人として働いていて、じつはすごいやつ。ちょっと口が悪いんだけどさ。赤川はイケメンで人気者だけど、中学の時は橋の下でエロ本を集めるのが趣味だったりして、それから」

                                              おわり
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