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閑話 ある日のキーランの夢
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俺は、あの人間が恋しかったのかもしれない――。
冷たい雨の中、空っぽの頭はもう何も考えられなくなっていた。
いつもなら、毛が濡れるのは気持ち悪くて嫌なのに、それすらもどうでもいい……。
ただただ強く激しく流れる川を眺めていた。その川に向かって、足を一歩踏み出した時――
「残念だが……お前のその魔力では、簡単に死ぬことはできぬぞ」
突然声をかけられた。
濁った川に前足の肉球が触れる寸前で、動きを止めて足を引っ込める。声の主を探そうと、片目でキョロキョロ辺りを見渡すが、誰も見つからない。
……空耳? 人の気配なんて感じない。
「何処を見ている? 上だ」
上?
首を上げると、暗い雨空に深紅に鋭く光る二つの眼球が。
空中に浮かび、無表情で見下ろしているその男の周りだけ、雨は降っていなかった。
◆
……お腹空いたな。
くり抜かれた片方の目。酷かったはずの痛みは、だんだん感覚が無くなり、もう何も感じなくなってきていた。
背の高い葉っぱの中で、俺は隠れるように倒れている。眠いわけじゃないんだ。ただ、もう手足が上手く動かないだけ。
あ~あ、失敗したなぁ。
よく食べ物をくれて、優しく撫でてくれたから……人間を信用した俺がバカだったんだ。
今まで、長いこと気ままに生きて来たのにさっ。
見えてた片方の視界も、霞んでくる。
遠くで、ガサガサと音が聞こえた。
だけど、それを確かめることさえ出来ないや。
……ああ、でもやっとだ。
これで、俺は死ねるのかな?
◇
甘い香りが、鼻をくすぐった。
……ん、美味しそうな匂いだ。
そう思ったら、片方の目が開いた。俺、死んでなかったのか。
ギイーッと、扉が鳴った。
すると。
知らない人間が、何かを両手に持ったまま「よっ!」と扉を足で開けた。そのまま、こっちに向かってやって来る。
――に、人間っ!?
全身がゾクゾクして毛が逆立つ。
逃げなきゃだっ。
「安心しろ、何もしない。お前、人間の言葉が分かるんだろ? ああ、隠す必要ない。私にはお前の魔力を感じることが出来るからな」
どういうことだ?
なんで、俺が魔物だって知っているんだ?
「そう、首を傾げるな。可愛くて食べてしまいたくなる」
――ひっ!
こいつに食べられるのか、俺っ!?
「ぶっ! 嘘だよ、嘘! やっぱり言葉が解るんだな。私はただの医者だ。お前を手当てしてやっただけだ。取って食ったりはしないよ」
ボサボサした髪を引っ詰めた女は、ドカッと目の前に腰を下ろすと、手に持っていた木のスプーンを突き出した。
また……毒を飲まされるのか?
「ほら、飲め。……無理なら、少しでいいから舐めろ。その傷の化膿を止める薬だ。この薬草は、甘くて美味いぞ」
ぶっきらぼうな言い方のくせに、そんな泣きそうな顔で俺を見るな……。信じたくなっちゃうじゃないか。
「……その目。人間にやられたんだろ? 魔力を持った動物の眼を、呪術に使う輩がいるからな。……人間が、すまなかった」
自分がやった事じゃないのに、何で謝るんだろう。怪我した俺より、よっぽど痛そうだ。
仕方ないから、騙されてやるよ。どうせ、死ぬところだったんだ。
そのスプーンを、ペロッと一口舐める。
――!? なんだ……甘くてうまい!
