彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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彼岸よ、ララバイ!②

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 修学旅行先に向かう途中の不慮の事故は、全国各地で大々的に取り上げられた。連日連夜、事故が起きた原因をコメンテーターが侃々諤々とやり合いながら、死亡した生徒の生前の様子をアナウンサーが言葉を詰まらせて伝える。そんな中、たった一人だけ病院に担ぎ込まれることもなく五体満足な俺に下賤な週刊誌は働きかけてくる。原稿料と耳目を集めるための劇的な序文を求める記者は、俺に突飛な言葉を吐かせようと唆してくる。唐変木に振る舞えば、図らずも心的外傷と汲み取られ、治療のために通院するハメになったのは人知れず詫びた。

 ここまでが、回顧録である。目に見えぬ時間の隙間を自由自在に回遊し、命に関わる危機的状況から脱した瞬間、世界の理へ引き戻される。分不相応な力の扱い方は、心得ていたつもりだ。だがしかし、今はどうだ。世界が静止したまま動き出す気配がないではないか。ここに留まっていても、事態が収束するように思えない。俺は外へ出た。

 静止した世界で時間の流れを意識しようとするのは何より苦痛で砂を噛むより明らかだ。一瞬を切り取って貼り付けた世界は、物静かで耳をそばだてる甲斐がない。俺がこの世界で唯一楽しめたのは、町の風景であった。電話越しに頭を下げるサラリーマンの眉間に寄ったシワや、電柱に向かって足を上げた犬の間抜けな姿。車中を覗き込めば、交通事故が起きてもおかしくない運転手たちの悪性が見えてくる。

 ふらふらと、とりとめがない足取りでも、一つ分かったことがある。それは、疲労や発汗などといった、人間らしい生理的反応が一切起きないことだ。俺は爪の突端に指をかけ、飛行機の離陸を手伝うかのようにやおら押し上げる。爪に白い雲が立ち込め、指先から離れようと幾つもの赤い足が背伸びを始めた。それは次第に糸のようにほつれだし、爪の独り立ちを他人事めいた眼差しで眺める俺がいる。思っていた通り、痛みも何も感じない。

 俺は地面に突っ伏した。この状況を全く予期していなかった訳じゃない。しかし、想像した所で何もできないのだから、深刻に思い悩むことすらしなかった。見上げた空が書割りのように薄っぺらに見える。まるで自分以外、全て偽物であるかのように思えた。こんな世界に必死になって溶け込もうとしていた俺は、どれだけ阿呆なのか。もっと、心地の良い生き方が他にあったはずだ。それを探すことなく、迎合することにかけて斯も拘った。度し難い。だが、湯気のように朧げで所在ない日常は今ここにない。漸く自己を把捉することに至って、窒息気味だった身体に酸素が回った気分だ。さあ、どこへ行こうか。思い付きもしなかった大陸横断、果ては海を渡り、氷河を見に行くのも面白そうである。気の向くまま、永い余生を楽しむとしよう。
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