気がついたら皿は空っぽで、女は嬉しそうに俺を見ていた。
◇
女は近所のガキどもから『先生』と呼ばれていた。
散歩ついでに、人間の話をこっそり聞くのが最近の俺の日課だ。
『先生』は薬師ってやつで、国の偉い所で働いていたが、何かがあって田舎に引っ込んできたらしい。
「若いのにもったいない」と、お節介な人間は言っていた。
まあ、そんな人間の事情なんて分からないが。
『先生』のお陰で、病気や怪我が治って良かったと喜んでいる人間もいるから、これでいいんだろう。
「おーい、ケリー! ご飯だぞぉ~」
遠くから、センセーが呼ぶ声が聞こえた。
「ニャアーオ」と返事をして、俺は塀から飛び降り向かう。
ある日「名前がないと不便だから、キーランでどうだ?」そう言って、俺に名前をつけた。
しばらく経つと「ケリーの方が短くていいな」と、勝手に呼び方を変えてしまった。どうやら、愛称っていうやつらしいが。
そんな気ままなセンセーが、俺は嫌いじゃなかった。
いや、多分……好きだった。
赤茶色のボサボサ髪も、優しい瞳も、薬草採取でガサガサの手だって安心できた。
他の人間は『先生』を薬師って言っていたが、俺は違うと分かっていたんだ。家の中には、たくさんの魔術に使う道具や本が埃を被っていたから。
俺の魔力にも気がついたくらいだ。普通の人間ではない。
――俺の眼を奪った奴と、同じかもしれない。
でも、そんな事はどうでもいい。
ただ、この時間が続けばそれで良かった。
◇
その日、センセーは独り言のように、過去の事を話し出した。それは、生きる為にしてきたことの懺悔というものらしい。
センセーはずっと孤独だった。
「ケリーは頭が良いから、覚えておくといい」
そう言って、魔術や魔道具の話を毎日するようになった。
その頃から感じていた、センセーから漂う独特の匂い。匂いの正体は……死期を知らせるものだった。
「やっぱり、臭うか? そろそろ、この痛み止めも効かなくなりそうだ」
痛み止め?
それから、センセーはしょっちゅう顔をしかめるようになると、ベッドから起き上がれなくなった。
「なあ、ケリー。私の話、覚えているか? 私は、生まれてきたこと自体が失敗だと言われて育った」
覚えているさ、センセーに意地悪言うやつ、俺は大嫌いだ!
「はは……ケリー怒らないで。だって、今ケリーとこうして居られることが、私はとても嬉しいんだ。失敗か成功か……幸せか不幸か……それは、他人が決めることじゃないからね」
怒りでフンフンッと鼻息が荒くなっていた俺の頭を、センセーは優しく撫でる。
「私は今、不幸でもなければ失敗でもない。幸せなんだ」
そうなのか? ならいいけど。
「うん。それはね、きっと最後の時が来るまで決まらないんだよ。だからね、ケリー……この力は君にあげよう。いつか出会う幸せの為に、私からのプレゼント」
頭に乗せられたセンセーの手から、あったかい何かが全身に流れ込んできた。
それが止むと、パタリと手が落ちた。
真っ黒だった俺の毛が、センセーと同じ赤茶色になっている。
だけどセンセーは、もう動いてくれなくなった。
◆
センセー色になった俺。
川に映れば、センセーがそこに居そうな気がしたんだ。
『俺は、死なないよ。川で、自分の姿が見たいんだ』
見下ろす男に向かって言った。
だって、センセーは最後に『――生きて、自分で選びなさい』そう言ったんだ。
「そうか……。ならば私と共に来るか?」
そう尋ねた男の顔は、いつか見た……センセーと同じ表情だった。
答えは、簡単に決まる。
――それが、俺と魔王様との出会いだった。
◇◇◇
「……リー。……ケリー、そろそろ起きて」
まだ眠くて、ふぁぁ~と欠伸が出る。
「まったく、可愛くて食べちゃいたいわっ」
………!!
パッと目を開けると、ヒナがクスクス笑っていた。
揺れる馬車の中、公爵邸に向かっていたんだ。ヒナの膝の上で眠っていたことを思い出す。
ずっと昔の……夢を見ていたんだ。
あれから魔王様の眷属になって、無くなったはずの目は魔眼になっていた。
久しぶりに見た夢の中のセンセーの顔は、笑っていた気がする。
――うん。
センセー、俺は今ちゃんと幸せだよ!
冷たい雨の中、空っぽの頭はもう何も考えられなくなっていた。
いつもなら、毛が濡れるのは気持ち悪くて嫌なのに、それすらもどうでもいい……。
ただただ強く激しく流れる川を眺めていた。その川に向かって、足を一歩踏み出した時――
「残念だが……お前のその魔力では、簡単に死ぬことはできぬぞ」
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濁った川に前足の肉球が触れる寸前で、動きを止めて足を引っ込める。声の主を探そうと、片目でキョロキョロ辺りを見渡すが、誰も見つからない。
……空耳? 人の気配なんて感じない。
「何処を見ている? 上だ」
上?
首を上げると、暗い雨空に深紅に鋭く光る二つの眼球が。
空中に浮かび、無表情で見下ろしているその男の周りだけ、雨は降っていなかった。
◆
……お腹空いたな。
くり抜かれた片方の目。酷かったはずの痛みは、だんだん感覚が無くなり、もう何も感じなくなってきていた。
背の高い葉っぱの中で、俺は隠れるように倒れている。眠いわけじゃないんだ。ただ、もう手足が上手く動かないだけ。
あ~あ、失敗したなぁ。
よく食べ物をくれて、優しく撫でてくれたから……人間を信用した俺がバカだったんだ。
今まで、長いこと気ままに生きて来たのにさっ。
見えてた片方の視界も、霞んでくる。
遠くで、ガサガサと音が聞こえた。
だけど、それを確かめることさえ出来ないや。
……ああ、でもやっとだ。
これで、俺は死ねるのかな?
◇
甘い香りが、鼻をくすぐった。
……ん、美味しそうな匂いだ。
そう思ったら、片方の目が開いた。俺、死んでなかったのか。
ギイーッと、扉が鳴った。
すると。
知らない人間が、何かを両手に持ったまま「よっ!」と扉を足で開けた。そのまま、こっちに向かってやって来る。
――に、人間っ!?
全身がゾクゾクして毛が逆立つ。
逃げなきゃだっ。
「安心しろ、何もしない。お前、人間の言葉が分かるんだろ? ああ、隠す必要ない。私にはお前の魔力を感じることが出来るからな」
どういうことだ?
なんで、俺が魔物だって知っているんだ?
「そう、首を傾げるな。可愛くて食べてしまいたくなる」
――ひっ!
こいつに食べられるのか、俺っ!?
「ぶっ! 嘘だよ、嘘! やっぱり言葉が解るんだな。私はただの医者だ。お前を手当てしてやっただけだ。取って食ったりはしないよ」
ボサボサした髪を引っ詰めた女は、ドカッと目の前に腰を下ろすと、手に持っていた木のスプーンを突き出した。
また……毒を飲まされるのか?
「ほら、飲め。……無理なら、少しでいいから舐めろ。その傷の化膿を止める薬だ。この薬草は、甘くて美味いぞ」
ぶっきらぼうな言い方のくせに、そんな泣きそうな顔で俺を見るな……。信じたくなっちゃうじゃないか。
「……その目。人間にやられたんだろ? 魔力を持った動物の眼を、呪術に使う輩がいるからな。……人間が、すまなかった」
自分がやった事じゃないのに、何で謝るんだろう。怪我した俺より、よっぽど痛そうだ。
仕方ないから、騙されてやるよ。どうせ、死ぬところだったんだ。
そのスプーンを、ペロッと一口舐める。
――!? なんだ……甘くてうまい!
気がついたら皿は空っぽで、女は嬉しそうに俺を見ていた。
◇
女は近所のガキどもから『先生』と呼ばれていた。
散歩ついでに、人間の話をこっそり聞くのが最近の俺の日課だ。
『先生』は薬師ってやつで、国の偉い所で働いていたが、何かがあって田舎に引っ込んできたらしい。
「若いのにもったいない」と、お節介な人間は言っていた。
まあ、そんな人間の事情なんて分からないが。
『先生』のお陰で、病気や怪我が治って良かったと喜んでいる人間もいるから、これでいいんだろう。
「おーい、ケリー! ご飯だぞぉ~」
遠くから、センセーが呼ぶ声が聞こえた。
「ニャアーオ」と返事をして、俺は塀から飛び降り向かう。
ある日「名前がないと不便だから、キーランでどうだ?」そう言って、俺に名前をつけた。
しばらく経つと「ケリーの方が短くていいな」と、勝手に呼び方を変えてしまった。どうやら、愛称っていうやつらしいが。
そんな気ままなセンセーが、俺は嫌いじゃなかった。
いや、多分……好きだった。
赤茶色のボサボサ髪も、優しい瞳も、薬草採取でガサガサの手だって安心できた。
他の人間は『先生』を薬師って言っていたが、俺は違うと分かっていたんだ。家の中には、たくさんの魔術に使う道具や本が埃を被っていたから。
俺の魔力にも気がついたくらいだ。普通の人間ではない。
――俺の眼を奪った奴と、同じかもしれない。
でも、そんな事はどうでもいい。
ただ、この時間が続けばそれで良かった。
◇
その日、センセーは独り言のように、過去の事を話し出した。それは、生きる為にしてきたことの懺悔というものらしい。
センセーはずっと孤独だった。
「ケリーは頭が良いから、覚えておくといい」
そう言って、魔術や魔道具の話を毎日するようになった。
その頃から感じていた、センセーから漂う独特の匂い。匂いの正体は……死期を知らせるものだった。
「やっぱり、臭うか? そろそろ、この痛み止めも効かなくなりそうだ」
痛み止め?
それから、センセーはしょっちゅう顔をしかめるようになると、ベッドから起き上がれなくなった。
「なあ、ケリー。私の話、覚えているか? 私は、生まれてきたこと自体が失敗だと言われて育った」
覚えているさ、センセーに意地悪言うやつ、俺は大嫌いだ!
「はは……ケリー怒らないで。だって、今ケリーとこうして居られることが、私はとても嬉しいんだ。失敗か成功か……幸せか不幸か……それは、他人が決めることじゃないからね」
怒りでフンフンッと鼻息が荒くなっていた俺の頭を、センセーは優しく撫でる。
「私は今、不幸でもなければ失敗でもない。幸せなんだ」
そうなのか? ならいいけど。
「うん。それはね、きっと最後の時が来るまで決まらないんだよ。だからね、ケリー……この力は君にあげよう。いつか出会う幸せの為に、私からのプレゼント」
頭に乗せられたセンセーの手から、あったかい何かが全身に流れ込んできた。
それが止むと、パタリと手が落ちた。
真っ黒だった俺の毛が、センセーと同じ赤茶色になっている。
だけどセンセーは、もう動いてくれなくなった。
◆
センセー色になった俺。
川に映れば、センセーがそこに居そうな気がしたんだ。
『俺は、死なないよ。川で、自分の姿が見たいんだ』
見下ろす男に向かって言った。
だって、センセーは最後に『――生きて、自分で選びなさい』そう言ったんだ。
「そうか……。ならば私と共に来るか?」
そう尋ねた男の顔は、いつか見た……センセーと同じ表情だった。
答えは、簡単に決まる。
――それが、俺と魔王様との出会いだった。
◇◇◇
「……リー。……ケリー、そろそろ起きて」
まだ眠くて、ふぁぁ~と欠伸が出る。
「まったく、可愛くて食べちゃいたいわっ」
………!!
パッと目を開けると、ヒナがクスクス笑っていた。
揺れる馬車の中、公爵邸に向かっていたんだ。ヒナの膝の上で眠っていたことを思い出す。
ずっと昔の……夢を見ていたんだ。
あれから魔王様の眷属になって、無くなったはずの目は魔眼になっていた。
久しぶりに見た夢の中のセンセーの顔は、笑っていた気がする。
――うん。
センセー、俺は今ちゃんと幸せだよ!
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